マスヴィデート編

「あ、いたいた! きょうかーん!」
 春のフィルクレヴァート士官学校、ザクロ寮前。
 紅茶を嗜んでいたラッセルのもとに、生徒が一人跳ねるように駆けてきた。
「うん? 一体どうしたんだ……沙月くん?」
 ラッセルは顔を上げ、相手を確認すると目を見開く。
 ザクロ寮には元気な生徒も休日だろうが関係なく教官にちょっかいをかける生徒もいるが、駆けてきた教え子──沙月は、どちらにも当てはまらない、いわゆる優等生だった。
「君が休みの日に声をかけるなんて珍しいな。何かあったのか?」
「いえ、自分の私的な要件です! 明日までにこの書類にサインがいるのですが、明日教官は留守にするとお聞きしたのでお伺いした次第であります!」
「随分急だな……しかし、明日の留守は生徒に伝えていないはずだが……?」
「そうなのですか?」
 連合軍所属の士官学校とは言え軍事施設に近いこのフィルクレヴァートは、例え生徒にであろうと教官の留守は当日まで伝えないようになっている。まだ二年生になったばかりの沙月はそれが意外だったらしく目を瞬かせていた。
「ここは軍人を養成する場所だからね。君たちの予定はもちろん、私たちの予定も外部に漏らしてはいけないんだ。なぜかわかるかい?」
「……未だ未熟な自分達生徒を守る役割を、教官達が担っているからですか? 警備が手薄になると言うのを態々知らせる道理もありません」
 さらさらと答えられた正答に、ラッセルは舌を巻く。今年の二年生は優秀だが、これで彼の論理問題の成績に上がいるから恐ろしい。
(これは育てれば優秀な士官になる……が……)
 苦笑し、予備の──生徒達があまりにちょっかいを出しにくるので、予備を二つ三つ持つようにしている──ティーカップに紅茶を注いでやる。すると堅固だった表情筋がぱっと華やぎ、一気に子どもらしくなるのだ。
「ありがとうございます。良い香りですね……ローズヒップティーでしょうか?」
「おや、知っていたかな? 君は日本から来ただろう。紅茶には馴染みがないと思ったが……」
「ダンローおじさんがたまに茶葉を送ってくれるんです。友人の茶会にも誘われるので、ある程度は」
「好みの茶葉だったかな?」
 はい、と控えめにはにかんだ笑顔を見て、目を細める。
 眩しいな、と思う。教官になって、毎日のようにこの眩しさを感じる。
(……この、子どもらを戦場に送り出すのは……)
 ラッセルは自分の仕事が好きだったが、その一点に関しある種の矛盾を抱えていた。
 戦場は安全な場所ではない。士官学校ですら普通の学校と比べ安全ではないと言うのに、戦場の士官ともなれば明日の約束すらできぬほどだ。
 教え子達は皆、立派に育った。胸を張って答える。
 けれど、その立派な彼等にも未熟な頃があり、こどもで、守らなければいけなかった時期があって、ラッセルはその頃から彼等を見てきた。
(この子も、いつか戦場に出なくてはいけない……)
 大人達がしてきた戦争のため、少年少女が銃をとる。国の未来を切り拓く高貴を誇らしく思うと同時に、未来ある彼等に過去の負債を背負わせる、大人としての申し訳なさもあるのだ。
「……教官?」
 沙月の問いかけで目が覚める。休みとは言え生徒の前で気を抜きすぎた、と反省しながら、ラッセルは笑顔を浮かべた。
「……あ。いや、何でもないよ。それで、書類というのは?」
「はい。こちらに」
 お茶請けに出しておいた上等なクッキーを遠慮なく頬張りながら、沙月は懐からファイルを取り出す。
「二枚入っているので、ご確認を。自主訓練の予定は双方入れていません」
「あ、あぁ……沙月くん、そのクッキーだが……」
 ファイルを受け取りつつ、ひょいぱくと空いてる手で口にクッキーを詰める食べ盛りを嗜める。
 書類に汚れがつかない配慮は出来るのに、教官に残しておこうと言う気概はないらしい。いや、書類出してるんだから止めなさい。
「おいしいです! ラッセル教官はセンスもよろしいんですね! どこのクッキーでしょうか、おじさんへのお土産に買いたいです!」
「……いや……卒業生からの貰い物だから、今度聞いておこう……」
 にこにこと邪気なく微笑まれた。それになんとなく力が抜けて、ラッセルもクッキーに手を伸ばす。元々食べ切れる量ではなかったので、まぁ成長盛りの生徒が美味しく食べるなら良いだろうと思ってしまったのだ。ラッセルは生徒に甘い。
 ほろほろと口の中で崩れる素朴な甘みに舌鼓を打ちつつ提出された書類を確認する。ご丁寧に一枚ずつ別のファイルに入れられており、取り出さずとも目を通すだけで済んだ。
「外出許可証……あぁ、街に?」
 フィルクレヴァート士官学校の近くに併設されているフィルクレヴァートの街は、イギリスの中でもかなり栄えている方だ。日用品を売る雑貨から高品質な酒を提供するパブまでさまざまな店が入り乱れ、士官学校の真面目な生徒はまずその混沌に顔を煌めかせるか歪ませる。
 土日は外出が許される、と言うのもあり一部生徒は──本当に街の雰囲気が苦手な生徒も多いので、一部だ──よく許可を求めてくる。沙月も確かその一人だったはずだ。
「分かっていると思うが、酔って風紀を乱し……あぁいや。沙月くんは心配いらなかったか」
「はい。いやぁ、どうにも法律の違いというのは慣れないです……」
「ははは。日本から来た生徒はみんなそう言うよ。世界各地から生徒が来るとはいえヨーロッパの生徒が多いからだろうが、こちらとしてはその反応も新鮮だ」
「うぅ。友人からも先日それで揶揄われたんですよ。景気付けにお酒を飲もうとしたのを勢いよく止めてしまって……」
「そういう文化の違いも触れておくのはいい事だ。補足するが、校則でも休日の飲酒は禁じられていないぞ」
 ですよねぇと情けなく笑う異国の子供に頷いて、沙月の外出許可証にサインを入れる。もう一枚を手に取り、おや、と眉を上げた。
「ヴィヴィアン・リントンロッジ……」
 教え子の一人。彼女もまた優秀な生徒で、明るく活発、負けず嫌いなスナイパーだ。確か目の前の沙月くんとは部屋が真正面にあり、よく互いの部屋を行き来しては遊ぶ親友であったはずだが。
 と、沙月の顔を見れば。
「…………沙月くん」
「はい」
「風邪かね?」
「それ分かってて聞いてます……?」
 見事に真っ赤だった。五月になると花をつけるザクロすら遠く及ばないほどの赤さだった。
 日本人らしい黒目がきょろきょろとあたりを彷徨う。首まで真っ赤に染まった青年は帽子でぱっと顔を隠してしまったが、その手の甲すら赤い。
 短く切った黒髪が、帽子でこもったせいかぴょんぴょん跳ねるのがよく見えた。
 しばし無言で見つめ合い、ラッセルはなんだか生暖かい気持ちになる。
「君、マッキーズで昼食を済ませるつもりじゃないだろうな?」
「だ、ダメなんですか? マック安くてうまいのに」
「友人といる時はそうだろうけれども……あとマッキーズは日本よりちょっと高い」
「百円くらいは誤差でいこうかなって」
「あと色気がない」
「教官風紀とか気にしなくて良いんですか?」
 たしかにフィルクレヴァート士官学校は風紀を厳粛に守らなければいけないが、一人の男として言わせてもらうと女性……しかも好きな相手にマッキーズは良くない。ラッセルも色恋に詳しいと言うほど詳しくないが、それなりに経験はしてきたのだ。
「ヴィヴィアンくんなら付き合ってくれるかもしれないが、沙月くんの計画力と調査力ならもっと入念なデートプランが立てられるだろう」
「デッッ…………!?」
「デートだろう。沙月くんがヴィヴィアンくんに恋しているのは公然の秘み、」
