その娘、危険なワイフ【連載小説】(10/22)



【続、2016年9月21日(水)】
 大通りはどこまで行っても大通り。
 県を縦断する4車線は、両脇に煌々と光を蓄えて広い道を照らしている。いずれ免許は取るつもりでいるものの、こんな大通りを運転するなんて想像がつかない。
 まるで他人事。でもどう思おうとやらざるを得ない時が来る。ところてん式に押し出されて、無理矢理にでも表舞台に立たなければいけなくなる。一つ一つは小さなことでも、一つ一つ勇気を振り絞って、気づいたらできるようになっている。その差は考えるよりきっと、ずっと大きい。
「ごめんね、無理矢理」
 句読点。すぐに収束する一文は純粋な謝罪。
 寺岡さんは両手でハンドルを握りながら言った。左車線。左折をしていく車に合わせてアクセルを緩める。3つ目の信号を越えた所で右車線に移った。
「いつもあの時間帯にも顔出してるの?」
「いえ、今日はたまたま」
 絞った音量。カーオーディオから聞こえてくるのは洋楽だった。意味が分からないことを楽しそうに歌って落ち着かせようとしてくれる。それは寺岡さんも同じだった。
「そっか。五十嵐や佐久間さんもいれば、それはそれで楽しそうだね」
 そうして信号で止まると同時に頭をかく。
「……と、この間はごめん。みっともない所を見せた」
 言いながらこっちを向く。運転中で油断していたため、不意打ちに目をそらす。どんな顔をしたらいいのか分からなかった。
「嫌な気分にさせて悪かったよ」
 確かに嫌だと思った。でもたぶん悪いのは、嫌だと思うことをこの人にさせた何かだ。いつだってやさしかったこの人に、そんな言い方をさせた何かだ。それなのに。
 みっともないって何だろう。
「感情的になること、かな」
 言うと二股に分かれた道に沿って進む。左手の車線、分かれた先にはキラキラやけに大袈裟なネオンの明かりが見えた。あれがいわゆるラブホであるということは、大学生になってから知った。
「感情的になるのはみっともないことですか?」
「そうだね」
 よく分からない。うれしい時うれしいと喜ぶのは、悲しい時悲しいと泣くのは、いけないことなのだろうか。
「明日はすぐ来るから。一つ一つの感情に振り回されていられないんだよ」
 シャカイ、というのは喜んだり泣いたりするヒマを与えてくれないらしい。なんて冷たいんだろうと思うが、買ったばかりの携帯を側溝に落としてしまっても、車掌さんは翌日電車を時間通りに動かさなきゃいけないんだから、確かに悲しんでいるヒマはなかった。
「でも押し殺すことばっか上手くなって、うまく感情表現ができなくなった時、代わりにしてくれる相手がいると助かるのも事実なんだ。小出なんかは特にそうで、アイツが俺の分も吐き出してくれる」
 俺、という一人称にどきりとした。寺岡さんはあたしといる時、膝を曲げるようにして「僕」を使う。ブラザーにはその必要がなかった。
「感情的にならないことが必ずしも大人じゃなくても、感情的になってるのは子供に思えます」
 何となく分かってくる。だからブラザーは話しやすいのだ。大人なのに近い距離で「お願い」と甘えやすい。ブラザーはよく「しょうがないなぁ」と言った。
「それなんだよね」
 陸橋の起伏を越えて東に向かう。大通りに交差した大通り。さっきほど広くはなくても、両脇の明かりの多さも大通りに分類する一材料になる。寺岡さんは口元に手を添えた。
「『しょうがないなぁアイツは』ってよく言ってる。手がかかるって。君が子供扱いされるのを嫌がるっていうのを聞いたのもアイツからだ」
〈君は子供扱いされるのを嫌う、と言っていた〉
 確かにそう言った。それはその後に「小出から」という言葉が隠されていた。
「しょうがない、って」
 車が減速する。不意にこっちを向くかもしれないと思っても、目を離せなくなる。
 これは、この表情は
「本当は僕が言いたいんだよね」
 他人事のような調子でそう言うが、信号が赤になってもこっちを向かない。だから逆にあたしは、息をひそめるようにしてその横顔を見つめていた。
 泣きボクロ。これは、この表情は、感情的に分類されないのだろうか。
 そう疑問に思うが、みっともないとは思わない。
 何と返したらいいのか分からずいるあたしに「何でもない」と言うと、再びアクセルを踏む。赤信号が遠ざかってもまだ赤い気がする耳。
 繋がる。
 みっともない。感情的になる。嫌な気分にさせる。しょうがないって、本当は僕が言いたいんだよね。
「迷惑……かけたくないから」
 ブラザーには迷惑かけてもいいと思った。そんなことより知ってる人に聞くのが一番だと思った。どんな背景があろうと、この人に一番近いのはブラザーだった。ブラザーは寺岡さんが大好きだった。
「迷惑かどうかは『しょうがない』って言う側が判断することだ」
 嫌ならどうとでも断るさ、と言うと左折する。南北に走る大通りと並行に走る通り。さっきに比べて明かりが少ない。別に今までも音がしていた訳ではないけれど、やけに外の静けさを感じる。
「寺岡さんだって、きっとあたしより紅葉の方が居心地がいい」
 難しいことを言う。その難しさを分かってもらうには丁度いい例があった。
 鏡のように映し出される関係性。
「……」
「アキラの方が、規定の枠がなくても一緒に打ちたいと思える」
「うん、アキラは別の話だ」
 キッパリそう言うと、寺岡さんは押し黙った。あんなに尽くしているのに、少しだけアキラが気の毒になる。
 電気のついていない建物が多い。「何とか建設」とか、会社っぽい名前のついた建物は暗くて当然だった。眩しい光を放っているのは、そのほとんどがコンビニ。
「君たちが羨ましくて」
 重い口を開く。寺岡さんは窓の縁に肘をついて、残る片手でハンドルを握った。あたしからすると、手前にあるその腕は、一種壁のような役割をしているようにも思える。
「妹がいるんだ。物理を選んだのは、本当は先生が苦手だったからじゃない。一緒に受けるクラスメイトが嫌だったから。抱えたストレスを、思い通りにできる相手で発散してた」
 その横顔。泣きボクロが歪んだ。
「……。……暴力だよ。本当はやさしくしたかった。普通の兄弟でいたかった」
「あたしも同じです」
 急いでつけ足す。普通というなら普通ではない。あたしも力関係に甘んじた関係の上に成り立っていた。寺岡さんは「知ってる」と言った。
「知ってるよ。だから僕は、本当は妹にしたかったことを紅葉ちゃんにしてる。そうして、そうせざるを得ないでいる君の力になりたかった」
 それは過去の自分を助ける行為。
 よく紅葉の頭をなでていた。周りから見てもほっこりする穏やかな二人。兄と妹のような距離感。それは、そのままだった。寺岡さんはそれを望んでいた。
「でも君は、いつからか自分で自分を律するようになった。関係性なんて、ハタから見ればすぐ分かる。紅葉ちゃんはもう暴力を受けていない」
 振動止めを渡せない、と言ったその時以来。そう言うと同時に、見慣れた近所の角を曲がった。時刻は20時50分。見事な時間配分だった。
 何も言い返せずにいるあたしを振り返る。
「……ごめんね、聞いてたんだ。『もらった時うれしかったけど、お姉の方が必要だと思うから』って。『ボレーの方がスイートスポットに当てるのが難しいから』って」
 家の前で停車する。電柱についた蛍光灯が高い位置から見下ろしている。
「『でも大事にすると思う』って。『前にキャラクターものを同じように欲しがったけど、それはまだ自分の手元にあるから』って」
 一番上の引き出し。
 紅葉の手元にはないもの。
「……僕は話したよ。次は君の番だ」
 急に話を振られて窮する。既に心臓はばくばく言っている。とてもじゃない。まともな返答なんてできそうになかった。「同じようなものです」と返す。
「同じような、というのは?」
「ブラザーって呼んでる位です。あたし達も兄弟みたいなものです」
 そっか、とつぶやく。寺岡さんは背もたれから身体を起こしてぐっと伸びをすると、さっき壁にしていた方の肘を助手席の肩の部分に乗せた。その後、押し出されたのは低い声。
「兄弟で肩抱き合ったりするんだ。へえ」

