報われない黒本丸のみかさに

その山姥切国広は、いわゆるブラック本丸という場所にいる一刀剣でした。
かの本丸の初期刀は三日月宗近。政府高官の子供が経営するところで、審神者はレア──その中でも月狂いと呼ばれるものです。山姥切国広の顕現順は遅くもなく早くもなく。入れ替わりの激しい本丸で、そこそこ保ってる方でした。
運が良かっただけではあります。
何しろ国広に実力はありません。ごくたまに、審神者のお気に入りである三日月が審神者に働きかけ、普段出陣しない刀に演練をさせる。そんな時くらいしか出番がありませんでした。
そんなある日、彼にお使いの命令が下りました。万屋に三日月が好む団子屋があり、そこの団子を買ってこいと。国広はすぐに三日月が部屋からすっかり出なくなった自分に気を遣っているのだとわかりました。国広は三日月を良く知っていましたから。
断るという選択肢も浮かばず、メモの通りの団子屋に入ります。ふと、極の姿をした同位体が目に入りました。
彼はどうやら、審神者と共にいるようです。
年若い審神者でした。机の上に二つのノートと教科書を広げ、色ペンとシャーペンを忙しなく持ち替えては急いで書いています。
同位体がため息をつきました。
「主。あんたまた岡田殿に迷惑をかけたのか? 普段から授業に出ないからこうなるんだ。反省しろ」
国広は驚きました。
主というのは絶対的な存在なのです。あんなふうに振る舞えば、レアでも何でもない山姥切国広など折られてしまいます。兄弟たちのように。
審神者は言います。
「そうなんだよねぇ。まんばちゃんにも付き合ってもらって申し訳ない…ここの団子は絶品らしいよ! いくらでも食べて良いからね!」
「馬鹿いえ。ただでさえ本丸には金が少ないんだ。俺に使うくらいなら……というかそれ、あんたの昼食代だろう。学食はどうした? 食べなかったのか?」
「あんまお腹空いてなくてさ」
「それでも食べろ。安い店を探しておくから、早く写し終わるんだ」
「はーい! まんばちゃんは優しいね!」
国広はもっと驚きました。資源の少ない本丸で、修行に出ている同位体はどれほど愛され信頼されているのだろう。主は三日月すら修行に出そうとしないのに。
話には聞いたことがあります。世の中には、山姥切国広を愛してくれる審神者がいるというのも。けれど見たことはありませんでした。
国広は、自分が唐突にすごく惨めな気がしてきました。折られたくないから団子を買って、またちらりと年若い彼らを見ます。肩甲骨ほどの髪がサラリと揺れました。
「……ん?」
「!」
「あれ……きみ!」
驚いたことに、にこりと笑って審神者が声をかけてきました。国広は硬直し後ろを振り返ります。
「あはは。違う違う。君だよ、そこの──綺麗な髪した山姥切国広!」
どうやらそれは自分のことのようです。他と違うところがあれば、珍しがられて折られないかもしれない。そう言った堀川の兄弟に丁寧に手入れされ、肩甲骨まで伸ばした髪が揺れます。
「女士かと思ったけど、違うね! 男士だ! 亜種か何かかな。それとも趣味? まぁいっか、とにかく見つけられて良かった!」
「!?」
「おい、主……」
「君さ、この間の演練で凄かったでしょ! 俺はあの時の対戦相手。見た感じ練度も高いわけでもないのに、身のこなしがうまいし──何より遠戦の時、庇った後投石したでしょ? 極でもないのに! ずっと話が聞きたかったんだよ」
それは三ヶ月前の話でしょうか。極の自分ができると聞いて、こっそり練習していた芸当でした。主が少しはこちらを気にしてくれるかと思って。
「ねぇ、あれはどうやってやるの? 君のあるじ、どこ?」
その声に促されるまま、国広は本丸IDを渡していました。
ありがとう、と答えた声は、白々しいほど明るく不気味ですが。国広にはそんなこと、知る由もありませんでした。
