エチュード 谷間の人々11.
浦野はリュックから、古いテープレコーダーを取り出し、土の上に直接置き、スイッチをいれた。ドビュッシーの交響曲"海"だった。必ずしもこの曲が海そのものではないが、海の精霊が人間の理性と意識を、未知なる高みにいざなっている。その甘味な魔性は人間を住み慣れた自我と世界から一挙に奈落に突き落としてしまう。それは浦野と山の精霊との符牒、通路なのかもしれない。生木を裂くような浮世の苦しみが、浦野に人と山の境界を踏み越えさせたのだろう。打ち寄せる山の精霊の気配に対して、"海"は力強くしみ入り調和した。浦野が読み上げた古い文庫本は、ヘッセの小説"郷愁"だった。 「俺の青春のバイブルよ。時々リルケの"ドゥイノの悲歌"も、聞かせてやるんだ。」 一体何に? 「さっき聞こえた御詠歌みたいなのは何百年も前の山伏や行者の残響なんだよ。懐かしがって繰り返してるんだ。いろんなもんがいろんな名前でいるんだよ。まだこの山には。例えば地母神、牧神、水神、龍神、観音、地蔵とか。昔の人間はきちんと彼らをわかり、きちんと付き合いをしてた。だからまだこの世の上にいて俺らを見てる。」
(画像は"森PEACE OF FOREST"小林廉宜。世界文化社より。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?