「わーっわーっ声が大きい! 教官!! 聞かれてたらどうするんですか〜ッ!」
 ぼんっと面白いほど真っ赤になって沙月がバタバタと手を振る。彼は忘れているが、ヴィヴィアンは今日遠くの演習場で一日自主訓練の予定が入っていた。
 沙月は優秀で勤勉、真面目な生徒だが、狙撃手としての腕のほか奥手さにかけて右に出る者がいないことで有名だ。かなり不名誉である。
「たしかに、みだりに風紀を乱すのはいただけない。が……好いた相手に想いを伝えられないというのは、戦場での後悔に繋がるぞ」
「う……」
「……まぁ。とはいえ沙月くんはまだ学生だ。安全な士官学校にいる間は、大いに学び反省し、必死に恋をすると良い」
「面白がってますぅ!?」
「面白いな」
 くつくつと喉を鳴らす。士官となり、政府の手駒となれば、恋愛方面ですら潔癖ではいられない。フィルクレヴァートに高潔が求められるのは、これからそう言う汚いものを見て聞いて、そのまま汚され無知なまま利用されないためでもあるのだ。高貴であり高潔であるためには、その基盤となる良識が必要となる。
 けれど、だからこそ、若者の微笑ましい恋は応援してやりたいと思う。
「君たちは安心して明日の約束ができる。だから、その立場を精一杯利用しなさい」
「……はい」
 沙月は、恋する男の顔をしてへにゃりとはにかんだ。
「……ところで、明日制服で行く気か?」
「うっ。……ファッション雑誌を参考に買ってみたんですが、似合ってるかもダサいのかダサくないのかも分からなくて……」
「おいおい……」
 普段無類の分析力と判断力を誇る士官の卵であるはずだが、目を逸らす沙月からはその様子が一欠片も感じられない。
 ラッセルはため息をついて、この後の予定に緊急のファッション講座を組み込んだ。

フィルクレヴァートの街並みは、中世風の建物が数多く存在する美しいものだ。M&Sやマックといった庶民用の店もたくさんあるが、外観はどれも工夫している。
 日本で言うところの歌舞伎町……いや、京都だろうか。外観を維持しながら文明はうまいこと取り入れている。
 そういうとりとめのない事を考えながら、沙月は待ち合わせ場所へ歩みを進めていた。
「ええと……噴水広場の方かな」
 すいすいとスマホを操作しつつあたりを見渡す。士官学校に入学するにあたり初めて渡英した沙月としては、一年半経った今も物珍しさは変わらない。
 レンガ調の建物にはめられたガラス。帽子やバッグが展示されているそこを覗き込み、今日の格好を確認する。
 黒のパーカーを羽織り、インナーはシンプルに白のTシャツ。ベージュのストレッチパンツによそ行きの靴で、いつも放置している髪はワックスで固め、軽く横に流し遊ばせている……らしい。
(……別人みたい……)
 ラッセル教官に連れられてファッション講座を受けていると友人達が乱入してきて、服の他もヘアアレンジも加えることになったのだ。
 ちょいちょいと毛先を整え、また歩き出す。タイル敷の地面に革靴がコツコツと音を立てた。

大通りに歩いたのちいくつか角を曲がると、生徒の中で噴水広場と呼ばれている開けた場所に出る。
 噴水といえば日本では公園に仰々しく設置されてるイメージだが、イギリスだと街中にあるので驚く。
 ちょうど時間らしく噴水は水を噴き出していて、通りがかりのバスを待ってから近付いた。スケールの大きい噴水はいろんな人の待ち合わせ場所にされているらしい。性別も人種も年齢も様々な人が腰掛けてスマホを見たり本を読んだり話し込んだりしていた。
「改めて見ると、すごいな……ヴィヴィアンを探さないと」
 ちょうど近所の学校も休みらしく、色とりどりにおしゃれした女の子たちが通り過ぎていく。活気があって良いなぁと自分のことは棚に上げて微笑み、目を走らせた。
「今朝急に用事がある〜っていって先に出かけたけど、何してたのかな……」
 あの様子だと朝食もろくにとっていないだろうし、少し心配だ……と思い返していたら、噴水の人混みの中、なにやら喧騒が聞こえる。
 どうやら何か揉めているらしい。
 騒がしい方に目をやると、近くの学校の生徒らしい少年たちが誰かを囲んでナンパしているようだ。
 髪色が染めたらしい金やら赤やらだったりいかにもな金のチェーンを下げていたり、チャラくてモテる服装を履き違えた感じの男の子たちだ。
「良いじゃん、一緒に遊ぼうよ!」
「お連れさん来るまで時間あるんでしょ?」
「いやー、士官学校にもこんな可愛い子いたんだね!」
 言動もかなり失礼というか、無礼というか、なんだあいつら感というか、そんな感じ。
 沙月は思わず半眼になる。彼らの言動で他の人も迷惑だというように顔を顰めているし、紳士の風上にも置けない。何よりいただけないのは、
「あの。私人を待ってるので!」
(ヴィヴィアン……!)
 絡んでいる相手が、沙月の待ち合わせ相手であるヴィヴィアン・リントンロッジその人である──という点だった。
「良いじゃん、まだ来てないんでしょ?」
「なんなら連れも一緒に遊んで良いからさ! そのカッコ、本当は出会い求めてたんじゃないの?」
「違……!」
 士官学校外でのトラブルという事で、学生に強気になれないらしい。掴まれた手を振り払うこともせずただ反論する姿に眉根が寄る。
 本来なら囲んでいる三人くらい瞬きの間に叩きのめせる実力者だし、普段だって男に負けないくらい気が強く溌剌とした女の子だ。言いようのないぐるぐるとした感情が胸に渦巻き、すぐに首を振って晴らす。
 とにかく、助けなければ。
「やぁ、ヴィーシャ! ごめん、待たせちゃったかな?」
「沙月!」
 出来る限りフランクに、親しげに呼びかける。ヴィヴィアンも咄嗟に意図を察したらしい、わざとらしいほど綺麗な笑顔で手を振ってくれた。
「え。ツレって男……?」
「おいヤバいって。あいつ士官学校のサツキだろ!」
「なに、お前知ってんの?」
 男の子三人がなにやらコソコソと耳打ちしあっている。どうやら自分は有名らしい、と沙月が思い至った頃には、すでに体は次の行動に出ていた。正直な体である。
「っわ、沙月⁉︎」
「ごめんねヴィーシャ。ちょっと強引だったかな」
 ヴィヴィアンの腰を引き寄せ、柔らかい体をできるだけ相手が触れられないように庇う。
 フワッと香った柑橘系の良い匂いが彼女の格好に合っていて場違いにどきりとした。
「すみません。勘違いしてるようなんで、訂正しておきたいんですけど」
 ジロ、と半眼で三人を睨みつければそれだけで肩を跳ねさせる。よく威圧的だなんだと言われるので、そういうのに慣れていない学生にとってはかなり怖いだろう。
「俺、この子とだけ『一緒に遊びたい』ので。あなた方はお呼びじゃないんですよ。ねぇヴィーシャ?」
 ヴィヴィアンの方を向いた時にだけ、とろけるように微笑む。いかにも特別扱いです、といった風を醸し出せば空気が心なしか甘くなった。
 ぱち、と一瞬だけまたたいたヴィヴィアンだが、すぐに乗ってくる。
「そうそう! 沙月、ナイスタイミング! もしかして見てた?」
「う。囲まれてたから、声かける勇気なくて……」
「あはは! 沙月らしい!」
 人が良さげに眉を八の字にした沙月を見て、大輪の花が咲くようにヴィヴィアンの顔がほころんだ。
 頬を染め、きらきらと翠緑の瞳を春の日差しに輝かせ、白い肩出しワンピースが春風にふわりと舞う。
 互いしか見えていないみたいな雰囲気を出す二人。お邪魔虫は誰の目から見ても明らかで、最初に絡んでいた三人は今にも逃げたそうにたじろぐ。
(ふふん、ざまーみろ!)
