自我がねじれたアラサー夢女子が15年ぶりに夢小説を公開し、尊厳を取り戻すまで【後編】
この記事は、自我が分離してねじれている女オタクが夢女子である自分を恥ずかしいと思いながらも、やっぱりやめられなくて、自分の中の恥ずかしさや恐怖と戦いながらも、二次創作と向き合う過程を書いた記事です。
つまるところただの自分語りなのですが、自分の心境を整理したいのと、忘れたくないので記事にまとめました。
もしご興味のある方はお付き合いくださると嬉しいです。
◆前編はこちら◆
前編は、夢小説を書き始めましたが、批判されるかもという恐怖から、およそ三年間誰にも見せずに書き続けるも、やっぱり読んで欲しいという気持ちが湧き上がり、葛藤に揺れながら、おっかなびっくり個人サイトを作り、夢小説を公開するまでのお話を書きました。
ここからはサイトを作ってから、過去の傷と向き合い、夢女子である事の尊厳を取り戻す過程を語っていきます。
消えぬ葛藤、重くなる筆
公開する場所ができたのだから、あとは少しずつ溜まっていたネタをアップしていくだけ……最初はそう思っていました。実際、最初の数ヶ月は書き溜めたネタを少しずつ仕上げて出して行くだけでそれなりの更新頻度が保てていました。
しかし公開した以上「誰かに批判されるかもしれない」という恐怖からは、今度こそ目を背ける事はできなくなりました。
公開しなければ絶対に批判もされない。しかし公開したらそうは行かない。実際に批判されないにしても「批判されうる可能性がある」という状態は、ずっと自分の心を苛み続けます。
noteで散々記事を書いて、人に読んでもらっている経験があるはずなのに、恐怖心は拭えない。
何故なら、noteでの自分と、夢女子としての自分は別物だからです。noteが表の顔だとしたら夢女子は裏の顔。ほとんど人に見せた事がない部分。それを公開すると言う事はつまり、裸で外を歩くようなものです。
ついでに見栄っ張りな性分も相まって「公開するのであればきちんとしたものを」という自分で定めた高いハードルのせいで、筆は重くなっていきました。
一応、冷静な自分もいて、以下の事を必死に言い聞かせていました。
・大前提として、小説を読む人が少ない
・その中でも夢小説はさらに少ない
・感想まで送ってくれる人はもっともっと少ない
・検索避けしていてランキングやサーチにも登録していないので、アクセス数はいきなりは伸びない
・フォレストページプラスユーザーの数もおそらく少ないので以下同文
・作品数が少ないため離脱者が多い
・自分を評価してくれる人との出会いは縁であり、結果が出るには時間がかかる
しかしこれらは、所詮は理性なのです。ここまで分析できていても、いや、なまじ分析ができるからこそ、これまで抑圧していて肥大化した感情は強大でした。
己の器の狭さを見せつけられる
これは名前が出るところで書くのに抵抗があるエピソードなのですが、実は公開して一ヶ月ほど経った頃、サイトを見てくれたという方がTwitterをフォローしてくれました。
その当時は「同類の友達が欲しい」という欲求が非常に強かったので、Twitterの夢創作者の中に無理をしてでも馴染もうとしました。
例えば、これまでは鍵垢に流していた自分の妄想を夢垢でつぶやこうとする。けれど、恥ずかしさ以外にも「誰かにパクられるんじゃないか」と考えてしまい、何も言えなくなってしまいました。
あとは「更新楽しみにしています」という言葉を信じて、頑張って小説をアップしたもののリアクションがありませんでした。それに対して素直に感想を求められればまだよかったのですが、「自分が勝手にやった事だし、感想欲しいってわざわざ言うなんて恥ずかしい」と自分を抑え込むあまり、書くのがイヤになってしまったり。
さらには元々同担拒否の気もあるので、最初は楽しく話していた人ともだんだん話しづらくなり……。
それに自分は夢女子としての自我を封じて、後ろめたいと思いながら生きてきたので、生き生きと前向きに夢女子をしている人たちを見ている事に耐えられなくなっていきました。
本当に、己の器の狭さを次々と見せつけられました。
完全に自己完結の葛藤で恥ずかしい限りなのですが、基本的に他人の前で自分の感情を露にするのが苦手なので、こうなってしまうんですよね。