その夜、国広は三日月に呼び出されました。
「……山姥切よ。お主に、“朝陽本丸”という本丸から派遣要請が下っている」
「……そうか」
この本丸は優評定を取ることが出来ず、山姥切長義はここに居ません。冷たい三日月の視線から目を逸らさず、まっすぐ見据えました。
「俺が……、」
少し躊躇って。
「俺があの少年のところへ行ったとて、主に迷惑はかからないだろう。明日明後日は非番のはずだ。何故あんたに確認されなければいけないのかわからない。俺の端末にも要請は来ている。既に受領したものだ」
一気に言い切りました。
本丸に帰ってきて、空気の澱み方に顔を顰めました。
朝陽と名乗った少年は驚くほど善良で、澄んだ空気を纏っていたから。いいや、あれこそが“審神者”なのでしょう。空虚なほど澄み渡った心はしかし、ひと目見ればわかるほどあたたかな愛で溢れていました。
「……朝陽本丸のことを、お主は知っておるのか」
「知らない。今日聞いたばかりだ」
弱小本丸だよと笑っていた。黙っていた審神者が、一つ舌打ちをする。
「あれはバケモノよ。バケモノ! 霊力の高さも見て分からなかったの。いつもヘラヘラ笑ってて、バケモノみたいな力を持ってる。恐ろしいわ!
あんたなんか本当は出したくないんだけど、アレに逆らったら何されるか分からないのよ」
確かによく考えると、霊力がひどく強かったと感じる。それでもやはり、国広の心には善良そうに笑う審神者の姿があった。
あの力の強さだけで化け物と言われるなら、確かに彼は人ではないだろう。だがそうだとしても、あの子供はきっと心優しい異形なのだと思った。
……という話を国広は丸々審神者に話しました。男はびっくりした様子で目を瞬かせ、すぐにへらりと笑みくずれます。
「俺にはあんたが化け物には見えない。悪戯に人を傷つける人間にも。何故あんたは化け物などと言われているんだ?」
「いや。あはは! 正直だねぇ君! あぁほらまんばちゃん抑えて」
「…………主。俺はあんたを侮辱されるのが世界一嫌いだ。解っているだろう……」
「はいはい抑えようなまんばちゃん! 国広殿も気にしなくて良いぜ! 主さん、続けてくれ!」
極の姿をした愛染が鯉口を切り立ち上がりかけた同位体を抑えました。そういえばこんなに明るかったか、と見つめているとにかっと笑われます。
「非礼は詫びる。すまなかった、人と話すのは随分と久しぶりで…」
「うん、受け取るよ。でも本当に怒ってないから気にしないで? 俺が化け物って呼ばれてるの解ってるし…でも俺、怪獣映画では怪獣が好きなタイプなんだよね」
「……?」
「かっけーからオッケーてこと!」
年相応なのでしょう。子供らしくその子供は笑います。同位体は愛染に宥められ、漸く正座しなおしたみたいです。
「怪獣映画、見たことない? じゃあ一緒に見よ! まずは交流が第一だよ!」
「主。こんなやつオクトシャークでも見せておけば良いだろう」
「まんばちゃんは俺が化物って呼ばれるの大嫌いだよね? 俺はけっこー好きだけど! まぁ、明日になったら忘れてるよ! 気にしないでね国広くん!」
「あ……あぁ……」
審神者はうんと頷きました。人懐っこい態度のわりに積極的には触れてこず、そっと手を差し伸べます。
「行こっか。皆に紹介するよ! 手合わせはその後して欲しいな!」
国広はしばらく逡巡し──その手を、取りました。

それからは週に一回、朝陽の本丸へ通っていました。毎週日曜日、朝陽の学校が休みの日。進学校だという高校は土曜日も当然のように課外があり、朝陽はなかなか本丸にいないみたいです。
「だから、まだ特命調査には一度も出られていなくてね。俺は初日に配布で来たんだよ」
「そう…だったのか…」
「主も日曜日は一日中家にいるんだけど、皆主と遊びたがってね。短刀に慣れた君が居てくれるからか、最近は少しずつイベントに力が入れられているんだ」