 ヴィヴィアンは俺の親友なんだ、と少しの独占欲と優越感で沙月は鼻を鳴らした。いつの世も、好きな女の子を守りたいと思うのは男の本能というやつだろう。
「じゃあヴィーシャ、行こ、」
 むぎゅっ。
「⁉︎」
 行こうか、と口にしようとした言葉は途中で自然消滅した。ヴィヴィアンの体が近くにある。
 ──腕を組まれたんだ、と気づいた頃には、心が限界を迎えていた。
 ふわふわした髪がさらっと肩に触れ、拍子に柑橘類の香りがより強く香る。あたたかな体温がいつもの軍服より薄い春服からダイレクトに伝わってきて、沙月の心臓はあっけなく締め上げられた。
「ヴィッ、ヴィヴィアン⁉︎ なっなななな何っ」
「沙月はちょっと静かにしてて!」
「うぇえ〜っ!」
 ここで言う通りに静かに出来る奴は男ではない。沙月の心臓はすでに今飛び出しますと言わんばかりに暴れ回り、体温は急激に上昇している。しかしヴィヴィアンはそんなこと知ったことかと言わんばかりにもっとしっかりくっつく。
(助けてラッセル教官‼︎)
 風紀に厳しい教官の顔を脳裏に呼び出し落ち着きを得ようとするが、好きな子にくっつかれていると言う状況に舞い上がった心はすでに遅くなんの成果も得られなかった。
「あの! 一応言っておきますけど!」
「えっ、俺らっすか⁉︎」
「彼氏すごいことになってるんすけど……」
 逃げるタイミングがずれたらしいチャラ男達が沙月、ヴィヴィアン、沙月と交互に見比べて困惑する。とんでもなく顔が赤い沙月の異変には特に触れず、ヴィヴィアンはもっとぎゅうっと組んだ腕を抱き締める。
 沙月はすでに疑問符と降って湧いた幸運に容量がいっぱいだったが、それで容赦するヴィヴィアンではなかった。
「私がオシャレしてきたのはこの人のためなので! 出会いとか、そんなのいらないですから!」
 頬を軽く染めて。
 いつもの快活な声より、ちょっとだけ緊張したみたいな声で。
 出会った時から片想いしてきた女の子に、そう言うことを言われて耐えられる男がいたなら、ぜひ連れてきて欲しい。
 きっとそいつは、誰よりも強い精神を持っているから──
「……って、沙月大丈夫⁉︎ 熱中症じゃない⁉︎」
「無自覚?」
「恐ろし……末恐ろし……」
「じゃあ俺ら用事あるんで帰ります! お幸せに!」
 ちょっと待て。事態の収束を図っていけ!
 脱兎の如く逃げる三人衆を追いかけようとして、くらっと立ちくらむ。あり得ないくらい熱い頬に、今の自分ははたから見たら茹蛸みたいなんだろうな、とぼんやり考えた。
 
「ご迷惑をおかけしました……」
「あははっ、なんで謝るの? 迷惑かけたのは私の方だよ! 助けてくれてありがとう、沙月」
「でも、まさか熱中症で時間を食うなんて……しかも公衆の面前で!」
 お昼時を過ぎ、人がある程度引いた噴水に腰掛けて水を口に含む。冷え切った液体が喉を通り、火照った体を冷やしていった。
 冷静になってよく考えれば、あんなのチャラ男を追い払う口実以外の何者でもない。いやちょっとまぁ向こうは引いていたが、結果的にオーバーキル気味になってしまっただけだろう。
「まぁ確かに、休みだからこそこんなところで隙を見せるのは良くないよね。でも今後の課題ってことで! はい、アイス買ってきたよ」
「ヴィヴィアンは俺に甘すぎる……」
「沙月は充分頑張ってるんだから。それにもしここで襲われても、私が守ってあげるよ!」
「……やっぱ頑張る」
「なんで⁉︎」
 渡されたアイスキャンディーをちびちび舐め、憮然とする。力こぶを作って明るく笑ったヴィヴィアンは分かっていないが、好きな子に守られるほど屈辱的なモノはないのである。
「俺だって、狙撃得意だし。まぁ確かに近距離戦はヴィヴィアンの方が得意だけど……ボクシングの成績も良いんだ」
「あはは、最近頑張ってるよね!」
「上から……上だけど……」
 フィルクレヴァートにはそれぞれの授業で階級があり、体術の授業で俺とヴィヴィアンは一番上のクラス、その中でもヴィヴィアンは成績が良く、俺は彼女を体術で地につかせたことが殆どない。
「でも、筋力には自信あるし。ヴィヴィアンは俺が守りたい」
「……」
「このアイスキャンディー美味しいね。イギリスだとアイスローリーなんだっけ……ヴィヴィアン? どうかした?」
 気付けば、さっきまで真っ直ぐこちらを見てきていたヴィヴィアンがそっぽを向いてしまっていた。耳が赤い。熱中症か何かだろうか。
「……こう言うことを、天然で言うから……ぜんぜん意識されてないしっ」
「っえ、何て?」
 ブォォオ、と通っていったバスの音にかき消され、何事かつぶやいた声が聞きとれない。聞き返そうと顔を近づけると、キッ! と翠緑の眼が睨み付けてきた。……なんだか涙目で、全然怖くない。
「っもう! 鈍感!」
「ご、ごめん⁉︎」
 よくわからないけど叱られてしまった。鈍感なのはヴィヴィアンもだと思うけれど、ここで反論したらとんでもないことになるので言わない。
 しゃく、と歯を立ててアイスキャンディーを砕く。破片が舌に落ちてきて、人工甘味料のいちごの味がした。
 黙ってしまったヴィヴィアンだけど、多分本気では怒ってないのでアイスを食べ進めることにした。彼女となら、沈黙も怖くはない。
 春の日差しは柔らかく石畳に注がれて、含有された金属質の結晶をきらきら光らせた。故郷で見られる海の全反射にも良く似てる、と目を細める。
 背後では噴水の噴き上げられた水が水面に叩きつけられる音がして、子供達の遊ぶ声ににぎやかだなぁと息をついた。
「あ、そうだヴィヴィアン。今日は朝早く街に出掛けてったけど、大丈夫だった?」
「へっ⁉︎」
 しゃくしゃくアイスキャンディーを消化しながら問いかけると、ヴィヴィアンの声が裏返った。
「だ、大丈夫だよ? 何が?」
「いや、お腹とか……」
 空いてないのと口を動かす前、仔犬が鳴くような音で言葉は遮られた。
 くぅ〜、と噴水広場に情けない音が響く。
「……」
「……」
 顔を見合わせる。ヴィヴィアンは今起こったことがよくわかりませんと言うようなポカンとした顔で呆けていて、それが何だかひどく面白い。
「ぶふっ」
「沙月!」
 思わず吹き出した。ヴィヴィアンの怒ったような恥ずかしいような声では止まらず、かすかだった笑い声は少しずつ盛り上がっていく。
「だ、だって、ふふ、全然大丈夫じゃないじゃんっ! あははは!」
「も……も〜っ! そんなに笑わなくたって良いんじゃない⁉︎」
「しかも顔っ、あはは、自分でびっくりしてっ!」
「沙月〜!」
 怒るヴィヴィアンにごめんごめんと謝りつつ、胸を撫で下ろす。何だか今日のヴィヴィアンはオシャレで可愛くて、沙月とは全然ちがう世界の人に見えたのだ。
 もちろんさっきにとってヴィヴィアンはいつだって魅力的だけれど、今日は凄い。
(良かった……ヴィヴィアン、いつも通りだ)
 ぷんぷんと、怒っているように見えてあんまり怒っていないヴィヴィアン。沙月がからかうとよくそうやって反論してきて、それがとっても可愛いのだ。
「ふふ……はぁ、笑った笑った」
「ひどいよ沙月。人の失敗をからかって笑うなんて……」
「途中からきみも笑ってただろ、共犯だよ」
 ぷん、と頬を染めてそっぽを向いて見せる女の子にそうやって微笑みかけると、今度は悪戯っ子みたいな顔でこちらをくるっと振り向く。
