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【短編】 ふわり、ゆめうつつ。
数秒、目を閉じて。
そこでわたしは想像してみる。
海の底から見上げる夜のこと。
体のすぐそばから泡がぶくぶくと昇り、
遠くの水面にはきらきらと光るくらげのお星様がわらっている姿のこと。
小さなお魚さん達も水をいたわるように優しく鰭を動かしている。
そこにはいらないものなんて何もない。
ただゆるりと動く水の流れと、
すうっと冷える温度の感覚。
ずっと、わたしはこの海の世界に恋をしていた。
「…碧!もうご飯の時間!!」
【Time 21:02 / Place In My room】
一階にいるお母さんの声。
ぽすん、と
本棚の文庫本が倒れた。
…
【Time 17:26 / Place In My classroom】
お母さんのおいしいご飯を食べて、夜はふかふかのおふとんで寝る。
春は近くの公園にお花見に行ってみんなでお弁当を囲む。
そんな半径数キロメートルのわたしにとって当たり前の幸せ。
今という現実はあたたかくて、すぐ過ぎ去っていくもの。
それなのに時々すごく不安になる。
いつかだめになるんじゃないか。
いつか終わってしまうんじゃないか。
例えばどこかの国からミサイルが飛んできてしまったり。
得体の知れない感染病でみんながいなくなってしまったり。
もしかするとわたしの気づかないところでそれはもう起こっていて、
わたしがぼおっとそれを見過ごしてしまっているだけなのかもしれなかった。
それでも苦手な生物のテストが明日あるとか、
仲良しのA子さんとBちゃんが好きな人を巡って争っているとか、
そんな些細なことばかりが気にかかって、
わたし達はわるい子なんだってことを、見ないようにして生きてるんだろうかとか、感傷にふけってみたりする、
夕暮れの教室と小さなわたしの机と椅子。
わたしにとって放課後の教室は数少ない避難所だった。
だって、誰もいないから。
それでも時々同じクラスの人の声が廊下から聞こえてくると、
皆とちがって独りきりのわたしを探しに来たんだと思って、少し怖くなる。
それでわたしはようやくお家に帰ろうと、重いかばんを背負う。
…
【Time 19:27 / Place In My room】
わたしの部屋には、海の世界があった。
去年の誕生日にもらったおっきなくらげの写真集。
お気に入りは見開きに載っている華やかで美しいクラゲではなくて、
端っこの小さいスペースにいるキャノンボールゼリーフィッシュ。
名前の由来になっている「大砲の弾」みたいな恐ろしさは全然なくて、
むしろまるまるとこねたお団子みたいな可愛らしさがあった。
さぞかし神さまもにこにこしながらこの子を作ったんだろうなぁ、と思う。
わたしはお家に帰ると毎晩キャノンボールゼリーフィッシュのところを開いて、
海の中に想いを馳せるようになった。
きっとこれは恋か、もしくは祈りだ。
あの海の中の可愛らしいお団子への憧れ。
あるいは、時間の制約のない海がずっと美しく続いていますようにという祈り。
そう、わたしが恋焦がれる海には時間がなかった。
ずっと静かな夜が続いている。
そこには外敵もないし、災害もない。
ただの平和があった。
それは小さなお団子くらげがずっと生きていけるくらいの平和。
だから、わたしはあの子に「大砲」の名前を付けたどこかの偉い人があんまり好きじゃない。
…
「碧ちゃんには、発達に支障がある恐れがあります。」
娘のことで勇気を出して向かった心療内科で、お医者さんはそう言った。
「お母さんが碧ちゃんのことで悩まれている、誰かと関わることが苦手だったりとか、人より動くのがゆったりしているといった悩みは今後も続く可能性が高いでしょう。これは脳の機能の問題であって、碧ちゃんの何が悪いとか、そういうことではなくて、そういう個性のひとつなのです。あの子がもって生まれた、才能のひとつなんです。」
「だから、お母さんは碧ちゃんのゆったりさを祝福してあげてください。世界には必要のない人間なんていません。必要とされているから、碧ちゃんは生きているんです。」
それでも、私は答えざるを得なかった。
「私が祝福しても、たぶんいずれあの子は何かに傷つけられます。あの子を傷つける相手は会社かもしれないし、恋人かもしれません。ただ、あなたが仰るほど、世界はそこまで優しく作られていない。私はじきに訪れるその『いずれ』が、怖いんです。」
「お母さん、世界は誰かに負債を擦り付けることで成り立っています。例えば、負債を背負わされる前に、そのことに気づかなかったり、自分の身を守れないのは悪だと、そう判断されるものです。
失礼。今更、私が申し上げることではないですね。ただそんな理不尽の中でも、私たちが出来ることが僅かながらあります。それは何か。」
「信じることです。何事も、祈らなければ始まりませんから。」
…
【Time 11:04 / Place In my room】
ぼおっとした一学期が溶けてからん、と音をたてた。
それくらいあっさりと夏休みは訪れた。
小学生の頃みたいに水泳の授業で学校に通う必要もないから、
リビングでごろごろ過ごしている時間がたくさんあって、愛おしかった。
海にはたぶん行かない。
暑いだけならいいけれど、本物を見てしまえば、きっとわたしがだいじに見てきた夢が崩れてしまうから。
それでも、ほんの少しだけあの海に近づいてみたかったから。
「碧、もう出るよー。」
身支度を済ませた、お母さんの大きな声。
はーいと応えながら、わたしも階段を降りていく。
くらげのように、ゆったりと生きていたい。
あの海のように、澄んだわたしでいたい。
そのひそかな想いを確かめるために、わたしは水族館に行く。
あの海も、わたしの日々も、続いていく。