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葛城氏とソツヒコの正体と謎 幻の葛城王朝

葛城氏は、初期ヤマト政権において多くの皇后を輩出し、天皇家と外戚関係を築いていた豪族です。
ところが、藤原氏や蘇我氏などとくらべてほとんど知られていない地味な存在です。
葛城氏といえば、葛城地方を思い浮かべます。
そして、葛城氏の祖先といわれる葛城襲津彦はどんな人物だったのか
今回は、葛城氏、その正体に迫ります。


まずは、葛城の由来についてご紹介します。
金剛山、葛城山麓一帯は太古より「葛城」と呼ばれています。
葛城の由来について日本書紀はこう記します。
日本書紀巻三神武天皇条、己未のとき、神武天皇は熊野に上陸して大和の宇陀などを通って葛城の高尾張邑に来ました。
ここで天皇は土地の土着民である土蜘蛛と戦い、これを退治します。
この時、葛(かずら)のつるで作った網で土蜘蛛を覆い滅ぼしました。
よってこの地を「葛城」(かずらき)と名づけたといいます。
神武東遷で、神武天皇は和歌山からは紀伊半島をぐるりと周り、熊野越えを選択します。
熊野越えの道案内をしたのが八咫烏です。
もちろん鳥が先導するわけありません。
八咫烏一派、つまり、建角身命、別名が加茂建角身命、三島溝橛耳です。
日本書紀編者によって、氏族を隠された可能性があります。
加茂建角身命は、賀茂氏や葛城国造の始祖であり、下鴨神社(賀茂御祖神社)のご祭神です。
船で吉野川をさかのぼって宇陀市榛原あたりまで同行した模様です。
八咫烏とされた建角身命とは、味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)のことです。
それが分かるのが高鴨神社です。

高鴨神社

高鴨神社は、賀茂氏発祥の地、葛城にある味耜高彦根命を祀る式内社です。
奈良県御所市鴨神の金剛山東山麓にある県社です。
上賀茂・下鴨神社をはじめ全国の鴨・賀茂・加茂神社の総本社でもあります。
葛木御歳神社(中鴨社)・鴨都波神社(下鴨社)に対して「上鴨社」と称されます。
味耜高彦根神の母は、宗像三女神の多紀理毘売命です。
熊野の熊野本宮大社付近で神武天皇とアジスキタカヒコネは落ち合いヤマトに入ることになるのです。

高鴨神社

葛城一言主神社

葛城一言主神社は、葛城山東麓に鎮座する一言主神を祀る式内社です。
奈良県御所市森脇にある県社で名神大社です。
先代旧事本紀では一言主神をスサノオの子と記しています。
記紀において雄略天皇の対面説話が有名です。
創建は不詳。社伝では現鎮座地は一言主神が顕現した地です。
境内には「土蜘蛛」で知られる伝説の蜘蛛塚があります。

葛城一言主神社

葛城氏の祖先・葛城襲津彦

葛城襲津彦の生没年は不明です。
4世紀末から5世紀前半の時代の人物と推定されています。
父親は武内宿禰、母親は荒田彦の娘の葛比売です。
ですが、武内宿禰父親説には疑問が多く否定的な意見が多いです。
子供には、男子では玉田宿禰、葦田宿禰、戸田宿禰らがいます。
女子では、仁徳天皇皇后の磐之媛、履中天皇・反正天皇・允恭天皇の母親がいます。
百済記に見える沙至比跪(さちひこ)は、通説では襲津彦に比定されています。
百済記逸文によると、倭国は沙至比跪を遣わして新羅を討たせようとしますが、新羅は美女2人に迎えさせて沙至比跪を籠絡し、惑わされた沙至比跪は反対に加羅を討ってしまいます。
百済に逃亡した加羅王家は天皇に直訴し、怒った天皇は木羅斤資(もくらこんし)を遣わして沙至比跪を攻めさせたといいます。

葛城襲津彦

弓月の君との関係

日本書紀に秦氏の祖である弓月君との関係が記されています。
応神天皇14年、弓月君が百済からやってきました。
奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし、新羅人が邪魔をしているので、皆、加羅国に留っています」と言いました。
そこで、葛城襲津彦を遣わして、弓月の民を加羅国に呼ばれます。
しかし、三年経っても襲津彦は帰ってきませんでした。
時が経ち、応神16年、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)を加羅に遣わしました。
精兵を授けて詔して、
「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け」と言われます。
そこで弓月の民を率いて、襲津彦と共に還ってきたのでした。
天皇の使者や戦争のために朝鮮半島との間を往来する人物として描かれていることがわかります。
襲津彦がヤマト政権の外交を担当していたことが推測できます。
そのなかで、襲津彦が新羅を攻略した際に俘人(ふじん)=捕虜を連れ帰り、葛城の4つの村に住まわせたという記述があり、鉄などの金属やガラス、韓式土器や須恵器を作らせていたと見られます。

