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スサノオはなぜ神話に閉じ込められたのか?


スサノオとは

今回はスサノオについてご紹介します
・スサノオは神話上の存在ではなく実在の人物
・スサノオを神話に閉じ込めた人物
・世紀の大発見!
・出雲の力の源泉となったものとは
・スサノオの息子がヤマトに侵攻

古事記と日本書紀の神話にスサノオが登場します
古事記では、「たけはやすさのおのみこと」をはじめ、このように記されています
日本書紀では、微妙に違う漢字で記述されています
これらすべて、スサノオと読めます
これらの文献でスサノオはどのように描かれているのか見ていきましょう

古事記のスサノオ

古事記では、イザナギとイザナミのところにはじめて登場します
イザナギとイザナミによる「国生み」と「神生み」の物語がはじまり、イザナギが左の目を洗うとアマテラスが、鼻を洗うとスサノオが誕生します

日本書紀のスサノオ

光うるわしい大日貴(おおひるめのむち)、アマテラスを生んだ後、蛭児を生みますが成長せず、その次にスサノオを生みました
成長し、神から託された国を治めようとしますが、スサノオは長い間泣きわめいていました
その有様は、青々とした山が枯れ木になり、川や海の水が干上がる程でした
イザナギが、「なぜ泣きわめいているのか」尋ねると、スサノオは、「亡き母のいる根の国に帰りたいから泣いています」と答えました
それでイザナギが怒って「ならばお前は大変無道である。だから天下に君たることが出来ない。必ず遠い根の国に行きなさい」とスサノオを追放しました
スサノオは追放され心が興奮状態でしたので、天に舞い上がる時、山や川はことごとく鳴動しました
アマテラスはその事態に驚き完全武装で乱暴者スサノオが来るのに備えます
アマテラスは髪を解き、みずらに束ね、背や脇には千本の矢の入る靫(ゆぎ)という道具を背負い、弓を振り立てるという男装をして、待ち構えます
スサノオにやましい心がないことを証明するために、アマテラスとの間で誓約をして子供を生むことになりました
ところがスサノオは、アマテラスの田の畦を壊し、溝を埋め、大嘗祭を行う神聖な神殿に糞を撒き散らすなど、高天原で大暴れです

天岩戸隠れ

これらの暴挙に対しアマテラスは耐えていましたが、スサノオの行為はさらにひどくなります
機織りの女性が小屋で神の衣を織っていると、スサノオは皮を剥いだ馬を落し入れました
機織りの女性は驚いて機織りの道具で自分の女性器を突き刺して亡くなってしまいました
これには、アマテラスも激怒し、天の岩屋戸に引き籠もってしまったのです
すると、高天原は暗闇に包まれ、葦原中国も真っ暗に
高御産巣日神の子である「知恵の神」思金神に相談すると、祭りを開くといいとのことです
次に、天の金山の鉄を採集し、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に命じて鍛冶屋に鏡を作らせました
また、玉祖命に命じて八尺勾玉(やさかのまがたま)の五百箇(いおつ)の御統(みすまる)の飾りを作らせました
これらは「三種の神器」の二つです
天宇受売命(あめのうずめのみこと)が踊る神楽がはじまリました
その賑やかな声を聞いたアマテラスは様子を見ようと戸を少し開くと、その隙間に八咫鏡を差し入れ、それを覗いたアマテラスは自分の姿を見て、神が別にいると勘違いしびっくりしたのです
そして、アマテラスは外に出てきたのでした
これで高天原と葦原中国に、再び明かりが戻りました
八百万の神は協議の結果、スサノオを高天原から追放しました
その後、スサノオは息子のイタケルを伴って新羅国のソシモリに遠征します

出雲国造り

しかし、あまり居心地が良くなかったのか「ここには私は居たくない」と、土船に乗って出雲の国の斐伊川上流の鳥髪に辿り着きました
ある時、斐伊川の辺りを腹を空かせて歩いていると、川の上流から箸が流れてきました
スサノオは川上に誰か住んでいると考え、上流に歩いて行くことにしました
すると、泣き声が聞こえてきます
気になって声のする方へ歩いて行くと、老夫婦が少女を挟み泣いています
名前を尋ねると「大山津見神(おおやまつみのかみ)の子でアシナズチ、妻の名前はテナズチ、娘の名前はクシイナダヒメと申します」と答えました

ヤマタノオロチ(八岐大蛇)

「八人の娘がいましたが、毎年、高志のヤマタノオロチのために呑み込まれました。今年もこの娘が呑み込まれようとしています。しかし逃れる方法がありません。それで悲観して泣いているのです」
その大蛇の姿は、頭と尾がそれぞれ八つあり、眼はほおずきのように真っ赤で、胴体には松や柏の木が背中に生え、その長さは八つの谷、八つの山に広がっていると言います
スサノオは老夫婦に命じて、よく醸した酒を造り、八つの門、桟敷を作り、そこに酒を満たした桶を置いて待ち受けさせました
すると大蛇がやってきて酒を飲み眠ってしまいます
そしてスサノオは十握剣で大蛇をずたずたに切ると、斐伊川の水は真っ赤な血となって流れました
大蛇の尾を切った時、剣の刃が少し欠けました
不審に思い尾を割いて見ると、そこにすばらしい大刀がありました
これがいわゆる草薙剣です
以上がスサノオに関するストーリーです