 焦点が合う。
 真実を理解する上で、言語化するよりも、あるいは肌で感じ取れる何かを突きつけられた方が、その正確な重みは測れるものなのかもしれない。
 みっともない。感情的になる。嫌な気分にさせる。しょうがないって、本当は僕が言いたいんだよね。
 みっともない。嫌だと思うことをこの人にさせた何か。いつだってやさしかったこの人に、そんな言い方をさせた
「……。……知らないと思うから先に教えておくけど、僕はやさしくなんかない。君が思うより少しだけ獰猛で」
 それは「静寂を装ったむせかえるような」
「野蛮だ」
 初めて焦点が合う。
 それは今まで見たことのない、過度な熱をはらんだ眼差し。その、体内に閉じ込めて置けなくなった余剰分が漏れ出す。それは寺岡さんではない寺岡さん。
「待つことはできる。でもそれは待たずに済む時が来ることを想定した話だ。逃げるなら今の内だということだけは知っておいて欲しい」
 そう言うとドアロックを解除した。
「じゃあ、おやすみ」
 促されるようにして「おやすみなさい」と返す。
 玄関を開けると母が出てきた。
 寺岡さんは会釈一つ、人の良さそうな笑みを残して帰っていった。
 そっちがあたしの知っている寺岡さんだった。





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