また人生の中において、特定のクラスタに入るとまずいきなり厄介な人に絡まれる(もしくは近づいた人がアレな人)という事がよくあるのですが……そういう事もあって「あ、私やっぱり夢女子やめろって事なのかな。やってても上手く行かないのかな」とまで思いつめたりしていました。
ちなみに、その人はいつの間にかアカウントを消し、いなくなりました。
この経験から「夢垢で妄想を吐き出すのはやめよう」「読者と無理に距離を詰めるのはやめよう」と思い、結局そのアカウントは、今は創作ためのメモ垢になっています。
それでもやめられないし、やめろとも言われなかった
「夢小説を書くの、やめた方がいいんじゃないか」という感覚は、公開する前からずっとありました。
何故なら二次創作は私にとって完全に現実逃避だったからです。また、noteのエッセイと違って目的もないし、周期的にしか書けない事に対する葛藤もありました。
届く相手もいないし、どうせ続かないのなら、みっともなくしがみついてないでさっさとやめてしまえばいいのに、と。そう思っていました。
けれど、どんなに「やめた方がいいんじゃないか」と思っていても、一度は諦めてしまった夢小説を書くという事を、ようやく自分と折り合いをつけて公開までこぎつけたのに、もう一度恐怖心に折れてやめたくなかった。
そうしたら今度は「これはただ過去に対する執着で、もう手放すべきものなんじゃないか。もっと未来を見た方がいい」そういう圧力も強まっていきました。もう無限ループです。
しかしある時、転機が訪れます。
先のゴタゴタがあり、もう一人でも別にいいかと思いながら黙々と書いていた頃、占星術を勉強している過程で、創作に関する分析をしてくれる占い師・水煮さんを知りました。
正直黙々と書くにも限界を感じ、藁にも縋る思いで応募したところ、幸いにして三度目で当選し、鑑定の機会をいただきました。夢小説も何本か読んでいただきました。
正直、鑑定の前は、作風分析の中でダメ出しもあるかなぁとか色々身構えていたのですが、驚くほど肯定的な事しか言われませんでした。また、自分の弱点もわかり、これまでの事は仕方なかったんだな、と受け止める事が出来、かなり軽くなりました。
※水煮さん鑑定レポはこちら。
実は偶然にも鑑定の当日、サイトの方にも感想をくれる方がまた現れました。
根底にあった「願い」を思い出した
水煮さんの鑑定レポではタイトルに「吹っ切れました」と書きました。実際、だいぶ吹っ切れたのは事実です。
鑑定の日にコメントをくれた方は、ありがたい事に今も更新のたびにコメントをくれます。それは、確かにモチベーションにつながっています。
それでもやはり「やめた方がいい」という気持ちは完全にはなくなりませんでした。だからあのタイトルは、ちょっと見栄もあります。
しかし、その理由はよくわからないまま。「葛藤するのはまあ仕方ないよな、書くと決めたし、やるか……」と思いながらも、私生活が忙しく、小説を書けない事が続いていたある日。
これまた占星術の勉強のために、別の方の鑑定を受けたんですが、そこでの鑑定結果がものすごく大きなヒントになったんです。一部抜粋します。
大抵の人は「行き当たりばったりの行動」や「結果が出るかどうかわからないことに打ち込む」ことが許されているのに対し、逸見さんは「将来的に確実に実を結ぶこと」にだけ打ち込むことを許されている、というイメージです。
つまり、他の人よりも人生の選択肢が限られており、「寄り道」をしようものなら、あの手この手でもとの軌道に戻される、という感覚がつきまといやすいのかもしれません。
初めてこれを読んだ時、変な笑いが出ました。ああ、なるほど……だからか、と。
もうまさにその通りの人生を歩んできました。だから結局今、真正面切って打ち込めている事といえば、殆ど占星術の勉強だけなんですよね。
つまり夢小説を書き続ける事に葛藤があったのは、私自身がずっと心の底で二次創作を無駄な事だと思い込んでいたからでした。
「所詮は趣味だから、何の益にもならない」と。
そこで私は一瞬「じゃあ、やっぱりやめた方が……」と思いました。