神話から現実世界へ

アマテラスとスサノオ、この二人の関係がよくわからない記述です
姉と弟として描かれながら、誓約で8人の子供を儲けます
また、スサノオをさんざん罵る場面が登場し、反対にアマテラスは見事なくらいりっぱな人物として描かれています
これらスサノオの話は、日本書紀や古事記では神話の項目に記されていて、実在したのかあいまいになっています
ところがいろいろ調べていくと、確かに実在したとみられる痕跡が残されていることがわかってきました
それでは、本当のスサノオの姿を探索していきましょう

神社伝承

日本書紀や古事記の完成前の記録がどこに残っているのかを辿っていくと、神社がその候補として存在することを知りました
正式な記録として残っていなくとも、何らかの手がかりはあるはずです
神社伝承という歴史学の研究分野があることを知り、その線で調べてみました
神社にはその設立の由緒が残っています
つまり、いつごろ創建されたのか、誰を祀っているのか、どのような状況だったのか、それらをまとめた神社創建の経緯が残っています
地域、規模、社格、設立時期など、ある程度絞り込みをかけると、めぼしい神社に到達します

スサノオの姿

スサノオは西暦2世紀初期に出雲の沼田郡、現在の平田市で生まれたと推定されます
スサノオの生誕地として宇美神社が鎮座しています
宇美神社というのは、子を「産む」というを意味で、貴人の生誕地に祀られる神社の名称です
この神社の主祭神は布都御魂神(ふつのみたま)なので、スサノオの父親を意味しています
なぜ布都御魂がスサノオのお父さんになるのかは、追って説明します

ヤマタノオロチ事件勃発

斐伊神社
現在の雲南市木次町に鎮座するのが斐伊神社です
スサノオと稲田姫を祀る国造り発祥の神社です
この斐伊神社の飛び地に八本杉という敷地があって、この八本杉は古戦場でヤマタノオロチの八つの蛇頭をこの地に埋めて記念に八本杉を植えたという伝承が残っています

八重垣神社
続いて、スサノオが稲田姫を匿った所に鎮座するのが八重垣神社です
この神社は昔、佐久佐神社といい、一時佐久佐女の森に八重垣を作り稲田姫を匿ったという伝承が残っています
「夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曽能夜賀岐袁」『古事記』
「夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐 菟磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻」『日本書紀』
「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣造る その八重垣を」
日本最初の和歌とされる歌です
八重垣神社はこの和歌から名前をつけられたと言われています

須我神社
須我神社は、古事記・日本書紀に記載されている「須賀宮」であり、「日本初之宮」と伝わる神社で、スサノオがヤマタノオロチ退治後、最初に住んだ地と見られます
「吾が御心清々し」と言って先程の「八雲立つ」の和歌を詠んだ地です

稲田神社
斐伊川上流の奥出雲町には稲田神社があり、ここがクシナダヒメの生誕地だと見られています
ここには稲田姫が生まれた時に使われた「産湯の池」の伝承もあります
石上神宮
奈良県にある石上神宮は、刀剣を御祭神として祀る珍しい神社です
これは691年、時の権力者・藤原不比等が、石上神宮の古文書を取り上げ18氏族の系図を没収し本当の御祭神を隠したからです
・布都御魂大神(フツノミタマ)=韴霊と言い、武甕雷神が持っていたとしていますが、本当はスサノオの父親を祀っています
・布留御魂大神(フルノミタマ)=天璽十種瑞宝(アマツシルシトクサノミヅノタカラ)と言い、スサノオの息子、ニギハヤヒを祀っています
・布都斯魂大神(フツシミタマ) =天十握剣と言い、スサノオを祀っています

洲崎神社
名古屋市にある洲崎神社(スサキジンジャ)では、布都御魂、須佐之男命と父子二代を祀っています
このことから、布都(フツ)がスサノオの父親であることが分かります
物部神社
島根県大田市にある物部神社(もののべじんじゃ)では、物部氏初代・ウマシマジと父親のニギハヤヒを祀っています
このことから、ウマシマジがニギハヤヒの息子であることが分かります
ウマシマジは物部氏の初代と言います

熱田神宮
名古屋市南部にある熱田神宮は、ヤマタノオロチの尾から出てきた草薙剣を祀る官幣大社です。
主祭神の熱田大神は草薙剣の正体であるアマテラスであると伝わっています

スサノオはなぜ神話にされたのか?

『日本書紀』どうやって出来た?

