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【感想】NHK 歴史探偵「家康の顔」を視聴しました

2023年3月8日(水)22:00~22:44、NHK 歴史探偵「家康の顔」を視聴しました。

<始まる前に>
家康は影武者だった説でもやってくれるのかな?
そんなことあり得ないか!?

<NHKのあらすじ>
徳川家康の「顔」を徹底調査!
神様や仏様の姿、理想のおじいちゃん像も!
生前の家康の顔を忠実に描いた下絵から、肖像画の決定版を完成。
果たしてリアルな家康の顔とは?

■どうなの?家康の顔

■スタジオで
家康の肖像画を集めてみました。
佐藤所長「タヌキおやじというイメージはありますから」
数百にものぼり、研究者も把握できていません。
本当の顔は謎に包まれたままです。

■徳川宗家に伝わる家康の”顔”

・徳川家広さん(宗家19代)
徳川代々伝わる非公開の倉庫およそ2000点を保管しています。
江戸時代に描かれた「東照大権現像」です。
ふくよかで丸みのある広く世に知られた家康の顔そのもの。
東照大権現は、全国の東照宮にお祀りしているときの神の名前です。
全国で700社以上の東照宮が建立され東照大権現像は広まりました。
神様っぽくアレンジしてあり、本当の家康かどうかわかりません。
・松島仁さん(徳川記念財団)
目の辺りを中心にアレンジされ神格化されたのは、天海のアドバイスがあったのではと考えています。

■家康ゆかりの日光 孫・家光が描かせた”顔”

日光山輪王寺
大猷院といわれる霊廟、3代将軍・家光が祀られています。
日光東照宮とは約400mの距離で、家光が家康を慕っていたことがわかります。
11歳まで家康の姿を間近に見て育ちました。
家光が描かせたとされる「霊夢像」狩野探幽筆、祖父の優しさを感じさせます。
ひげも長めで、全体的にリラックスされているように描かれています。

■霊夢像にある秘密が
ポイントは家康の装束で、山鳩色の麹塵袍を纏っています。
麹塵袍は、桓武天皇、聖武天皇などの仏教を守護とした天皇を理想化して描く場合に多いのです。

■スタジオで
加来耕三さん(作家)
「時代によって変わったような気がします。カッとなりやすい気持ちを抑える技術が顔に反映されています」
「三方ヶ原の戦いで武田信玄の振る舞いを学ぼうとしました」
佐藤所長「もう少し客観的な手がかりはないの?」
イタリアで出版された『著名武将列伝』です。
イエズス会宣教師の記録を元に想像で描かれた家康像で、西洋人と見られていたようです。
家康自らの意志で残したと伝わる絵が残っていました。

■生前の顔を伝える?秘蔵の家康木像

増上寺近くの芝東照宮へ
・勝田博之さん(宮司)
貴重なご神像を特別にテレビ初公開。
高さ1m、60歳の還暦を祝い、自ら作らせた木像です。
切れ長の目が特徴的な、表情からは強さを感じます。
・松島仁さん
切れ長の目が特徴的で阿弥陀仏としての家康を描かせたのではないか
徳川家の信仰の中心であった浄土宗を帰依してきた信仰心の熱い人物を表したと考えられます。
神としてだけでなく、阿弥陀仏との一体化が進められました。

■しかみ像 注目の新説に迫る

浜松・浜松城へ
出世城と呼ばれています。
1572年(元亀3年)三方ヶ原の戦いで信玄は家康の領地へと進軍しました。
結果は惨敗、命からがら浜松城へ逃げ帰ったといいます。
・鈴木利雄さん(ガイド)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」

「徳川家康三方ヶ原戦役画像」Wikipedia

家康が戒めのために描かせたものだと言われています。
しかみ像といわれる肖像画。徳川美術館にあります。
ところが、近年、しかみ像の由来を根底から覆す新説が登場。
・原史彦さん(名古屋城調査研究センター)
三方ヶ原に関する情報とまったく関係ない肖像なのです。
「御清御長持入記」には、東照宮尊影と経由のみで、戦いの記述はありません。
では、いつから戒めの絵と言われるようになったのでしょうか?
愛知県図書館へ
エピソードが広まったきっかけとなる記事が見つかりました。
祖先を語る座談会で徳川義親が語った言葉です。
三方ヶ原の戦いのご画像が残っています・・・子孫への戒めとして・・・」
・原史彦さん
うまくできたストーリーだということで、日本人の琴線にふれたんでしょう。
崇める対象として、所作は弥勒菩薩の半跏思惟像で、不動明王の顔に似ています。
要は武神の神としての家康を表現したものではないかと考えます。

