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大好きだった祖母

今日1月12日は祖母の命日


彼女には7人の孫がいたが

私を一番かわいがってくれた


何の取り柄もない自分だったが

自分が一番素直に喜びを表現する

子どもだったからかもしれない


祖母が亡くなった時も

母が『あんたのことを一番かわいがってた』

と言っていた


祖母は人を喜ばすのが好きだった

どこか行くと必ずお土産を買ってきてくれた


自分が鉄道が好きだということで

当時何万もする鉄道模型を買ってくれた


蒸気機関車が好きだということで

小1の春休みに

わざわざ山口県まで連れて行ってくれたりもした

その時がタイトルの写真である


当時は今と違い

静岡と山口しか蒸気機関車が走っていなかった

しかも静岡では小型で

自分が好きなのは大型のものだった


それに対し山口では

かつて急行列車を牽引していた

大型の蒸気機関車が走っていた

だから山口まで連れて行ってくれた

しかも憧れの寝台列車で


初めて目にするまだ新しい

14両の長い真っ青な寝台列車が

次々東京駅に入線する

もう虜😍

電車とは違う

客車列車特有の『ガクン』という振動で発車


車窓には漆黒の闇に浮かぶ

丸の内・八重洲のビルの明かりを後に疾走する列車🌙

翌朝の瀬戸内海の美しい海岸線🐟


山口に着けば

初めて動いている蒸気機関車に興奮✨

運転室にも入れさせてもらった

でっかい車輪

真っ黒なスマートなボディ

大きな汽笛にビビって耳を塞ぐ


峠をあえぐように登ったかと思えば

平坦地では時速80キロ以上でぶっとばす

往年の優等列車を彷彿させる走りを魅せてくれる


この旅行がきっかけで

今でも走っているこの蒸気機関車が

全ての鉄道車両の中で一番好きになった


初めての見る洞窟🔦 秋芳洞

カルスト台地 秋吉台

こんな素敵な旅をプレゼントしてくれた🎁


帰ってきた後は

祖母の家に行くたびに

日本地図を見ながら🗾

『すいぶん遠く行ったね』

とお菓子を食べながら話した


旅は行くときだけが楽しいのではない

後から思い出話をする楽しみもある😉


その2か月前は

蔵王にスキーに行った☃


名物の樹氷を見るべく

長時間ロープウェーに並んだ

あんなでかい樹氷

2度とみれないかもしれない


その年は記録的な大雪で

(いわゆる昭和56年の大雪)