『日本書紀』は天武天皇の命令で舎人親王が編纂しました
そして元正天皇の養老6年(720年)に完成しました
編纂当時の今現在とはどんな時代だったのでしょうか
681年頃、『日本書紀』の編纂が開始されます
天武天皇、世継ぎ候補の大津皇子、草壁皇子が相次いで崩御され、女帝の持統天皇が誕生します
女帝が即位したのは、直系の孫である軽皇子(のちの文武天皇)が幼かったからです
この頃、鎌足の息子といわれる藤原不比等が政治の表舞台に登場します
当時、持統天皇にとって、草壁皇子が崩御し、跡継ぎが天皇家の最大の関心事でした
持統天皇は、自分の愛する息子の嫡系に天皇を継いでもらいたいという強い思いが有りました
その証しが不改常典(ふかいじょうてん)です
兄弟による継承ではなく、天皇の子への皇位継承を定めた法というものです
持統、元明、元正すべて草壁皇子に縁の深い女帝です

藤原不比等による歴史の創作

権力を持ち始めた不比等は、日本書紀編纂事業において、ある行為を行います
それは、大神神社、石上神宮の古文書や、16氏族の墓記、系図を献上させ没収するというものです
ここから、不比等による歴史の創作がはじまるのでした
それが、スサノオ、ニギハヤヒを神話に閉じ込め、皇祖神・天照大神(アマテラス)を女神に変更するというものでした
アマテラスを女神にすることで、女帝から孫への皇位継承を正当化します
スサノオ・ニギハヤヒを祖とする有力豪族の物部氏や蘇我氏と、藤原氏はライバル関係にありました
天武天皇亡き後、実権を掌握した不比等により日本書紀の編集方針が大転換したものと推測されます
これが40年以上も完成せず公開されなかった日本書紀の裏事情でしょう
もちろん、考古学のように遺跡や古墳から、歴史を研究することも重要なのですが、事実の特定ということになると、今ひとつ漠然としていて、効果的かというと疑問が浮かびます
纒向遺跡が良い例でしょう
その点、神社伝承というのは代々受け継がれてきたもので、意識的に変更しない限り、永遠と続きます

出雲王朝は存在したのか

世紀の大発見!荒神谷遺跡

1984年、島根県出雲市斐川町で銅剣なんと358本、銅鐸6個、銅矛16本が発見されました
この発見までは、全国で300本程度しか銅剣は発掘されておらず、荒神谷遺跡から一気にそれを超える数の銅剣が見つかりました
当時の日本古代史学・考古学界を大きく揺るがす大発見でした
「出雲には何かあった」を感じさせる出来事であり、出雲神話が現実味を帯びてきました
出土した358本の銅剣のうち344本に「×」印が刻まれていたことから、私は時代とともに不要になった「廃棄説」を支持します
さらに遺跡の発見は続きます

加茂岩倉遺跡

荒神谷遺跡は、斐川町の仏経山から北東3kmの位置にあります
1996年、今度は、山を隔てて南東に3.4kmの加茂岩倉遺跡から、39個という大量の銅鐸が発見されたのです
景初三年銘の三角縁神獣鏡が出土している神原神社古墳や弥生時代後期から古墳時代にかけての古墳群も近くで確認されています

出雲国風土記について

『出雲国風土記』は713年、元明天皇の時代に編纂が命じられ、733年2月に完成し、聖武天皇に奏上されました
日本書紀はすでに720年に完成しています
733年といえば長屋王の変が起こり、藤原氏と対立していた長屋王が滅び、藤原氏が政権を掌握した後だということに注目する必要があります
つまり、藤原氏の日本書紀の内容や編集方針に従うように出雲国風土記は作られたと見るべきです
そして、天孫降臨の話しなどは意識的に避けているとみられます
これは他の風土記に共通している特徴だといわれています
長江山の母理郷は、オオクニヌシが越国を平定し、帰還して立ち寄った場所です
出雲国づくりでは非常に重要な土地です
母理郷という地名は、天下は天皇に譲るけど、出雲だけは自分が守っていくということから出た地名だといわれています
入海(現在の中海)の特徴は、青垣山のようにきれいに山がそびえ立ち、その山々に囲まれるかたちで中海が見えると記されます
ここから出雲国が始まる出発点として褒め称えます
出雲の独立をうたう内容がなぜ許されたのかといえば、スサノオ、オオクニヌシが統治しているところは認めましょうと、ヤマト王権も譲歩したのかもしれません
出雲国風土記は、日本書紀を踏まえて、出雲国独自の思想を掲げているともいえます

たたら製鉄で栄えた出雲

もう一つ、出雲は鉄の生産拠点だったということです
出雲の場合は砂鉄による鉄の生産が行われていました
鳥上山、または船通山は良質な砂鉄の取れるところでした
今でも、日立金属鳥上木炭銑工場や和鋼博物館がたたら製鉄の歴史遺産として残っています
そのシンボルがヤマタノオロチ退治であり、草薙剣です
銅から鉄に進化した武器や農具を持って、出雲王国をつくり、九州を制覇したと考えます
ヤマタノオロチの物語は、スサノオが鉄の拠点を掌握したことを神話化したものではないでしょうか
スサノオは184年頃、亡くなり、入り婿のオオクニヌシが世襲して出雲王国を引き継ぎます
スサノオの息子・ニギハヤヒは出雲からヤマト、難波に侵攻し、勢力を拡げます
そして、ニギハヤヒがナガスネヒコの妹・三炊屋姫と結婚します
その間に生まれたイスケヨリヒメが神武天皇と結婚し皇統が続いていくのでした


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