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アロハ通信#27           ハワイに移住した叔母のこと 六甲もこ

我が家は3世代続いて、家族のなかから誰かがハワイに移住しています。以前寄稿したエッセイ、「ハワイに移民した大伯父のこと」では、移住1代目となる大伯父について書きました。2代目は父の妹である叔母です。

叔母は男4人の後に生まれた、たった一人の女の子として、両親にとても愛され育ちました。なので、祖父母が大伯父を訪ねてハワイを訪問した時も、叔母だけが着いていきました。たった一人の妹なので、父をはじめ兄4人もお小遣いなど渡したりして、快く送り出したそうです。

医者の卵だった叔母は初めてのハワイが相当楽しかったらしく、研修先にハワイのクイーンズ病院を選びました。叔母は麻酔医だったのですが、研修中に小児科医の叔父と知り合い結婚、その後20年ほどハワイに住みました。今は、ネブラスカ州で引退生活を送っています。

結婚後、叔母夫婦はオアフ島の西海岸、マイリ・ビーチに移り住み、近くに

マイリビーチ

小児科を開業しました。当時、そのあたり一帯は、先住ハワイアンやポリネシア系の人々が多く、子どもが多いあたたかい土地柄だったそうです。叔父は絵が得意だったので、小児科の壁にミス・ピギーやカーミットなどのイラストをたくさん描きました。それを見てたくさんの子どもたちが遊びにやってきて、とても賑やかな診療所だったそうです。

武蔵丸

その遊びに来ていた子どもたちの中にひときわ体が大きく、クリクリっとした目の男の子がいたと言います。その体の大きな男の子は後に、海を渡って第67代目の横綱、武蔵丸関となりました。子どもがいなかった叔父叔母は、武蔵丸関の活躍を、わが子のように喜んでいました。

その後米本土に移るまで叔父は小児科医を続け、叔母は麻酔医から方向転換して医療翻訳の仕事に就きました。たくさんペットを飼い、ハワイの田舎暮らしを満喫していたようです。大学生だった私が初めてハワイの叔母の元を訪ねたのは、ちょうどこの頃でした。

初めての海外で緊張していた私ですが、バスに乗って西海岸の叔母の家に着くころには、すっかりハワイの虜になり、その晩叔母夫婦を前に、「絶対将来はここに住む!」と宣言してしまいました。

昼間は海で泳ぎ、動物たちと遊び、夜はつたない英語で叔母夫婦とあれこれ話をし、そのうち叔父がピアノの前に座って即興で歌いだす。庭から新鮮なフルーツをもいできて食べたり、皆で料理をしたりと、そんな生活がとても心地よく、あっという間の一週間でした。

将来はハワイに住むと宣言したものの、結局私がハワイに長期で訪れることになるのは、ずいぶんと後のこと。就職をして、様々な問題に対処しているうちに日は過ぎて、やっと留学できるようになったころには、叔母夫婦は米本土に越してしまっていました。ハワイ大学に留学し、大学院在学中に仕事を見つけて、卒業後はそのまま就職。職場からビザを出してもらい、ハワイに本格的に住むことになりました。あれから幾星霜。私も結婚し、叔母夫婦と同じく子どもはおりませんが、毎日シンプルかつ楽しく過ごしております。あと10年ほど仕事を続け、リタイアの予定。よほどのことが無い限りは、きっとこのままハワイで骨を埋めることになるでしょう。(六甲もこさんのこのエッセーはアロハ通信#18の続編)

ホノルル空港

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