■スタジオで
加来耕三さん
「二度と乱世に戻さないというのがスローガンでした。幕府が安定してくると極楽浄土の思想、家康と阿弥陀仏を一体化する解釈が生まれました」
「見る立場、見る時期によって見方が違うように感じました」
これぞ生前の家康という肖像画が見つかりました。

■これぞ徳川家康!たどりついたその姿とは

・徳川家広さん、徳川典子さん
家康のイメージを覆す肖像として研究者の注目を集めているものです。
75歳で亡くなるその前後に描かれたといわれる肖像画です。
深いシワが刻まれ、戦国武将らしい顔立ちです。
全体的に色合いが薄めで、完成ではないように見えます。
紙形といって肖像画の下絵の段階です。
最終的な完成画は、ありのままの姿ではなく、加工修正があたりまえです。
しかし、下絵である紙形は真の家康像といえます。
そこで今回、徳川記念財団の許可を得て、よみがえらせることになりました。

■家康の絵決定版!制作プロジェクト

監修は松島仁さん
作成は諫山宝樹さん(日本画)
狩野安信が描いた家康像を参考にします。
血色が良い、つやつやの肌をしていたのではないでしょうか。
神や仏の肖像と違い、生身の人間としての姿です。
1ヶ月後、隈取りの作業に取り掛かっていました。
ついに迎えた完成の日
白描のときと違い、紙形。人間としての家康です。
家康が生きていたら本当にこのような顔だったと思える顔立ちです。

■スタジオで
佐藤所長「すごくやさしそうで穏やかなおじいちゃんという感じがします」
加来耕三さん「見たままの家康がいる、大発見と言っていいでしょう」
(アナ)東照大権現像に似ていると思いました。

ーーーおわりーーー

次回は「VR探検!信長の安土城」3月15日(水)放送です。

■感想

三方ヶ原の戦いのしかみ像の解釈に新説登場、というのは面白かったです。
まあ、解釈なので意外と信じやすいところでもあります。
さて、徳川家康の肖像画で生前のものがあまりないのは、影武者だったから、あえて残さないようにしたんでしょうか。
『史疑 徳川家康』 (河出文庫) 榛葉 英治 (著)という本があります。
明治時代の村岡素一郎著『史疑徳川家康事蹟』をわかりやすくした書籍です。

村岡素一郎によれば、元康と入れ替わった人物を「浄慶」、後に「世良田二郎三郎元信」と名乗った願人であると推定している。彼の母親は、ささら者(賤民)の娘である於大、父親は新田氏嫡流(新田氏支流江田氏)で下野国都賀郡小野寺村出身の「江田松本坊」という祈祷僧としている。天文11年12月26日(1543年1月31日)、駿府の宮の前町で生まれた子は「国松」と名付けられたが、松本坊は彼が生まれた直後にどこへともなく出奔したとしている。
これら、「世良田二郎三郎元信」の経歴やその父江田松本坊なる人物は徳川氏に伝わる始祖松平親氏の伝説と類似している。親氏は新田源氏の一族、世良田有親の子として生まれ、時宗の遊行僧として三河に漂着、酒井氏の入り婿になった後、松平氏の婿となったと伝えられている。しかし、この伝説には疑問も多く、松平氏の先祖を粉飾するための伝説とされている。

Wikipedia

意外と昔からある別人説のようですね。
真実かどうかはわかりませんが、面白いと思いました。
松平を徳川に改姓したのは確かに謎ではあります。
築山殿や子の信康を蔑ろにして亡き者にした動機も別人説を当てはめると、なんとなく腑に落ちます。
美濃の斎藤道三とか豊臣秀吉とか、戦国時代なので、なんでもありそうですし。

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