「……バレた?」
「怒ってるふりしてたけどね」
 ぺろっと舌を出す姿はどこからどう見ても誰が見てもお茶目でかわいい。もう機嫌は治ったらしい、さっすが沙月との言葉をいただいてしまった。
 腕につけた時計を確認する。まだギリギリランチタイムだ。
「……ご飯でも食べようか」
「……ふふ。そうだね、あーお腹すいた!」
 結構な時間座ってた噴水から立ち上がる。軽く伸びをすれば、沙月の関節がパキパキ軽い音を立てた。トレーニングを欠かしたことがないが関節は筋トレで鍛えられない。
 同じようにぐっ、と伸びをした彼女の白い腕を見そうになり──流石に、と沙月は目を逸らす。
「あー……フィルクレヴァートって何かいいお店あったっけ」
「オスシのお店は最近評判良いらしいよ」
 その情報に顔を顰める。フィルクレヴァートの寿司屋は話に聞いたことがあるが、寿司というよりご飯マックの魚版とかサンドイッチのパンご飯にしてみたみたいな内容だったはずだ。
「結構かな……」
「あはは。沙月、こっちでニホンショク食べようとしないよねぇ」
「美食の国はそれなりのプライドがあるんです……ってのは冗談で、日本もそうだけど国ってすぐ魔改造するからね」
 すいすいとスマホのナビを開き、適当に調べた良さそうな店にマップピンを押す。案内を開始したグルグルさんに従い目印を探す。
「うーん……分からないでもない。でも魔改造は日本が一番だと思うよ。最初に見た時、びっくりしたもん」
「外国の人にその国の料理振る舞うと驚かれるし怒られるんだよね〜」
「日本人のニホンショクと一緒なんだろうね」
 人間の食事事情は大変摩訶不思議である。美味しく安全であれば基本的に製造方法は問わない日本人すら、これが日本食ですと紛い物を出されれば顔を顰める。ぜんぜん違う食べ物だと言われれば構わず口に入れると言うのにだ。
「でも美味しいのは美味しいんだよね。私のところのご飯も魔改造されてるのかな?」
「別に日本ってそこまで魔改造の国ではないんだけど……ううん、でもどうかな」
 ヴィヴィアンは確か、イギリスの中でもウェールズの出身だっただろうか。アーサー王伝説に出てくる泉の乙女が由来だと言っていた。
 ウェールズで日本で有名なのはウェルシュケーキだろう。スコーンとビスケットの間みたいな感触がして、ミルクティーとよく合うのだ。なかなか手に入らない材料を使っているから、日本では代用品を使い砂糖の量も調節してると聞いた。
 そういうことをモゴモゴ話す。ヴィヴィアンは目をパチクリと瞬かせて、にまっと楽しげに笑った。
「それ、ピカーラマインのこと?」
「ウェールズではそう言うの?」
 驚いて隣を歩くヴィヴィアンを見れば、かわいらしく頷く。
「うん。フラットブレッドにドライフルーツとか入れたものでしょ? お茶請けに出てくるやつ」
「そうそう。俺、普通のビスケットよりこっちが好きなんだ」
「美味しいよね! 今度作ったげるよ」
 やった、とガッツポーズすれば喜びすぎでしょとくすくす笑われる。
 フラットブレッドがよくわからないが、文脈的にウェルシュケーキ……もとい、ピカーラマインからドライフルーツを抜いた分らしい。
 そういう他愛のない話をしていると、目標のレストランが見えてきた。イギリスの各地に置かれた有名なファミリーレストランで、フィルクレヴァートに本店を構えている店だ。
 グルグルさんも数メートルくらい前なのに案内を打ち切ってきた。最近こういうところがあるのだこのグルグルマップさん。
 若い子数人が店の入り口から出てくる。特に列になっているわけではないが、安くて美味くて多いという観点で口コミで人気なのだ、ここは。
「あ、あそこ知ってる! フィルクレヴァートにもあったんだ」
「本店らしいよ。俺も最近知ったかな」
 何個か路地を曲がらなければいけないため、人気は少ない。が、治安が悪いわけでもないらしい。
 近くに警察署のような場所があるからだろう。石畳の通路に面する、隠れ家カフェのような落ち着いた雰囲気のファミレス。まぁ家族層というより、若い子が利用している印象が強いが。
 金の長柄を握り締め、少し重い扉をぐっ、と押す。カランコロン、と涼やかな鐘が鳴り、店員がすぐに飛んできた。
「あ、二名で」
 ボックス席かカウンター席か聞かれ、ヴィヴィアンにちらと視線をやる。ぱちりと目を瞬かせた後、笑ってどちらでもいいよとジェスチャーしたのでボックス席にしてもらった。
 店員が案内できる席を探している間、沙月は外より少し涼しい店内に腕をさする。ヴィヴィアンに寒くない? と聞けば特に、との返答だったので沙月が人より寒さに弱いだけらしい。
 掃除が終わったらしくぱたぱたと戻ってくる店員に軽く会釈しつつ、案内された席に座る。
 ヴィヴィアンもそれに倣いぺこっと頭を下げて座った。店員は戸惑いながらも礼を返し、また忙しなくホールに戻っていく。
「……絶対人手足りないよな〜……ここ」
「ランチタイムの後半でこれなら、ね」
「回転率は高いみたいだから、繁盛してるとは思うんだけど……」
 英語で書かれた何やらおしゃれなメニュー表を開く。ファミレスらしく無差別に色々な国の料理が書かれていて、定番のハンバーグとドリアも見つけてふふっとなる。
「あ、ピカーラマイン」
「あるんだ?」
「期間限定だって。デザート欄がウェールズ特集になってる」
「運命的なものを感じるよね、そういう時」
「沙月の運命多くない? でも嬉しいな、頼んじゃお」
 取っておいた注文表にピカーラマインの名前を入れる。個数は一つ。
「沙月は食べないの?」
「俺はいいよ。ヴィヴィアンが作ってくれるんでしょ?」
 それより、デザートもまとめて注文して大丈夫だっただろうか。今からながら不安になってきた。気の使えない男と思われたらどうしよう。そろりと目線を上げる……と。
「ヴィヴィアン……」
「……なに?」
「風邪?」
 ヴィヴィアンの頬が赤く、じっとメニュー表を見つめていた。ぼーっとしているというか、大丈夫だろうか。沙月は全くもって見当違いな不安を抱きつつ首を傾げる。言うまでもないが、沙月はクソ鈍感であった。
「違うよ! もう、ほんっと鈍感なんだから……うう、天然でそういうこと言うんだ……」
 ばっ! と顔を覆ってしまったヴィヴィアンに沙月は焦る。何か不興を買ってしまったのだろうかと慌てているが、彼に女心を理解する未来は来ないだろう。
「ヴィヴィアン? 顔が見えないよ」
「それがどうかした⁉︎」
「や、見たいんだけど」
 小首をかしげる。普通の男がやっても可愛くはないが、ヴィヴィアンは残念ながら沙月の天然な仕草を可愛いと認識してしまっていた。こ、この……! と思いながら、望みに従って振り回されてしまう。
「私ばっかり好きな気がする……」
「? ごめん、なんて?」
「なんでもない!」
 しかしヴィヴィアンは知らないが、沙月も充分振り回されている。ヴィヴィアンが顔を俯けてる間に髪から香ってくる柑橘系の良い匂いに百面相したり、可愛い格好でいつも通りなので意識されてないのかなぁと悲しくなったりしていた。
「それで、注文どうする? ウェルシュケーキと……」