「今は確か……花火玉集めだったか……」
「そうだね。俺もそろそろ出陣だよ全く。君は遠征してくれるんだっけ?」
「あぁ。派遣されたからには、力を尽くす……それに、短刀たちがそろそろ審神者と遊びたがるだろう。適度に遠征や演練に出してやりたい」
「助かるよ」
本科山姥切は礼を言う、と口にし、外套を翻し駆けていきました。
それを見るともなしに見ていると、与えられた部屋にヒョイっと人影。
「ふたばよ! 来ておったのだな。このじじいと遊ばぬか?」
「三日月宗近……」
「主が“すいっち”とやらを買ってくれたのだ!マリカをしよう!」
「マリカとか言うな、三日月宗近が…」
国広は辟易としました。ここの三日月は苦手です。
自本丸の威厳ある三日月とはかけらも似ていない三日月が、ほけほけと笑います。
「はっはっは! 俺は俺だからなぁ。マリカとも言うさ。TRPGだって嗜んでいる」
「TRPG?」
「知らぬか? 単発だとキャンディケインがおすすめだぞ。今度青江たちを誘ってセッションしよう。俺がKPを務めるから」
「なんだそれ。と言うかなんであんたがそんな事知ってるんだ」
「今は玉集めに皆夢中だが俺は夜戦に行けないからだ! 使われんと刀が錆び付いて闇堕ちするぞ。ラスボス近になるぞ──と国広のを脅したら、主に言い付けられて心配させてしまったからな。
あまり心労をかけたくないので大人しくすることにした。鶴や問題児をとりあえず畳んでから毎日来ている」
「何してるんだあんた」
こちらの三日月は国広のことをふたばとよびます。同位体のことを国広と呼んでいるからです。内番着姿で何やら言い募る刀の言い分をしばらく聞き、うん、と国広は言いました。
「でも今から俺は遠征なので、脇差に遊んでもらってくれ」
「骨喰と鯰尾は俺をぼこぼこにするから嫌だ」
「じゃあ亀甲殿だ」
「特殊な性癖を仕込まれそうで嫌ではあるが、兄刀の中でいちばん手加減が上手くあやし方が上手いのは否定せん。そのセレクトに免じて今日は勘弁しよう」
「毎週勘弁してくれ」
「断る!」
じじいは元気に去っていきました。本丸に戻った時三日月を見て笑ってしまう気がするので、いい加減そのテンションをやめて欲しいと思いました。
去ったジジイを見送りつつ着替えようとして。
「向こうの兄弟?今日こそ布を貸して欲しいんだけど」
「堀川の兄弟──……」
この本丸は騒がしく、遠征に静かに行かせて欲しいと流石に思いました。

その三日月宗近は、いわゆるブラック本丸、月狂いと呼ばれる本丸の初期刀でした。
三日月には相棒がいました。己より後に顕現し、裏から刀剣たちを支え、守る、相棒とも言える刀が。
彼の名を山姥切国広と言います。少し前に折られ、記憶喪失となった刀です。
誇り高く忠誠心の深い刀でした。
彼が居なくなり、三日月はどうしたらいいかわからなくなりました。彼が居た頃は自分が審神者を抑え、彼が刀剣を率い出陣や演練を繰り返していれば良かったのです。けれど彼が記憶を失い、三日月は彼を守ることで精一杯でした。
三日月は出陣ひとつしたことのない刀でした。
どうして俺は人の身を得たのだと叫んだこともあります。どうか外に出してくれと。この身になっても戦わぬのなら、今までの刀であった己と変わらぬと。けれど審神者は否と言いました。
そんな三日月と手合わせをしてくれたのは、彼だけでした。
「助けて欲しい?」
──その日は、朝陽本丸に偵察と称し訪れた日でした。
審神者の男が、化物と呼ばれていた男が人好きのする笑顔でそう聞きます。
「……それは一体、何のことだ?」
「きみのことだよ。三日月宗近」
主は朝陽本丸の三日月に連れられ、どこかへ行っています。一振りになった三日月の前には審神者と、その少し後ろに冷たい目をした山姥切国広、困ったように微笑む山姥切長義が控えていました。
