にちかこ
物心ついた時には、家族がいなかった。
弟がいるとは教えられていたが、見た事はない。本家で跡取りとして大切に飼われていると、忌々しそうに母親らしい女が言っているのを聞いた。
母親らしい女は、私をあさひくんと呼んだ。私の名前はあさひくんらしい。
お母さんと呼ぶと叱られたので、私は彼女の娘でないのだろう。
夏だった。夏の真昼だった。辺り一面、障子を外したように光っていた。
私の目は変で、幼い頃から不思議なものが見える。視界の端に黒い何かがよぎって、飛蚊症かと目で追うと何かにギョロリと眼球がついた。
親戚の集まりから帰るところだったから、女に強く腕を引かれる。親戚は私を気味悪がって、近づいて来ない。そのくらいはわかる年頃だった。
「どうしたの」と女が言う。私が正しい振る舞いをしていれば殴らない、弱い女だった。「何でもないよ」お母さんとは言わなかった。恋人にするように微笑んだら、女は喜んだ。
弟がいた。
本家に弟が居た。会った事はなかった。
本家は大きいけれど、女はどうやらそこで嫌われていたらしい。卑しい売女に合わせられる方ではないと言われていた。そう言うと女は発狂する。面倒だからやめて欲しかった。
私の息子よ、私の子供なのに。私の大事な、あの人との子供。
それは私もそうじゃないのかと思った。言ったら変な顔で見られたから、二度と言わなかった。
私の名前は「あさひ」と言った。いい名前だと思う。あさひは綺麗なものの名前だから。
こんなに綺麗な名前をつけてくれるのだから、私は愛されている。きっとそうだ。だから大丈夫なのだ。私はいい子で、女の手を煩わせない。
汗だくで息を切らして歩いた。女は気付いていなかった。
でも、気付かれたら面倒な子供だと思われるかもしれない。内心ほっとした。
翌日に熱が出た。女は仕事に行った。昼間に起きて、腹が減ったので水を飲んでいると、女が帰ってきて叩かれた。
あさひくんは学校をサボらないらしい。私はあさひくんなので、学校は休んじゃいけないのだ。
子供に理想を押し付ける母親は多い。カウンセラーの先生がそう言った。わたしが怪我してるのを見て、会う事になったのだ。話す事全部記録してきて、少し怖い。神経質そうなひと。
「朝陽さんのお母さんは、朝陽さんに立派になってほしいと思いすぎているんだと思います。少しずつ思考の歪みを正していきましょう」
神経質そうだけど、多分真摯な人だった。真剣にそんなことを言うので、わたしはすっかり舞い上がってしまう。
「お母さんは、わたしが立派になってほしいと思ってるんですか?」
「ええ、もちろん」
「だからわたしのこと、怒るんですね」
それならぜんぜん苦じゃなかった。よくある、普通の親らしい。私のことを思って怒っているんだ。それで充分だった。私は愛されていた。
何でもよかった。全部女の言うとおりにした。洗濯をして、掃除をして、料理を作る。身体が小さいからまだ遅くて、よく叱られるけれど、ゆっくり毎日全部をこなした。
たまにお布団を干すのを手伝ってくれて、それが嬉しかった。
家に男が来るようになった。みんな私を一目見ては、「大人になったら美人になる」と口を揃えて言う。女は嬉しそうで、私も嬉しかった。
そんな生活がどれだけ続いたろう。カウンセラーの先生からはいよいよ家庭訪問の打診が来ていて、女が家に連れ込んだ男は二桁に突入した。
その日、男が家に来るからと押し入れに隠れていた。新しくきた男に、私が見つかるのが我慢できないらしい女がそう指示した。私と女は全然似ていない。それで別の男がいたんじゃないかと、そう言う寸法だ。
一人で暗い中息を潜めていると、チャイムが鳴る。珍しい時間のチャイムだ。出ようとして体をすくめた。まだ元気な女が、玄関扉を開けていたからだ。
今出ると見つかってしまう。私は大人しく押し入れに隠れ、ことが過ぎるのを待っていた。
さて、私には父親という存在がいたらしい。
そりゃそうだ。子供は一人じゃ生まれて来ない。
女は玄関先の誰かを見た瞬間、ヒステリックに叫んだ。あんたさえ居なければって言葉、フィクションでなく言うんだと場違いなことを思った記憶がある。
物を投げる音がした。何かを殴りつける音がした。
痛い音だ、怖い音だ。私はそれをよく覚えている。ヒリヒリ痛む頬を撫でた。ピリッと電気が走ったみたいな心地がした。
しばらく、しばらく音が聞こえてきた。幼い私にとっては、それが永遠に続いていたように思う。これは死んでしまったのではないかと、死を理解してない分際で思った。
けれど死んではいなかった。警察の音がして、私は思わず立ち上がる。お母さんが連れていかれちゃう、連れて行かないでと叫びながら。
その声を聞きつけ、乱暴な足音がドタドタと近づいて来た。女ではない。男の力強い足取りに身をすくませると、勢いよく押入れの戸が開いた。息が出来るようになった。新鮮な空気に、血の匂いが混じる。
金髪の、綺麗な人だった。翡翠というらしい、どこかで見かけた石によく似た目の男だ。凛とした雰囲気に思わず目を奪われると、お母さんに殴られたらしい傷をしこたまこさえた男が、私を抱きしめた。
男は、私のことを「主」と言った。
あたたかだった。そういえば、人に抱きしめられたのはいつぶりだろうか。親戚の知らない人が、私をパフォーマンスのように抱きしめた時くらいからだった。
「ちがう」と男はいう。何が違うのか。
「俺は、あんたの父親である、朝陽の刀だ。あんたには正式に政府から保護令が出た」
わたしはあさひではないのか。
「そうだ。あんたの名前はにちかという。日に歌うと書いてにちかだ」
もう誰の代わりもしなくていいと男は私を抱きしめた。そんなことを望んでいたんじゃなかった。
私のものだったはずの、綺麗な名前。
私のものだったはずの、優しい愛情。
何もかもがこぼれおちていく感覚に、気付かなければよかったと思ったけど、口にするのはやめる。だって私は朝陽くんだから、朝陽くんだから、そんなふうに人を困らせるわけにはいかない。朝陽くんはいつも優しく微笑んでいる。聞き上手で、重い感情もゆったりと受け止めてくれるらしい。だから私は、そうしないと愛されなくて、だから泣き喚くわけにはいかなかった。
でも私は朝陽くんじゃなかったらしい。
じゃあ私はどうやって生きたらいいのだろう。
子供心にそれが、すごく、すごく怖かった思い出がある。
後から聞いたけれど、女は朝陽、と呼ばれる私の父親を無理やり襲い、無理やり妊娠したらしい。当然朝陽はその事を知らない。性暴力の被害者、という位置付けになるからだ。女は私を隠し通し、朝陽として育てることにしたらしい。
優しい優しい朝陽くん。自分だけのあさひくん。
日に歌う娘は求められてなどいなかった。
最初からそれは私のものではなく。本家で飼われている子どもは、女に良く似ているらしい。
酷い話だと親戚からは言われた。政府預かりになる少し前にそんな事を言われるから、私はとうとうこの人たちを嫌いになることにした。
ああ、かわいそうに。愛されたくて頑張った、かわいそうなにちか。にちかのことは誰も求めてなんていないんだ。
誰にも求められない名前に意味などあるのか。誰にも呼ばれない言霊に力はあるものか。
私はだから、朝陽くんになることにした。お母さんの愛情が恋しかった。たとえそれが仮初でも、私の知っている唯一のものだったから。