「フィッシュ&チップスかな! ここのは美味しいって評判なんだ」
 このレストランは士官学校でも結構な評判で、他チェーン店の話ではあるが各国の生徒から評判がいい。イギリス料理がただただ全てまずいわけでなく、美味いものは本当、美食の国と平気で並べるくらい美味いのだ。
 特にフィッシュ&チップスは最近生徒間で密かに流行っている。そのことを指しているんだろうと沙月も笑顔を作った。
「それ、俺も聞いたかも。じゃあ俺は……どうしようかな。スターゲイジーパイで」
「本当に聞いてた?」
 とはいえ本気でアレな奴はアレである。幼げな笑顔で地雷原に直行した沙月をヴィヴィアンは半眼になって見つめる。
 呆れ返った翠緑の瞳にきょとりと黒曜石にも似た目を合わせ、沙月はふわりと微笑む。
「ヴィヴィアン。俺の出身は日本なんだ」
 桜の花が綻ぶような、春を象徴する優美な笑顔であったが、その手元はサクサクと伝票を書いている。
「知ってる。日本からの留学は珍しいから、沙月のことは結構話題に出るんだよ?」
 ヴィヴィアンの言葉に一瞬瞳をきょとりとさせる。しかしすぐ先ほどの調子に戻り、うんと頷いた。店員が駆けつける。すでに注文ボタンを押し終わったようだ。
「日本人ってね──」
 沙月は、何かを諭すような声で注文をつつがなく完了させた。店員が注文を読み上げる。ピカーラマイン一点、フィッシュ&チップス一点、スターゲイジーパイ一点──
 正気か? という顔をした店員に、沙月は頷いた。
「この世に食べられないものは存在しないと、本気で信じている──そんな人種なんだ」
「日本人……! 野生だったら絶滅しそう……!」
「それはそう」
 多分戦場でもすぐ死ぬだろうな、と思いながら戦場で死なない枠の日本人は去っていく店員を眺めていた。
 
 昼時を少し過ぎた陽気が窓越しに燦々と降り注ぐ。春とはいえ日本とは気候が違い、こちらは春というより夏の準備期間みたいな雰囲気がある。
 流石は美術館が無料の国というだけあり窓枠から壁紙から凝っていて、街並みの美しさもさることながら内装も完璧としか言いようがない。
 ランチタイムを過ぎているからか人は少なく、しかしガラガラとは決していえない。適度にがやがや会話が飛び交うが不愉快ではなく、寧ろ心地のいい賑やかさすら覚える空間であった。クラシックが飾られた蓄音機から流れ出す。あれ普通に機能してるの初めて見たなぁ、と思いながら、ヴィヴィアンは目の前の男の子に視線を戻した。
「……それで?」
「ダメでしたね」
「はい」
「この世に食べられないものはあります」
「うん、そうだね」
 認めるのが悔しいです、という心情がダダ漏れな顔をした彼に苦笑して、ヴィヴィアンは肝に銘じようねと彼に教わった言い回しを口にする。
 彼……沙月の目の前には、一口食べて撃沈したらしいスターゲイジーパイがほとんど丸々置いてある。一口目に魚の頭をいったらしく、十尾刺さってたはずのピルチャードが一尾減っていた。
 初見でそこ食べるかな普通……と思わないこともないが、沙月は結構変な子だし、何より教官が示した一番難易度の高い訓練に嬉々として挑むタイプだ。自分が言えたことではないが、強情なことである。
「魚の生臭さはないのが救いだ……苦味が強いし、好き嫌いもそりゃ……というか嫌いな人が多いんだろうなぁ」
 めしょ……とした顔でそう評した沙月に苦笑する。
「うーん、生臭くないってことは、やっぱりこの店かなりいいとこなのかも」
 かつて祝い事の時に食べたスターゲイジーパイを思い出したけれど、大変生臭くてピルチャード生の味! みたいな感じだった。
 あまりの生臭さにあれ以降食べなくなったけれど、苦味は結構クセになった。今度ここのを食べに来てもいいかもしれない。
 そう言う旨を伝えれば、沙月の眉間の皺はさらに寄る。
「俺が言えたことではないけど、ヴィヴィアンって変な子だよね……」
「失礼な!」
 本当に沙月が言えたことではない。反論の言葉はいくらでも浮かんでくるが、ヴィヴィアンはそれを振り払って聞く。
「どうする? 残そうか?」
 勇気を祝して次頼む分は奢ってあげるよ、と言えばイギリスって感じの言い回し〜! と顔を顰められ、一瞬悩んだ後、
「まぁでも、もったいないから全部食べます」
 と帰ってきた。本当に変な子である。
「私が言うのも何だけど、沙月は本当に変だよね……」
「失礼な!」
 ピルチャードをまた一尾胃に押し込んだ沙月は、随分と心外そうに頬を膨らませた。
 
「いや〜、結局他のメニューはすごく美味しかったなぁ」
「うんうん、スイーツもサイコーだったね!」
「スコーンもよかったよ。紅茶と一緒に飲むと美味しさアップだった……」
「水分があってこそだよね、スコーン」
 お昼時ももうすっかり過ぎて、夕方の気配が顔を出したフィルクレヴァートの大通り。休日を終えかけた人々はそれぞれ愛する人と睦み合ったり一人で気ままにショッピングしたりと十人十色の過ごし方をしている。
 そんな彼らに紛れるようにして、沙月とヴィヴィアンはのんびりと歩いていた。
 休日は生徒たちも普段の厳しい統制から外れ、羽目を外したがる。門限もほぼあってないようなもので、優等生とは言え沙月もそういう部類の人間だった。
「や、でも少し意外かも」
「なにが?」
「沙月が、結構緩いっていうか……時間厳守! っていう感じじゃないの」
「そうかな」
 大きな窓ガラス、奥に映る色とりどりの服を見ているふりしてその実ヴィヴィアンの姿を見ながら沙月は返す。清楚で、純朴そうで、可愛いと思う。言うタイミングを逃して、言えてないけど。
「結構みんな意外だと思うよ? 沙月のこと、お堅いと思ってる人たくさんいるし」
「あぁ……この顔だからね。思ったように表情も動かないし、威圧的に見られるらしい」
 沙月は自分でもかなり日本人然とした顔立ちをしていると思う。垢抜けないと言うか、何と言うか。げじげじした眉毛とか、典型的に無愛想な一重のつり目とか、普段は気にならないけど威圧感がどうかと思う。
 立ち並ぶブティックの窓ガラスから視線を逸らして靴先を見る。スターゲイジーパイのダメージもあったのか、わかりやすく落ち込んだ沙月にヴィヴィアンは弾けるように笑った。
「あはは! 私は好きだよ。不器用なとこ、沙月らしくて」
「え」
「あっ」
 立ち止まる。ピカピカの革靴と新品の白いサンダルが隣り合った同じ場所にととんっと着地した。
「ヴィヴィアン、いまなんてっ」
「何でもない何でもないっ! あーなんか服見たいな! 可愛い服が見たいなぁ! こんなところにおしゃれなブティックがあるなー!」
「あっこらもう逃げないで詳しく!」
 現金なもので、沙月の頭からはもう威圧感だとかパイだとか飛んでいってしまった。落ち込んでた様子が嘘のようにヴィヴィアンを追う。カランコロンと軽い鐘の音が鳴りひらっと白いワンピースが舞う。
「まっ、て! 捕まえた!」
 ブティックに入った矢先セール品が詰まったワゴンに気を取られヴィヴィアンが足を止める。その細い腕を、見た目の割に骨太の手が優しく、けれどしっかり掴んだ。
「っもう、沙月! しつこいよ!」
「いやいやしつこくもなるって! ね、ヴィヴィアン! もう一回言って!」
「嫌だよ、恥ずかしいなぁ! 褒められたのが嬉しかったからって何回も言わせないでよ!」
