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“騎士団長殺し”読書感想文27. 《現れいでるものを待つ》

“私は首を振って読書に戻った。考えても詮無いことだ。どれだけ考えたところで結論が出るわけではない。もともとピースが揃っていないパズルを解こうとしているようなものだ。しかし考えないわけにはいかなかった。私はため息をつき、また本をテーブルの上に置き、目を閉じてレコードの音楽に耳を澄ませた。ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団の演奏するシューベルトの弦楽四重奏曲十五番。

私はここに住むようになってから、毎日のようにクラッシック音楽を聴いている。そして考えてみたら、私が耳を傾けている音楽の大半はドイツ(及びオーストリア)古典音楽だった。雨田具彦のレコード・コレクションはおおむねドイツ系古典音楽で占められていたからだ。チャイコフスキーもラフマニノフもシベリウスも、ヴィヴァルディもドビュッシーもラヴェルも、お義理のようにひととおり置いてあるだけだった。オペラ・ファンだからもちろんヴェルディとプッチーニの作品はいちおう揃っていた。しかしそれもドイツ・オペラの充実した陣容に比べれば、それほど熱意の感じられない揃え方だった。

おそらく雨田具彦にとっては、ウイーン留学時代の思い出があまりに強烈だったのだろう。そのせいでドイツ音楽に深くのめり込むようになったのかもしれない。あるいは逆かもしれない。彼はもともとドイツ系の音楽を深く愛していて、そのせいで留学先をフランスではなくウイーンにしたのかもしれない。どちらが先なのか、私にはもちろん知りようがない。”


村上春樹氏があえて作品内に置いたシューベルトの弦楽四重奏曲十五番をスマホで聴いた。とりとめもなく、[回想]、[そして現れるもの]、[懐かしさ]、[現れいでるものを待つ]といった言葉が浮かんだ。ウイーンでこともあろうに、ナチス・ドイツのスーパーシュトルムウントドランクの時代に青春を費やすという事は、地獄の淵を覗き、同時に天界のめくるめくような情熱を注ぎこまれるような、天地晦冥の日々が想起される。平凡だが、若き雨田具彦は恋、愛、友情、運命の自覚、使命感、英雄的行動、恐怖と絶望、決死などからなる体験の渦に巻き込まれ、不本意にも仲間を窮地死地に残したままに同胞に助け出される、生還してしまったことに、余生、第二の人生を結晶化させなければならない。またウイーンでの若き日々の思い出・情熱・運命圏内からは離れられない。たぶん雨田画伯はまだ霊的には囚われの身だと思われる。生き別れ死に別れの人々の面影は脳裏から離れることはなく、だから逆に毎日のドイツ系古典音楽に浸り、自分自身の前半生を昇華安定化させなければならなかった。しかし断ち切られた青春の頃の技法はあまりにも生々しい為、使えない。日本人としての感性、技法、深層意識をフィルターとして、かつての日々を描き、閉じ込め封鎖する作業。日本画技法で武装して。そのような人間の深淵が開いてしまった超自然を“私”は探索しなければならない。免色は頼りがいある同伴者として配置されている。序章での“顔の無い男”との遭遇は、どのあたりで起きたのだろう?