しかし同時に自分の中で「いやむしろ、やめたくないなら、無駄な事にしなければいいんじゃないの?」という考えも同時に浮かんだんです。
「無駄な事が出来ない」というのは変えられません。だから、夢小説を書き続けたかったら、夢小説を「将来的に確実に実を結ぶこと」と私が信じればいい、という事。
宿命は変えられません。でも、どんな人生を経験するかという運命は自分で選んでいけるんです。
だから私はこの時「書きたい、読んでもらいたいという気持ちに正直になり、真正面切って夢小説を書く」という覚悟をしました。
それは、これまでのように逃避行動として書くのではなく、創作活動にきちんと向き合うという事。
「ちゃんと向き合って書くから、もう私から何も奪わないで欲しい」
そう、心から願いました。
私の経験も、心も、欲も、魂も、全てそこに捧げ尽くす覚悟をしました。
原作のキャラ解釈に加え、これまで積み重ねた経験や知識などを総動員して小説を書く。書きたい物語を書く。その過程で、己の傷と向き合う事になっても、それこそ今更ってもの。
たかが二次創作にここまでクソ真面目になるのはバカげているかもしれません。それが将来的に確実に実を結ぶなんて、夢物語かも知れない。
でもまずは、私が私を信じてあげなければ、何も始まらないんです。
お金にはならないかもしれない。けれど、物質的な価値だけが益ではない。誰かの心の支えになるという事もまた価値だと思います。
思い返してみれば、私が夢小説を公開したいと思った根底は、人生のどん底で二次創作に救われ、生きる気力をもらって来たから、自分の小説でも誰かにそう思ってもらいたいという願いからでした。
「結局、私を縛っていたのは、私自身だった」
この事に、本当の意味で気付けた瞬間でした。
そしてそこに気付けると、今度は自分がなぜ夢女子を抑圧していたのか、なぜ恥ずかしいと思っていたのかという理由が、自分の中でどんどん紐解かれて行きました。
抑圧され、切り離された乙女心
幼い頃、私は男勝りに振る舞っていました。
家族の中で女の子供は私一人だったので、親戚が集まるとよく「女なんだから家の事を手伝え」と言われました。
自分と同じ子供の兄や従兄弟たちは、遊んでいる。大人の男はテレビを見て笑っている。それなのになぜ自分だけ「女だから」という理由で手伝わなければならないのか、納得が行かず、反発しました。
しかし家父長制、男尊女卑が染み付いている家だったので、従順にならなければ怒られ、バカにされ、嗤われました。
これらの事から「女である事は弱くて、バカにされる事なんだ。だから男らしく振る舞わねば、この家では弱く見られる」そう幼心に学習したんだと思います。また、私は顔立ちが中性的で、髪も短く、近所の人や赤の他人からはよく男の子に間違われ、自分は女らしくないんだと思いました。
その二つの要素が噛み合い、私は男勝りに振る舞うようになっていきました。本当は可愛いものが好きで、可愛い服も好きで、お姫様が出てくる絵本も好きで、少女漫画も大好きだったのに。
しかしそれらは「表に出せば虐げられるもの」。だから私はそういう自分の中の「女の子らしさ」を、平たく言えば「乙女心」を「こんなの私じゃない」と一度拒絶し、恥ずかしい部分として切り離していたんです。
それでも誰も見ない落書きノートの中や、自分を知らない場所インターネットの世界、そういった場所で気持ちを解放していました。
それがそのまま、夢女子としての自分でした。
乙女心を恥ずかしく思い、閉じ込める自分。
乙女心を消しきれず、誰も見ていないところで解放する自分。
この精神構造は、そのまま腐女子と夢女子の対立構造と悪魔的にリンクしました。そして「夢女子は恥ずかしい。隠れているべき」そういう言葉を目にする度に、創作世界ですら、自分の居場所をどんどん失っていったんです。
夢小説は「わたし」を解放する行為だった
他人に否定されたくらいで諦められるなら、本当に好きな事じゃないんじゃないか。そういう声もあるかもしれません。
しかし、自己肯定感や自尊心が低ければ、それがたとえ本当に好きだったとしても、他人の意見を優先してしまうんです。否定された事で傷付いていたとしても、その傷に気付けない。