この二振は双子のようだな、とふと思います。彼が追い求め、最後まで与えてやれなかった、本科山姥切。
「俺はね。三日月、きみが戦う姿が好きだよ」
「何?」
「君は美しい。でも、刀だ。
美しいだけじゃあない。その見目も体も刃も飾りじゃない。君もそう思って、顕現したんでしょう?」
「……」
「俺は振るわれる刀のうつくしさを知っている。刀は命を奪うものではなく、希望を切り拓くものだ。俺はそうあって欲しいと思っているよ」
山姥切国広は実戦刀。
この目の前の朝陽は、実戦刀──戦うために作り出された刀を初期刀に持つ男。それを、誰より強く在るように鍛え上げた審神者です。
「だけどね三日月。心が曇れば刃も曇る。君はそんななまくらで、斬るつもりかな」
敵を、とは言いませんでした。言っていたら、斬り捨てていました。
たとえ背後に控える二振がどれだけ速くとも、傷ひとつはつけられると思える間合いで──きっとこの審神者は、ひとつ間違えたら殺される問答を、殺される距離でしています。
赤銅の瞳がぎらりと光りました。
「その切れ味で君は──主を殺すの?」
拳を握ります。山姥切国広が眉を顰めました。
「主、やめないか。面倒ごとをこれ以上抱え込むな」
「にせ──あぁいや写し。主の話を遮るんじゃない」
「本歌、しかし」
「俺も賛成はしていないさ。気持ちはわかると言うだけでね」
山姥切国広は正しく使えば、現在の主を至上とする精神性を持っている──とふと思い出しました。
反面山姥切長義は冷静であり、人に対し慈悲深い刀です。博愛主義とも言えましょうか。しかし二振ともきっと、三日月が1センチでも刀を抜けばこの首を刎ね飛ばすのでしょう。
ひどく慕われているらしい審神者はごめんね、と首を傾げます。
「国広くんを通じて、君に対して探らせてもらったよ」
食えない男だ、と感じました。主の言う何されるかわからない、と言う言葉はあながち間違いではないのだろうと直感します。
しかし男は、それ以上にひどく慈悲深いのです。
「審神者だからね。個体差はあれど、君のことは分かるつもりだ。君は主人の首を刎ね飛ばすつもりでしょう? それも、今日中に」
「……やめろ、とでも言うつもりか?」
誤魔化しても意味はないと思いました。それゆえに認め、刀を脇から机の上に置きます。
「主、後ろへ」
「いいよまんばちゃん。命だけ守ってくれればね」
男は動じること無く、ゆっくりと首を傾げます。
「三日月。君が決めたことを、俺は尊重するよ」
笑いながら
「ただ、同じ審神者として──そんななまくらで、首など切れるものかと言っているんだよ」
ひどく冷たく。
「迷いのある太刀筋で己が主を斬るつもりか。不忠者め」
義理を通せ、と。
「俺は君を知っている。強くなりたくて足掻く姿を知っている。戦う刀たちを横目で見ては羨んでいたのを知っている」
けれど愛したのだろうと審神者は言いました。ついぞ、主にすら知られなかった心を突かれて。
「三日月という刀がそんな扱いに反抗しないわけがない。甘んじるわけがない。
でも誰がなんと言おうと、君は初期刀で──主を主と認めた、君の主の刀なんだろう? だから君は彼女を斬るんだ」
きっと、初期刀というものを知る審神者なら誰もが分かることでしょう。
けれど主に教えてやれなかったことでもありました。
「主を守ってやりたいと。そう思うからこそ、斬るんでしょ!」
刀にかけた手を、三日月は下ろします。
「何故……」
「国広くんが教えてくれた。それに、審神者なら皆解るさ」
山伏国広は、何度折られただろうか。堀川国広は何度折檻されただろうか。山姥切国広は──何度──。
今剣も、愛染も、骨喰も鯰尾も乱も加州もみんなみんな。どんどん折られていきました。
