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【感想】NHK 歴史探偵「巨大地震」を視聴しました
2025年1月15日(水)22:00~22:45 歴史探偵「巨大地震」を視聴しました。
<NHKのあらすじ>
発生が強く懸念される南海トラフ地震の実態を歴史資料から徹底調査!
さらに過去の地震の記憶をどう伝え減災に繋げるか、阪神大震災を経験した俳優の新納慎也さんと考える。
■プロローグ
●スタジオで
歴史上の大地震に迫ります。
阪神・淡路大震災を経験した新納慎也さんが調査します。
南海トラフ地震臨時情報の注意が出ました。
最大震度7の揺れ、10m超の津波、死者32万人以上と言われています。
過去9回起きています。
684年白鵬地震、その後平安、室町、江戸、近代と90から260年の間隔で起きています。
佐藤所長「そろそろ起きるだろうと思えます」
■調査①幕末の南海トラフ地震
●史料で読み解く
東京大学地震研究所
・佐竹健治さん(東京大学地震研究所)
重要視されてきたという研究、それは地震の歴史書です。
地震の歴史を知ることで地震に備える。
今回幕末の南海トラフ地震の「かわら版」について注目します。
かわら版は生々しく被害状況を伝えたものです。
佐竹さん「当時どういうふうに被害があったのかという史料になります」
『諸國大地震井大津浪』
絵図をつけることで被害を受けた広大な地域がわかるようにしたものです。
別のかわら版『聞書東海道南海道国々大地震大つなミ』
「三重県では死者1万人出たとあります」
1854年11月4日の午前、関東から近畿を襲いました。
マグニチュードは8.4、最大震度7の大災害でした。
翌日、信じがたいこと、別の地震が起きています。
「半割れ、その残りが割れたことになります」
11月4日、東側で、その32時間後に西側で巨大地震が連動して発生しました。
11月5日の地震で被害を受けたのは、大坂にも津波が来ています。
■大坂の津波被害
・新納慎也さん
大阪の道頓堀川、江戸初期に作り始められた人工の川です。
・尾﨑安啓さん(大阪市史編纂所)
「えびす橋が、絵図では『戎橋』と書いてあります」
その下の南側には水色が広がっていて津波が押し寄せ浸水したエリアを示しています。
あるとんでもないものが流れてきたことが描かれていました。
船が横を向いています。海を航行する大船です。
●大阪歴史博物館
・島崎未央さん
大坂の港を再現したものです。
安治川の港と橋です。
大船(菱垣廻船)、全長30m幅7m、高さ27m
この大船がなんと100隻以上道頓堀川に押し寄せたと言います。
●実際に川を調査
実際に川を移動して調査します。
最初の橋、日吉橋、大船がぶつかり破壊されてしまいました。
陸地を乗り越え次々と橋に衝突しました。
上流の橋がさらに合計4つ破壊されました。
「高さ約3mくらいです」
5回から6回押し寄せたという記述もあります。
尾﨑さん「川のギリギリまで江戸時代も建物が立っていたでしょう」
屋根瓦が破壊され、100軒もの建物が損壊しました。
4つ目の橋、住吉橋をくぐります。大黒橋が見えてきました。
ここでようやくせき止められました。
●スタジオで
新納さん「海が近いという意識が薄いので他人事ではないです」
河合先生「1855年直下型の安政江戸地震、さらに翌年台風、2年後にはコレラが流行しています」
佐藤所長「幕末の弱体化の1つの要因に、災害があるかもしれないですね」
かわら版には、仮説テントのようなものが描かれています。
人的被害が大きかったことがわかっています。
大船の周りに小船に人がしがみついています。
新納さん「当時大坂の人は川に避難してしまったのです」
■調査②なぜ人々は川の小船に避難した?