けれど、気付けないだけで傷はなくなった訳ではありません。ただ、見て見ぬふりをされている、切り離されているだけ。実際、抑圧が強すぎて、一時期は自分が夢女子である事すら忘れていました。
しかし自分を覆う殻は、仕事を辞めたタイミングで一度粉々に砕け散り、その時から私は「自尊心を取り戻して、自分の人生を生きたい」と思い始めました。
このnoteではその過程を散々書いてきたので割愛しますが、こと二次創作に限って言えば、私は殻の中で怯えていた夢女子としての「わたし」の手を引いて、外に連れ出そうとしていたんだと思います。
でも、考えてみてください。
「わたし」は、「お前は恥ずかしいものだから出てくるな」とずっと閉じ込められ、いないものとして扱われてきた訳です。悲しくても辛くてもそれが当たり前だと思って、必死に耐えてきた。
それなのに、いきなりドアを開けられても「もう出ていいの!?やったー!」とすんなり外に出られる訳がない。
これまでずっと「わたし(=夢女子)」を閉じ込めてきた「私(=自分であり世界)」に対する信頼度は当然ゼロです。
外は、怖い。信じられない。今更そんな事言われたって、出ていけるはずがない。またどうせわたしの事を傷付けるんでしょう。そして何かあったら、全部わたしに押し付けて、閉じ込める気なんでしょう。
そんなふうに言葉にできていた訳ではないですが、夢女子の言葉を代弁すれば、そういうふうに思っていたんだと思います。
今にして思えば、オタクに邁進し、夢小説を書いて、サイトを作って、公開して、環境を整えてきた事は、「わたし」との信頼関係を回復する行為でもあった訳です。
そして前段の「真正面切って夢女子をやる」と決めた日。おそらくその時、信頼関係が再び結ばれたんだと思います。
その日から、奥底に封じ込めた「恥ずかしいと言われて苦しかった、悲しかった」という素直な感情や、忘れていた傷がどんどん溢れてきました。
「わたし」を傷つけていたのは私自身
noteでどんどん認められる裏側で、ずっと苦しい想いが消えませんでした。むしろ肥大化していきました。
夢女子の「わたし」はきっと「お前だけが明るいところにいるなんてずるい」そう思っていたんだと思います。
しかしあの日、素直な気持ちが漏れ出して来ました。
閉じ込められて苦しかった。恥ずかしいと言われて悲しかった。その事に気付いて欲しかった。たとえ恥ずかしくても、私だけはわたしの味方でいてほしかったと。
そして同時に気付きました、「私」は周囲の環境に対して怒っていたけれど、「わたし」は「私」に怒っていたんです。
確かに他人は、私に対してひどい事をしたのかもしれない。けれど、その傷をなかった事にしようとしていたのは、他ならぬお前じゃないか。
私自身も、それを認めました。そして自らの中からどんどん出てくる傷と向き合いながら、ひたすら謝りました。今まで苦しめてごめんね、と。
そうすると今度は「私はただ、あなたをただ傷つけたくなかっただけだった」という言葉が出てきました。
自分を守りたかった。このまま外に女らしさを出していれば、殺されてしまうと思った。私にとって、ただ大事なだけだった。だから、隠すしかなかった。
その時は仕方なかった。私が生きていくためには、そうするしかなかった。この人たちに見捨てられたら私は生きていけないから、わたしには犠牲になってもらうしかなかった。
夢女子への謗りから自分を守るために、自分で自分を卑下する。私の世界観を、誰にも触れさせない、傷つけられないために。
noteでさえ、そうでした。
夢女子である自分を必死に肯定しようとして、記事を書きました。しかしそれは思いっきり自虐ネタを交えた笑い話にしなければ公開できなかったものです。
女オタク特有の語調で武装して、ネタとして面白おかしく書く事で、読み手にとっては私という個人の物語ではなく、多くの「夢女子」の中の一人、誰でもない誰かの話であると認識される。
一コンテンツとして消費される事と引き換えに、自分の心の、本当に隠しておきたい核を隠していました。
けれど本当は、コンテンツとして消費される事なんて望んでいなかった。自虐ネタとして嗤われる事も望んでいなかった。
自分で自分の尊厳を傷つけていたんです。