「は? 何言ってんの、俺は」
「お客様」
 ヒートアップしかけた二人を、冷静な声が遮った。ピタッと仲良く口論をやめた彼らの間にはいつのまにか営業スマイルの店員が立っていた。
 店の制服らしいおしゃれな服を着た店員は二人を交互に見て、それはそれは見事なスマイルで首を傾げる。
「他のお客様の、ご迷惑になりますので」
「……すみません」
「ごめんなさい……」
 あぁ……威圧ってこう言うもののことを言うんだな。そう思いながら、沙月は素直に謝ったのである。
 気を取り直して。服を見て本当に欲しくなったらしいヴィヴィアンが女性服を見始め、街歩きの最後である買い物が始まった。
(……そういえば、ミラベルが勧めてきた女性誌になんかあった気がする)
 最近の流行りを取り入れたワンピースを体に当てながらヴィヴィアンはぼうっと近くで女性服に四苦八苦する沙月を見る。
 好きな子ができた、と報告した隣室の女子生徒の喜びようはそれはそれは大きく、どうやら彼女も故郷に恋人を残してきたらしい。
 ミーハーな彼女が持ってきた女性誌の中に、『買い物でのいい男の見分け方』みたいな特集があった。
(確か……『ぼーっと待ってる男はNG! 興味を持って一緒に悩んでくれる人と付き合おう!』みたいな。今思うと変な雑誌だなぁ……)
 買い物時間が長引くなら、待っててくれるだけありがたいのでは? とどうしても思ってしまう。友人たちからは散々色気がないロマンがないと貶されてはいる。
 けれど。
「ヴィヴィアンは結構動くし歩くから、こういうスポーティな格好が好きなんじゃない? あ、この組み合わせ色良いね。春コーデ」
「え。あ、うん、好きかも……」
「あはは、日本の春コーデだけどね! 夏は目にも涼やかな青や太陽に映える白、秋は紅葉に合わせて赤……すごいな。どんな色も似合うよ」
「……沙月それ、わざとやってる?」
「なにが?」
 ぼくはなにもわかんないです、という風な顔をしてきょとんと小首を傾げる友人にため息を吐く。顔が熱い、多分赤くなっている。
 偶然入っただけのブティックだったけれど、紳士服から女性服までしっかり種類を取り揃えている。そういえば日本でも紅葉はあるんだっけ、と現実逃避気味に思考を飛ばした。
「……なんでもない。沙月は選ばなくて良いの?」
「? 今選んでるけど……」
「自分のぶんだよ」
 先ほどからヴィヴィアンの体に服をあてる素振りをしては戻したり見せてきたりしかしていない。今日もかっこいい格好をしてきているし、服についての知識もかなりあるのに、せっかくの時間をヴィヴィアンに割くのは勿体無い。
 そう思って提案してみるけれど、本人はそれを悲観的に捉えたようでしょも、と項垂れる。
「……ヴィヴィアンは、俺が一緒に選ぶの、いや?」
「ンン……!」
 見えないはずの犬耳がぺそりと垂れ、尻尾がきゅーんと下がっているのがはっきり見える気がする。悲しそうに伏せられた目は庇護欲をそそり、たとえ嫌でもここで嫌とは言えないだろうと思う。嫌じゃないのでもちろん良いよとしか言えなかったのだけれど。
「沙月、ファッションとか好きだったんだ。意外だなぁ」
「いやいや最近習ったんだよ! ラッセル教官に」
「教官⁉︎ 何があったの」
「あはは、トップシークレットで……」
 何事もなかったかのようにハンガーを戻し、並べられている服を同じ種類同じ色で整理している沙月が苦笑する。フィルクレヴァートを象徴するかのような厳格かつ人格者の教官に、一体何が。
「習った後は実戦って言うし……それに、俺にこれ以上服は必要ないからね」
「あぁ……毎週出かけてるもんね、沙月」
 お堅そうな見た目に反し、沙月は毎週友人たちに引きずられて街歩きをしている。流石に私服もそれでは足りないと学内アルバイトやらで得られるお金をブティックの袋に変えていて、士官学校でも指折りの衣装持ちだ。
 ……そのギャップがまた良いと、女子に密かに人気である。
 今日の服も、彼の私服だろうけれどデート服のようで……そういうことをナチュラルに決めてくるから、告白の呼び出しや彼への愛を綴ったポエムが途絶えないんだろう。
「わっ、どうしたのそんな顔して」
「ううん? 沙月が朝から髪をセットしてるの見て慌てて服買いにきた私とは違うなーって思っただけだけど? 刺されそうだなぁなんて思ってないけど?」
「お、思ってるんじゃんか⁉︎ 俺刺されるの嫌だよ⁉︎」
 そう、ヴィヴィアンが昼に待ち合わせにした理由はそれである。慣れないヒール付きのミュールサンダルも、普段は着ない清楚系のワンピースも精いっぱいの背伸びなのだ。
(香水もつけてきたけど……うぅん、沙月の方が上手な気がする)
 友人に借りた、男子に人気という最近流行りの香水も振ってきた。けれど隣からふとした瞬間に香る甘いムスクの香りはいつもよりずっと大人っぽくて、慣れてるんだなぁと思わせる。
 近くのハンガーをとって、可愛いけど自分に似合うかは全然わからない服を見つめた。少しは女の子らしいと思って欲しくてした慣れないおしゃれも、沙月には見慣れてるものかもしれないし。
「……沙月って、ほんとモテるよね」
「うえっ⁉︎ ……そうかなぁ」
「自覚あるくせに。ダメだよそういう態度」
「……好意を持たれてるなぁ、ってのはわかりますね……えへへ」
 士官学校の中で派手にモテるわけではないけど、沙月は女の子に好意を抱かれやすい。よく気が付いて、普段はヘラッと笑うのに狙撃手としての腕は超一流。さらさらと流れるように相手を褒めるし、ちょっと髪型を変えただけで気がつく。女の子というのはそういうギャップに弱いのだ。
 本人はそれをわかってるし、けれど告白されない限り先回りして振ろうともしない。言われてもないのに態度を変えるのは失礼と思ってるんだろうけど。
「思わせぶりな態度、よくないよ」
「肝に銘じております……」
「もう……って、沙月も結局買うの?」
「うん?」
「クロックス。サイズ違うみたいだけど……」
 いつの間にか離れてたらしく、靴コーナーでミント色のクロックスを手にとった沙月はうぅん、と声を上げて微妙に笑った。沙月は足が大きいから、いくらそれでも合わないんじゃないかな……と、口にしようとして。
「っひゃあ!」
「ちょっと我慢してね」
「え? は? 沙月っ!」
 ぐわっと視界が揺れて、がっしりした腕に体が支えられる。お姫様抱っこされたと気づいた時にはもう移動しはじめていて、慌ててしがみつく。
「わ、わ、ちょっ、どうしたのっ」
「いやちょっと、ずっと気になってはいたっていうか何というか」
「気になってって」
「はい下ろすよ〜」
「沙月!」
 柔らかい革張りの椅子に優しく座らされる。しっかりした肩に自然と顔を埋める形になって、香る甘い匂いに顔が熱くなった。
「どうしたの、なんで急にこんな……ひゃっ⁉︎」
 ぐいっと右足を上げられ、跪いた沙月の膝に白い、新品のミュールサンダルが乗る。
 汚れてしまうと抵抗したヴィヴィアンの動きを、沙月が目を逸らしながら制した。
「ヴィヴィアンあの、……スカートは自分で押さえてて欲しい」
「‼︎」
 慌てて白い裾を押さえた。普段ズボンだから気にしてなかったけれど、そういえばスカートだった!