●手がかりの元へ
尾﨑さん
当時の地震で亡くなった人を弔う石碑です。
嘉永7年11月5日、その翌年に建てられた石碑です。
「嘉永七甲寅年六月十四日」
ところが刻まれた文字には6月14日とありました。
6月に伊賀上野地震が発生していました。
水路が発達していた大坂は小船で避難する人が多かったのです。
そして11月4日の地震のときも小船に避難し事なきを得ました。
しかし、11月5日は津波が来てしまいました。
安全だったはずの小船に津波が襲いかかったのです。
犠牲者は1000人以上に。
ところが石碑には、想定外は想定できた、ということです。
150年前の1707年の宝永地震、津波が押し寄せ。2万9981人が亡くなったと記されています。
約150年後の幕末にはほとんど忘れ去られていたのです。
尾﨑さん「先祖代々住んだところは、孫につたえることができたけど、大坂は田舎から出てきて都会で災害の記録が伝わりきらなかった」
深い後悔が刻み込まれています。
●石碑への墨入れ
「願わくは 心ある人よ 文字が読みやすくなるように 毎年墨を入れてください」
2024年8月21日、その墨入れが行われました。
・丹羽憲一郎さん
「親のすることを見ていることもあり、自分の代でやめるのは嫌です」
●スタジオで
便利なツールがあります。
国土地理院がインターネットで公開している自然災害伝承碑の地図です。
2000以上あるといいます。
愛知県、安政東海地震、安政南海地震、推定29mの津波が到来したとあります。
・年表
1944年、1946年の昭和南海地震、昭和東南海地震
佐藤所長「終戦前後に地震についてあまり聞いたことないですね」
■調査③隠された昭和の南海トラフ地震とは?
●三重を襲った大地震
津地方気象台
・藤原善明さん
81年前の南海トラフ地震の波形記録が残されていました。
途中で波形が無くなっています。
藤原さん「揺れが強すぎて針が飛んでしまったからです」
1944年12月7日13時35分過ぎの大地震のことです。
現地調査を行い、実態を記録しました。
被害の詳細を報告書にまとめていたのです。
ところが極秘の文字、日本政府は公表することを禁止したのです。
なぜ被害の実態を隠したのか?
■隠された被害
内務省の通達には、軍需工場や鉄道などの戦力低下につながる被害は掲載してはならない。
昭和東南海地震を隠した理由は、軍需工場が壊滅的被害を受けたからでした。
1944年は敗退を重ね戦力を消耗しているときでした。
軍需工場では学徒が生産に従事していました。
地震による犠牲者は1200人、その被害も報道されませんでした。
ところがその翌日には、ニューヨーク・タイムズには、軍需産業は壊滅的被害という記事が出ていました。
世界中の観測所で検知されていたのでした。
情報が伝わらなかったのは国内の日本人に対してでした。
伝わらないという結果をもたらしました。
・木村玲欧さん(兵庫県立大学)
被災者にインタビューしたのですが、被災体験をうまく思い出せなかったと言います。
軍や親たちから外に漏らさないようにとか、体験に蓋をしてしまったことが考えられます」
絵画で50人の被災を再現しました。
●スタジオで
河合先生「全国的に報道されていれば被害は抑えられたでしょう」
「先人たちがどう乗り越えていったのかここも大事ですよね」
2025年1月17日、阪神・淡路大震災から30年となります。
心配されているのが記憶の風化です。
ーーーおわりーーー
次回は「サムライたちの甲冑」1月22日(水)22時放送です。
■感想
地震のサイクルとしては1855年→1945年と約100年後に発生していると考えると、2045年前後に起きる可能性が高いのかなと推測できます、素人的にも。
なので気象庁は30年以内に起きる可能性が高いと言っているのでしょうね。
これもひずみなどによって起こるといわれる、プレートテクトニクス理論が正しいと仮定した場合ですけど。
地震学ってまだまだ発展途上、言い換えるとレベルが低く、予知予測は難しいようです。
それゆえ、歴史書などの過去の記録に頼らざるを得ないともいえますね。
南海トラフ巨大地震と言い出したのも最近ですし。
番組全体としては面白かったのですが、やっぱりぶち込んできました。
そうです、戦争で報道管制のため被害が増えたということ。
戦争で負けた日本を今でも引きずる気マンマンのようです(笑)
記憶を風化させるなということでしょう。
平気で報道自主規制するくせに!