この事に気付いた時、夢女子としての自我が如何に傷だらけだったのかを実感しました。本当に、申し訳なくて、苦しくて、それでも同時に、声を上げ続けてくれた事への感謝が湧き上がりました。
「わたし」も「もういいよ。仕方なかったんだね」と言ってくれました。「私」は自分の罪を正しく認め、「わたし」はそれを赦しました。
自分の中に和解が起こった瞬間でした。
変わった事と、変わらない事
自分の中に和解が起こったのは、実はこの数週間の間のこと。
正直本当に変化がめまぐるしすぎて、自分でもまだ、ふわふわした感覚が抜けません。長年の喧嘩から和解した二人の子供が、ぎこちなく手を取り合っている……そんなイメージが心の中にあります。
いつか、馴染んでいくのかもしれません。あんなに恥ずかしがって、自分をネタにしていた事も多分過去になる。それは寂しくもあるけれど、きっとこれからはまた違った出会いがあるんだとも思います。
「真正面切って小説を書く」と決めてからほんの数週間、変わったのは心構えです。
恥ずかしいとか、後ろめたいとか、そういう気持ちはかなり減りました。ゼロになったわけではないし、時折は顔を出します。
先日、夢女子に対する悪意ある発言を目にしてしまいました。
それを見た時、怖くはありましたが、鵜呑みにする事はなく、むしろ「何かを潰すために人生を費やす輩に負けてやる必要なんてない」と思いました。わざわざ見に行ったのは、ある意味、禊のようなものだったのかもしれません。
小説を書く事は、現実逃避ではなく、取り組むべき事のうちの一つに入りました。同時に、そのために生活を整えよう、と心から前向きになる事ができました。
変わらない事もあります。それは創作している最中の苦しみ。
相変わらず自分の文章の拙さにげんなりするし、自分の描きたい事、読者に体験して欲しい事を届けるにはどう書けばいいのか、作品として如何に面白くするか、ということを本当に真剣に考えるようになったので、以前よりプレッシャーは強くなったような気がします。笑
でも、それを受け取る器である心が変わったから、プレッシャーも後押しになっています。
それともうひとつ。自分を面白おかしく見せる事に関しては、演出のレパートリーとしてはあっていいのかなと。自分の中で和解が起きたので、身内ノリの冗談のような感じで、以前より楽しくできるような気がします。
もしかしたら、また落ち込んだら戻ってしまうかもしれない。けれど、一度ここまで辿り着けたから、きっとまた戻ってこれると思います。
最後に まとめとささやかな願い
ごく個人的な内容を、主語のデカいタイトルで書いてしまってすみません。多分あまり読まれないだろうなと思いつつ書きました。
ここまで読んでくれた方には、心からの感謝を。モノ好きですね。笑
でもモノ好きなあなたがたに私は支えられてきました。
いざ覚悟を決めてみれば「なんだ、結局こうなったか」という気持ちもなくはないです。私はなんでもクソ真面目に取り組まざるを得なくて、娯楽ですら治療や自己分析になるという事はこれまでも多々ありました。
しかし、ここまで向き合ってきたおかげで、ただ「自分は自分である」という感覚は以前よりさらに強くなっています。
*
非現実的、あるいは非実在の対象に恋をしてしまう事、原作にないキャラクターを投入する事。それは一般的には受け入れられ難い事かもしれません。けれど、過度に卑下され、中傷されるような事でもないはずです。
私と同じように、夢女子としての心の中に傷を抱えている人たちがいるなら、その人たちも少しずつ自分の「好き」に素直になれるといいなと、個人的に思います。
また、余計なお世話かもしれませんが、夢女子を憎んでいる人たちも、心に傷を抱えています。その傷に気付き、何かを憎むというその強大なエネルギーを、自分の幸せのために使えるようになりますように。
私はこれからも、苦しみながら、楽しみながら、自分のペースで二次創作を続けたいと思います。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。
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