本拠地・葛城

2代、3代、4代、5代の天皇は葛城に都を置きました。
2代、綏靖天皇は、御所市森脇の高岡宮に都を置きました。
3代、安寧天皇は、片塩浮孔宮(かたしおのうきあなのみや)に都を置きました。
この地は葛城地域の範囲にある大和高田市三倉堂が候補地の一つです。
4代、懿徳天皇は、軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)に都を置きました 橿原市大軽町周辺と伝えられています。
孝昭天皇(5代)掖上池心宮に都を置きました。
この地は御所市池之内周辺とされ葛城にあります。
孝安天皇(6代)は室秋津島宮に都を置きました。
この地は御所市室周辺とされ葛城にあります。
綏靖天皇から懿徳天皇までの3代は比較的短期間の在位であったらしく、三輪系・磯城県主の兄弟からそれぞれ皇后を出しています。
宇摩志麻治一族は、三輪山の麓の磯城に代々住んで、磯城県主、十一県主になっています。
天香山一族は、子の兄が高尾張邑に住んで連を継承、弟は熊野本宮大社の宮司、領主となって熊野連となっています。

葛城地方

室宮山古墳

室宮山古墳は、金剛・葛城山麓一帯にある巨大前方後円墳です。
葛城地方では最大、全国第18位の規模の前方後円墳です。
5世紀初頭の築造で被葬者は、葛城襲津彦比定説が有力視されています。
さらに、巨勢山古墳群(こせやま)が葛城にあります。
巨勢山丘陵に所在する日本国内最大級の群集墳です。
古墳時代中期前葉に室宮山古墳が築造されたことを契機として出現し、終末期に至るまで約800基築かれました。

室宮山古墳・巨勢山古墳群

南郷遺跡群

南郷遺跡群は、金剛・葛城山麓一帯30ヶ所以上の工房、導水設備等遺跡群です。
南郷大東遺跡(なんごうおおひがし)は、「水辺の祭祀」遺跡です。
小川を改修し、貯水池から木樋で水を下方へ流す構造となっています。
極楽寺ヒビキ遺跡は、四面に庇(ひさし)が付く大型掘立柱建物跡です。
政治や祭祀を行う公共施設という説が有力視されています。

南郷遺跡群

葛城王朝か?

葛城氏は歴代の天皇に娘を嫁ぎ外戚として権勢を振るいます。
2代綏靖天皇から9代開化天皇までの天皇の宮は多くが葛城にありました。
ヤマトには式内名神大社は9社あります。
そのうち葛城山東麓に鴨都波神社、御歳神社、葛城一言主神社、葛木水分神社、高天彦神社、火雷神社の5社があります。
ヤマト政権のあった三輪山麓に大神神社、兵主神社、大国魂神社、布留御魂神社の4社
このように、王朝所在地に集中していることから、葛城王朝があったと見ることも可能です。
しかし、天皇と外戚関係を築いて皇統を繋いでいることから、その可能性は低いと考えます。

なぜ衰退したのか

これだけ権勢を誇った葛城氏はなぜ急速に衰退したのでしょうか。
古代豪族の葛城氏は、円大臣が眉輪王の反乱に加担したことにより、5世紀後半に滅亡しました。
葛城氏は、神功皇后から雄略天皇の時代にかけて、奈良盆地南西部を支配していました。
歴代の天皇に娘を嫁がせて外戚として権勢を振るいましたが、雄略天皇によって滅ぼされて以降正史から姿を消しました。
葛城氏の大型古墳は奈良盆地南西部の馬見丘陵一帯に集中して造られており、全長200メートルを超える首長墳も存在します。
仁徳天皇の皇后・磐之媛は葛城氏の娘ですから、子の履中・反正・允恭天皇は葛城系となります。
葛城氏の玉田宿禰が反正の殯を怠り、允恭天皇に討伐される事件が起き、ここから衰退への道を歩み始めます。
允恭天皇の逝去後、その次の世代が大王位を継承する時期を迎え、皇位をめぐる争いが激化していきます。

眉輪王の変

仁徳天皇の皇子である父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられました。
安康天皇3年(456年)、年幼くして楼(たかどの)の下で遊んでいた眉輪王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺し亡き者にしてしまいます。
眉輪王が安康天皇を滅した時、葛城氏・円大臣は、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまいます。
しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と「葛城の屯倉7ヶ所か」を差出して許しを乞いますが、認められず焼き滅ぼされました 大黒柱の円大臣を失った葛城氏は、この事件でダメージを受け、直系の一族は滅亡したとされています。
豪族間においても、姻戚関係を築いて権勢を振るった葛城勢力と、允恭・安康・雄略の大王即位を契機に天皇直属軍として編成され、力をつけていった物部・大伴という伴造勢力が、ヤマト政権における主導権を争った武力衝突とみることができます。
その証として、雄略天皇は皇位を継承したときに、大伴室屋と物部目を大連に任命しています。
葛城氏と物部氏、鴨氏との関係など、まだまだ深堀りする価値のあるテーマです。
今後もさらに学んでいきたいと考えています。


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