「あーもう、さつき!」
「み、見てない。断じて見てないです! 横縞のミントグリーンなんてッア」
「見てる! じゃんか!」
「ごめんごめんごめんなさい見ました認めます忘れるからヒールで膝ぐりぐりするのやめて痛い」
 顔を火照らせて涙目になる沙月は大変嘘が下手だった。腹芸は得意なくせに、妙に素直である。
「あいたたた……俺別に悪いことしてないのに……」
 するっとミュールサンダルが足から脱げる。攻撃してる間に留め具が外されてたんだ、と気付いた頃には、もうそれが晒されていた。
「やっぱり。ヴィヴィアン、いつから靴擦れしてたの」
「う……」
 真新しい傷跡が、サンダルの裏側を血で汚していた。見咎めた沙月は思ってたより酷いなと呟いて眉根を寄せる。
 ……慣れない、新品の可愛いサンダルを出したのだ。今日は。自分でも気合が入りすぎてると思って、知られたくなかったけれど。
 沙月の表情は硬い。高いであろうズボンを汚すのも厭わず、懐から絆創膏を取り出した。
「俺、今日は楽しいものにしたかったな。
 だからヴィヴィアンには、こういうの言ってほしかった」
「……ごめん」
「怒ってないよ。痛い?」
 気遣わしげに視線が上げられる。合流した時から違和感があって、先ほどから痛みで歩けなかった。痛い、と素直に首肯したら、沙月は強張っていた顔を和らげる。
「そか。これ、傷口におすすめなやつだから……ヴィヴィアンは強情だしね、こうでもしないと傷見せてくれないかなと思ってさ」
「強情って……否定はしないけど」
「うんうん。じゃあもう一方、貸して」
「……うん」
 左足を大人しく差し出せば、てきぱきと手当てされていく。士官学校に所属している限り生傷は絶えないので、沙月もそれなりに慣れているんだろう。
 しばらく無言と、店にかかるなんらかの落ち着いた音楽が流れた。
 しゅる、と音がして、沙月の持ち歩いている簡易救急キットの包帯が使われたのを知った。
「……その、沙月」
「なに?」
「膝、ごめんね? ……心配してくれたのに」
「あ、あぁ。いやいいよ、急にこんなことした俺も俺だし……あと、見ちゃったし」
「やっぱ見ちゃったんだ」
「見ちゃいました、ごめんなさい」
 さも大罪かのようにズゥンと落ち込む沙月に苦笑を返す。別にそこまで責めてるわけではないし、良いよべつにと言っておいた。
「元々、そんなに怒ってないし」
「それは……それはそれで、警戒心っていうものをさ」
「そんなの持ってたら暫く出掛けないけど」
「うーんやっぱ持たなくていいや!」
 現金に笑う沙月に呆れながら、胸の奥が甘酸っぱくくすぐられる。
(私と出掛けられないの、嫌なんだ……)
 親友だし、ヴィヴィアンと出掛けなくても別にいいとか言われても悲しいけど。
 くふくふ笑っていたらクロックスが素足に当てられる。あれ、と思ってお金はと言えば、もう払ったよと返された。
「お金払って戻ってきてもずっと同じところにいるからさ、しかも気付いてないし」
「あぁ、なるほど。ごめんね」
「いいって。おかげで確信できたもん」
 ふにゃりと笑い、沙月がヴィヴィアンの手を取って立たせる。空いた手には確かにここのロゴが印刷されたショッパーがいくつかあり、その一つにミュールサンダルが入ってるらしい。
「ちょっとサイズ大きめだから、突っかけみたいになって痛まないと思うよ」
「あ、うん……ありがと」
「いいってば」
 他に何か買うものない? と優しく聞かれ、首を振る。沙月は本当に怒ってないし、寧ろ罪悪感を抱かないよう気を遣ってくれてる。
 きゅう、と心臓が締まった。
(なんか……沙月が、大人に見える)
 そりゃ、士官であるからには大人であるべきだけれど。でもそういうことでなく、スマートでカッコいい、男の人に見える。
 ゆっくり歩くヴィヴィアンの手をしっかり支えて何も言わず歩幅を合わせる姿は、ずるいくらい格好良くて。
(……あぁもう、なんか私ばっかだなぁ!)
 扉を開けると、涼やかなベルがからころと鳴る。取られた手が熱くて、どくどくなる心臓が伝わらないように俯いた。
 
(……スマートにできたかな、俺)
 耳の裏に心臓があるかというくらいうるさいどくどくした音に、平常より高い体温。ヴィヴィアンの細い手を取った先から伝わるぬくもりに挙動不審になりつつ、沙月は息を吐いた。
 フィルクレヴァートの大通りは夕暮れ時の明かりに照らされて、家に帰ろうとする人たちが各々行き交っていた。
 パブの明かりが少しずつついていく。教官からはデートのフィニッシュはパブだと教えられたが、緊張でもう限界である。
(すみません教官、任務は達成できなさそうです……!)
