冬山でわたしも考えた
今私は冬山にある。山の中に突如現れた、擬似的な室内ことテントの中に、ぎちぎちに敷き詰められたシュラフというおかしな袋の中でこれを書いている。隣からは寝息、上からはさらさらと雪がテントに当たり落ちる音が聞こえてくる。薄いナイロンの膜を隔てて外は、生物を生物たらしめない死の世界であり、反対に内側のテントの中はその死の世界にずかずかと踏み入れ、ふてぶてしく居座る人間の領域だ。人類の叡智の結晶×暇つぶしの最終局面の末誕生した冬山登山真っ最中の特に目的もない文章です。なんか結構変な文体になってしまっているのは、さっきまで西村賢太を読んでいたからであるのに加えて、私が18歳だからでもあるのでして、18歳というのは影響を受けなくてもいいものにまで、ひたひたに影響を受けてしまう生き物なのであります。だからしょうがないのであーる!!!
今日は大学の二次試験があったらしい。私が北海道から長野に上陸してからちょうど一年が経ったということだ。この一年で単語帳とシャープペンシルを地形図とピッケルに持ち替えた私は、今日も山に登っている。歩いているとき、人は何を考えるのだろう。私はとにかく心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく〜という感じだけど、これはなかなか貴重な時間だと思う。街にいると、思い返してみればずっと何かの情報と対峙している。歩いている時も、ラジオか音楽を聴いているし、1人で外に行っても結果誰かと会話している。対してさして景色も変わらない道(冬の場合は道ともいえない)を右足と左足を一定のペースで交互に出し進んでいる時、そこには脈略や文化なんて存在しないし、第三者からの突っ込みが入る余地もない。一緒に山に行くメンバーと会話しようにも、街では考えられない精神状態の人たちしかいないためほぼ会話になっていない。冬山では地上で最もくらいレイヤーにレイヤーを重ね、たくさん服を着るがその実情は裸に等しいと思っている。本当に目鼻の位置とか、着ている服とか、(山のこと以外で)知識とか、聴いている音楽とか、その他諸々の人生の付着物がどうでもよくなる。私は生活に伴う、そういう付着物が大好きで日常生活では、それをかき集めて生きている自覚があるが、もう集めすぎてがんじがらめになっているきらいもあるので「身一つ!」みたいな環境が結構ありがたい。
とか言いつつまあ普通に山しんどい。寒いし、痛いし、きついし、面倒だし、汚いし、、ここまで羅列しちゃうとウエストランド井口に怒られますね。なんでもないです。正直結構な割合の時間帰りたい。暖かい部屋で乾いた布団で適正量かつ繊細な味付けのご飯食べたい!あとお風呂入りたいし、更新されたNetflixみたい。でも知ってる。どうせ私は戻ってくる。イベント行ったり、良いランチ食べたり、夜フラフラ外出たりとか、街で起こること本当に楽しいんだけどなんかずっと悲しい。これ全然合ってないかもしれないけど、感覚として日常にはきんぎょすくいみたいな悲しさと空しさがある。すぎていく時間にすがりたくなる。ずっと思い出の目線で、後ろ髪引かれながら世界を見てしまう。もう色々なことが、多岐に渡りすぎて、その多岐同士が絡まりすぎて思考も角度もごちゃごちゃしているんだと思う。
山にいる時それは逆で、時間に置いていかれないように、追いかけなきゃいけないと思う。だって山では常に頭と目は次の一歩に向けられている。2分前の思い出を振り返ってる隙なんてない。シンプルで図太い軸が真ん中にどーんと置かれている。だから自分のことを不当に嫌いにならなくて良いし、誰かに不当に傷つけられなくて良いし、不当に寂しがらなくて良い。正当に自己嫌悪して、正当に傷つけられて、正当に寂しくなることはたーーーーーくさんあるけどそれは別に悪いことじゃない。そう思う。
ね、書きすぎたでしょ。もう九時だよ。明日は五時に起きて、起床1分以内にシュラフを押し潰さなきゃいけないんだから!!あなたも良い夜と朝と昼を!なるべく正当に苦しみましょうね。