最初は止めました。主もそんな自分を後悔していました。でも彼女はどんどん狂っていきました。
どんどん狂って、取り返しがつかなくなって。ふとした瞬間に嘆くのです。何ということをと。けれど病気なのです。時が来れば虎になる李徴のように、彼女は正気を保つ時間が酷く短くなっていきました。
守りたかったのです。ただそれだけでした。
元々、初期刀とは言え太刀の育成はかなり資材が掛かります。だから山姥切国広や秋田藤四郎と言った打刀や短刀を中心に編成していただけのことです。それが束縛に変わったのはいつだったでしょうか。
元々、心優しい娘でした。
山姥切国広に花冠を作っていました。短刀たちに秘密でお菓子をやっては歌仙に叱られていました。
「──信じられぬとは──思っている──けれど」
「うん」
「主は……俺の主は……善き人の子で……善き審神者だったのだ」
「……信じるよ。国広くんも、そう言っていた」
加州と化粧やねいるの話で盛り上がっていました。乱が望むままに少女漫画を買い与え、自分も読み耽って書類を遅らせ三日月を困らせました。
小夜のために柿の木を植えました。鯰尾や鶴丸と馬糞投げに興じて光忠に叱られていました。愉快で無邪気で、優しい人の子でした。
そうだ。
そんなに優しい女の子が。今、正気に戻ったらどうなる?
「あの子はな。ほんとうに、ほんとうに、審神者になりたくて──」
妹が、時間遡行に巻き込まれて消えたのだそうです。本当は生まれてきてはいけなかった存在だったんだと。時間に対し抵抗力の強い彼女だけが、妹の存在を覚えていました。
わがままで、彼女のせいで一人部屋が二分割にされていたと。でもたまに自分の好きなミントアイスを買ってきてくれたと。
でも時間遡行が正された自分はミントアイスなんて好きじゃなかったんです。だって、あの子と一緒に食べたから美味しかったんだ!
「救いたいと。みなを、もう、悲しい思いをする人間がいないように、救いたいと──常々、言っていた」
「うん」
「それが、昔の自分の救いになるからと」
「……いい、審神者だね」
審神者は微笑みます。敬意のこもった、美しい笑顔でした。
彼は姿勢を正します。ゆっくりと、頭を下げました。
「同じ審神者として畏敬の念を表そう。そしてその一の刀である三日月宗近よ。よくぞ、彼女を救おうとしてくれた」
今戻ってもきっと彼女は死を願うでしょう。
いや、もしかしたら、生き続けて償おうとするかもしれません。本人の同意があれば、意識がなくとも霊力タンクのような扱いとなっても法には問われないのです。
けれどそれは、あまりにも辛すぎる。
彼女を愛した刀として、三日月はそう思うのです。
「彼女の本丸を教えてほしい。必ず、救うと誓う」
視界の端で山姥切国広がやれやれとため息をついていました。山姥切長義は目を伏せ、微笑んでいます。
きっとそうするのだろうと思った、と信頼に満ちた顔でした。
「…………あぁ…………」
最初に刀を折った時、この審神者が居れば。
「頼む。主を、助けてくれ……」
「当たり前だ」
正気に戻って、自分を殺してくれ、きっとこれから同じことが起こると叫ばれた日に、迷わずそうしてやればと。
三日月はまた、俯き。
「主の、俺の本丸は──」
前を向いたのです。

本丸に着いた時、審神者は執務室に座していました。
幽鬼のような姿でした。いつもの溌剌とした女には見えず。朝陽は押し黙り、三日月は思わず声を上げました。
「主」
「……おじいちゃん……」
迷子の子のような、声でした。
「主。主。気が付いたのだな。俺が分かるのだな」
「おじいちゃん」
大きな両目から、ぽろぽろと涙がこぼれていきました。
他の審神者で在る朝陽の姿を見て、全てを理解したようにただ悔いを吐き出します。