タクシーがホテルまでの坂道を上がるのを拒み

大きな荷物をもって仕方なく歩いた


祖母が『あの時はえらい目に』あった

と会うたびに楽しそうに言っていた

そんな会話も好きだった


その翌年は

前回でブログで書いたように

大所帯で蔵王にスキーに行った

めちゃくちゃ楽しかった🥰


その3年後は湯沢にスキー

軽井沢や熱海、下田


妻籠宿・天竜峡・駒ヶ根も行った


国鉄民営化直前の最後の春

どうしても乗りたかった

日本最長距離列車の

寝台特急はやぶさに乗って九州一周の旅に行った

今度も従兄弟家族と



東京―西鹿児島

20時間1500キロの旅


車窓から見る不知火の青い海🐟


長崎鼻の開聞岳

青島の鬼の洗濯板や鵜戸神宮⛩


どれもこれも楽しい思い出がいっぱいだった✨


大人になってからは

一緒に旅行することも少なくなったが

祖母が行きたいと言った

五能線や釧網本線の湿原トロッコに連れて行った🍀


札幌行きの寝台列車で流氷が見たかったけど、

歳だからいいやとも言った

どうしてあの時

『流氷見に行こう』と強く言えなかったのか

今でも思い出しては後悔する


そんな祖母にたった一つだけ恩返しができた


生前からずっと

『ひ孫が欲しい』

を繰り返した

私の息子が一番最初のひ孫となった


ひ孫との初めて見た時の

あんな嬉しそうな祖母は

後にも先にもなかった


そんな元気な祖母も

亡くなる1年前になると

施設に入ることになった


施設に入ったことで

でかえって体力が落ち

もう数か月しか持たないと

母から連絡があった

泣きながら夕食を食べた


施設に何度が息子を連れて行くと

やはり嬉しそうだった😊


しかし、意識が混濁している時が

あると聞いていたので

恐る恐る『俺、誰だか分かる?』

ちゃんと答えてくれた


スーツ姿の自分を見ると

『仕事帰りだろ?早く帰って休みなさい』

そんな心配をしてくれた


何度も『ありがとう』を伝えようとした

しかし、それは祖母に永遠の別れを

告げるようなものであり

とても言えなかった


帰りのバスから見る

信号の赤黄青が綺麗に滲んでゆく

他の乗客にバレないように泣いた


ある日祖母に会いに行こうとした日があった

でも、疲れていたので

行くのを止めた

しかし、それが生前に会う最後のチャンスだった


すごく後悔した

何度も自分を責めた


亡くなった当日の朝

母から電話があった

何の電話かは分かっているので

出たくなかった


仕方なく出ると

出るのが遅いと母に怒られた

泣きながら朝食を食べた

享年96歳だった

会社に行っても仕事にならなか

マスク越しに涙が止まらない

何度もトイレに行っては顔を洗う

上司には

『いやあ、鼻水が止まらなくて』

と精一杯の嘘


この日のした仕事

みずほ銀行と三菱銀行の入金が

完全にイレコになるという初歩的ミスをした

ミスが分かったのは月末だった

日付は1/12だった


告別式の前日

想いを込めて動画をyou tubeにUPした

https://youtu.be/XxWB3R2NJoo

小さい頃言われたことを思い出した

『おばあちゃん死んだら泣いてくれる?』


子どもの頃から

祖母の方が早く死ぬことを考えると

怖くて仕方なかった

涙で枕を濡らすこともあった


いつかこう考えるようになった

祖母は120歳まで生きる!

自分はそのとき60歳ぐらい

体がそんなに頑丈じゃないから

一緒にあの世に行くのもいいかもなと思ってた

なんで、勝手に一人で行くの?

なんで、自分を置いてきぼりにするの?


告別式当日は

涙が止まらなかった


火葬している最中

お菓子を食べながら

昔のアルバムを見ながら

従兄弟、叔父叔母と思い出話に

花を咲かす


ふと4歳の自分の息子に

『ひいおばあちゃんいる?』と聞いてみた

子どもには大人には見えないものが見えるからだ

『この部屋にいるよ!笑っているよ😀』

なんだか嬉しくなった


精進落としは

祖母が好きだった

新宿の京王プラザホテルにした

『あたしの葬式で、みっともない食事だったら化けて出てやる』

と脅されて❓いたので、

喪主の叔父に対して私が強く要望した


あの世代の人には珍しく洋食が好きで

海外旅行はアメリカ、ハワイ、イギリス、

フランス、イタリア、スイス・・・いろんなところに行っていた

しかも為替レートが300円台の時代に

YES,NOをはっきり言う人だった


祖母が泣くなってからは

しばらくは心身がまともではなかった

本当はどこかで生きているのでは?


せめて夢でいいから会いたい

なんで夢にも出てきてくれないの?

5月頃やっと夢に出てきた


蝶が舞う

小鳥がピヨピヨと泣く

美瑛の丘のような場所で

立つ小さな家の中

先に旅立っていた祖父と並んで

テーブルで対面した



祖母が

『もう泣かなくていいんだよ』

祖父はニコニコしながら甘いお菓子を食べていた


この夢を見た翌日から少し元気が出た


今でも従兄弟と仲がいいのは

祖母が長生きしてくれて

遊ぶ機会を設けてくれたおかげだ

従兄弟と会えば必ず祖母の話となる


祖母が亡くなった以降は味方がいなくなった気がした

自分の人生も暗転した


離婚して

癌になり

婚活で苦しみ

投資もうまく行かない

瞬間瞬間は楽しいこともあるが

基本毎日が辛い


今の自分を見て祖母はどう思うだろう?


もっと明るく生きたい

でもメンタルがもたない

いっそ祖母のところへ行きたい


もしあの世で

祖母がいて

消え去った列車達がいるなら・・・





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