 自分が奥手すぎるのか周りが積極的なのか。今日この日に告白しろと散々囃されていたが(そして沙月もそのつもりだったが)。心臓が破裂しそうで、ここに告白まで加えたら死んでしまう。
 こつこつ、ぺたぺた。
 クロックスと革靴が交互に音を鳴らす。ヴィヴィアンは先程から何も言わない。やっぱりさっき見えちゃったのを気にしてるんだろうかと思い至れば脳裏には先ほど見た絶景が蘇り、慌てて首を振る。
「? どうしたの?」
「あっいや! なんでもない!」
「⁇」
 フィルクレヴァート士官学校へは、この大通り一本で戻れてしまう。遠くに見える学校の門と沈んでいく陽に不甲斐ないとため息をついた。
(……もう、この距離感で良いのかもしれない)
 逃げの思いが打って出る。諦めたほうがいいのかもしれない、と思った。友人達やラッセルが聞けば張り倒していた思考だったが、生憎そこにはヴィヴィアンと沙月しか居ない。
(初恋は実らないって言うし、ヴィヴィアンはこんなに魅力的な子だし。諦めて、親友のままでさえいれば)
 関係は、壊れない。安心して彼女と笑い合える。
 自分でも弱気な思考だと思っているけれど、靴擦れにも気付かないしぱんつは見るし、男としてあまりにも不甲斐ないと思ってしまう。
 汗ばむ手でショッパーを握りしめた。不器用な彼女が履いてた新品の靴。誰のためのものか、考えるだけで吐き気がする。
(お洒落に気を使わないヴィヴィアンのこんな格好、他の誰かが教え込んだに決まってる)
 だって彼女が好きなのはストリート系だし、柑橘系の爽やかな匂いだって、誰かの好みに合わせたものじゃないとあり得ない。
 ヴィヴィアンを狙う男は沢山いる。活発で強情で可愛い彼女は、大変モテるのだ。
(ヴィヴィアン……好きな人、居るのかな)
 居るんだろうな、と思う。きっと自分よりもっとかっこよくて、スマートで、彼女を当然のようにパブに誘える人。
 だって最近、ヴィヴィアンは恋する乙女みたいな顔をするんだから。
「……あ、あのさ」
「! ……なぁに?」
 そういうことを考えてた時に声が掛けられたから、ビクッと肩を震わせてしまった。歩みが早かっただろうか。いや、合わせてたはずだけど。と後ろを軽く振り返ると、夕陽のせいだけでなく真っ赤になったヴィヴィアンが真っ直ぐこちらを見据えていた。
「こっ……この、服……似合ってるかな?」
「ぅえ」
 ほら、また。
 恋する乙女みたいな顔で、潤んだ翠緑の目で見据えられるんだから、参ってしまう。
 握ってない片方の手は忙しなくぱたぱたと白いスカートをいじっていて、編み込みにされた髪がシャラリと揺れる。
「……勘違いしそう」
 なんて? と聞くヴィヴィアンにかぶりを振る。きみに恋される相手が羨ましい、とは口が裂けても言えなかった。
 暫く何も言わないと、ヴィヴィアンは眉を下げてごめんね、と言った。
 その、悲しそうな顔に、罪悪感が溢れてきて。
「へ、へんなこと聞いたよね、ごめ──」
「かわいい」
 気づけばそういうことを口走ってしまう。
 虚をつかれたように目を瞬かせるヴィヴィアンに、もう一度可愛いよ、と囁いた。もう顔はみれたものではないだろう。
「すっごく可愛くて、ずっとどうしたらいいかわかんなかった。いい匂いするし、髪も綺麗に編んでるし。きみのその姿を見られる男は幸せだろうな、とも思ったよ」
「沙月……!」
「だから、相手が羨ましいよ」
「は?」
 感動したような顔から一転呆けたヴィヴィアンに気が付かず、沙月は話を進めていった。沙月のよくないところである。
「最近ヴィヴィアンよくぼーっとしてるし、なんかやけに可愛いし、好きな人がいるんじゃないかって思って。そしたら急に街歩きに誘ってくるからさ」
「う、うん」
「デートの予行演習なのかな、って……」
「そっちに行ったかぁ……!」
 そいつのために無理して靴擦れするような靴履いて、可愛くして、羨ましいことである。
 それを享受しているのが沙月だと思うと感謝の気持ちもあるがそれ以上に嫉妬心で前が見えなくなりそうだ。
「出来るだけ頑張ったけど、俺全然スマートじゃないし、熱中症になるしレストランではやらかすし。カッコ悪かっただろ」
「沙月」
「靴擦れにも気付いてやれなくて、あんな強引にやって、あーッ忘れるって言ったのに思い出しちゃったごめんなさ」
「沙月!」
「はいっ⁉︎」
 大きな声に遮られて姿勢を正すと、顔を真っ赤にしてふるふる震えたヴィヴィアンが、真っ直ぐ射抜くように沙月だけを見る。
「……絶対。ぜっったい言うつもりなかったんだけど」
「はい……」
「私が、し、下着見られて、許したのは……その、あんただから、です」
「え」
「あと、可愛くないやつで……だからやだったのも、ちょっとある」
 おずおず逸らされる視線に、喉がごきゅ、と鳴く。泣きそうなくらい真っ赤になったヴィヴィアンに負けないくらい、沙月の顔も真っ赤だった。
「それ、可愛い下着だったら」
「あと!」
「はい!」
 すぅー、はぁー。一旦深呼吸。春の少し冷たい空気を肺に取り入れて物理的に体を冷やしたヴィヴィアンは、一声で言い切る。
「お洒落したのあんたのためだからっ!」
「えっ⁉︎」
 きっ! と今度は強気に上がった視線に女の子ってすごいななんでこんな可愛いんだろと思考が飛ぶ。それくらいの衝撃だった。
「何を勘違いしてるのか分かんないけど、趣味じゃない服も! 初めて履くサンダルも! 香水も髪もあんたと! 出掛けるからだから!」
 ぽんっ、と爆発したかと思った。後生大事に抱えていたショッパーが落ちかけて慌てて抱え直す。その頃には手を振り解いてヴィヴィアンは駆け出していた。
「わ! ちょっ待っヴィヴィアン言い逃げは良くないって!」
「追いかけて来ないでよ!」
「嫌です!」
 通りすがる人々はあらあら青春ねぇと微笑んでいて、沙月はそれに目もくれず夕暮れ時の大通りをひた走る。さすが体術上位クラスの人間、慣れない靴でも足が速い。
「待って、待ってってば! 俺もきみに、言いたいことがあるんだ!」
 沙月は走った。
 嫉妬心のまま買ってしまった、ヴィヴィアンに似合うだろう服を入れたショッパーを、後生大事に抱えて。
 
「それで、一体どうなったんだい」
 がやがやと真っ赤になって帰ってきた生徒に紅茶を飲ませながら、ラッセルはお土産のクッキーを口に含んだ。真っ赤で髪もボサボサで、しかし達成感溢れる顔をした目の前の少年──沙月から貰ったものである。
「え、えへへ……それがですね」
「ああ」
 先日外出許可証を受理した時と同じ場所、へにゃへにゃと嬉しそうに笑み崩れる彼に青春を感じながら、ラッセルは紅茶を飲み下──
「次は俺の選んだ服で遊びに行ってくれるらしいです!」
「エッフ!」
 せなかった。
「教官⁉︎」
「ま……待ってくれ。交際を始めたんじゃないのか?」
 ゲホゲホと咳き込みながら彼を見上げれば、ほんのり赤かった顔を更に赤くしてええっと声を上げている。えぇ、ではないが。
「お付き合いなんて、そんな! 恥ずかしいですよ、断られたらどうするんですか」
「断られないだろうここまできたら! どう見ても!」
「えぇ、でも雰囲気とか……」
「最高潮に青春だ! 安心してくれ!」
 ありえない奥手さについ声が荒ぶる。ついでに右手に持ったクッキーも荒ぶって破裂した。沙月くんはそっちを見るんじゃない。クッキーが! じゃない。
 そして、ラッセルは己の過ちに気付いた。
 普段はよく気が付いて他者の感情に鋭い沙月が、恋愛方面でとんでもない鈍感かつ奥手であったことだ。
「……沙月くん」
「はい! ……ええと教官、顔が怖いですよ?」
 不思議そうな顔をしている沙月に、ラッセルは決意する。
「次の予定は、いつだ」
 必ずこの鈍感な生徒の、順風満帆そうで前途多難な恋を実らせてみせる、と。

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