「加州がね、泣いたのよ。乱ちゃんが、髪を、綺麗な髪を、切られて。堀川くんは、何回私を説得してくれたのかしら。今剣くんとかくれんぼして、遊んでたのに。私……」
後悔は何度だって吐き出されていきます。すべて覚えているのです。全て忘れることなく。魂に刻んで。
幸あれかしと願い、慈しんだ刀達を彼女は忘れた日などなかったのです。
誰も何も言いませんでした。国広は──彼女の刀である国広は、ただじっと顛末を見届けていました。
やがて空が白み始めます。滂沱の涙を流し、審神者は最後の後悔を呟きました。
「三日月さん──戦場に、出してあげられなくて、ごめんね」
初めてとる敵の首がこんなもので、ごめんね。
「──敵の首ではない!」
三日月は大きな声を出しました。初めて、気が狂った後に彼女を怒鳴りました。
「お主はずっと俺の主だ! だから、だから斬りに来たのだ! お主が最後に下した、主命を果たすために! 我が名は初期刀、三日月宗近! 主の一の刀だ!」
殺してと、彼女は言いました。
だから三日月は刀を振ります。彼女の希望を拓くために。
それ以外に、男士が刀を振る理由などないのです。
「勝手に俺の主をやめるでない! ましてや敵の首などでは、断じてない!!」
初期刀として選ばれて、主を支える日々には確かに幸福がありました。たとえその幸福が他の刀よりずっと小さくても、寄り添い合った幸せを与えられたことに変わりはないのです。
審神者は目を見開き、顔を歪めました。
くしゃくしゃの顔に赤みがさします。
「おじいちゃん、ありがとぉ……」
そうして。俯いて、前を向いて。
審神者を見据えます。
「名前も知らない審神者さん。貴方は、人間ですか?」
審神者は涙を払い、跪き、視線を合わせました。
汚れるのも厭わずに、死装束を纏った彼女の肩をそっと掴みます。
「俺は人間ですよ、審神者さん。怪物もかっこいいですけどね」
「ふふ。それなら、良いんです」
主は、そっと審神者の頭を撫でました。子どもにするように、優しく。
「私の……一の刀、優しい刀。三日月宗近を、お願いします。誇り高くて、強い刀、山姥切国広を、お願いします……」
朝陽が昇ります。
三日月は刀を構えて、国広はただそれを見つめます。
審神者は、主を優しく抱きしめました。
「任されました」
一閃。
迷いのない太刀筋で、主の首は貫かれました。最後の瞬間、主は国広と三日月をみて酷く安心したように笑います。
それはかつての出陣帰り、怪我がなくて安心したように笑ってた頃と全く同じで。
「……帰ったぞ、主」
「あぁ。俺たちは、無傷だ」
声を揃えて呟きました。
いつかの日、出陣帰りの国広を迎えながら。迎えに出てきた主と三日月を見ながら。二振は夢想したのです。
いつか二振で、こうやって本丸に帰って見せたいと。
「三日月、国広くん。……彼女はどこに供養する?」
新しく主となった男がそう言います。壊れ物を扱うように、優しく丁寧に首の落ちた肢体と首を持ち上げながら。
「呪いも何も関係ないところがいいね。この子のお家なんて論外だ。それに、審神者としては刀のその後は気になるよ」
「呪い、とは?」
「なんだ……それは……」
「……!」
口々に疑問を呟く三日月と国広に主は目を見開き、そうか、と呟きます。
「そうだね。それならとにかく帰ろうか。供養して、お墓を作って。君達の姿がよく見える場所にしよう。大広間の近くなんてどうかな、寂しくないよ」
そうして主は笑います。優しく、仲間を愛おしみ惜しむ、審神者の笑顔で。

「ミントアイスを、買って帰らなきゃね」

みんなで食べたら美味しいよ。きっと好きになる。
夏が来て、秋がきて冬が来て、また夏が来る頃には、きっと恋しくなってるよ。
当たり前のように、そうやって笑いました。

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