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【短編】 僕ら、空のこどもたち

「あの、すいません。」
渋谷の交差点で、彼女はそう告げた。
世界一混み合うこの交差点は、誰もが皆、何かに急かされるように小走りで歩いている。その一人一人が向かう先を、僕は知らない。 
「えっ?」
僕は咄嗟に聞き返す。この交差点は騒がしいから、か弱い彼女の声は僕以外には届いてなかった。
「優しさは、いりませんか。誰かに優しくなれます。平和に過ごせるんです。」
信号がチカチカと光り、その存在を主張する。僕も向こうへ渡らなければならない。
「いりません。」
僕は振り返ることなく進んでいく。
優しさがなくてもこの街は光り続ける。むしろ、泳がないと死ぬ魚がいるのと同じで、無心で歩き続けないと、この街では生きていけない。

電車を降り過ごした。
食事中に食器を落とした。
それだけのことでただ、ぼおっとしたくなった。ただ些細なことで傷ついたわけではなく、そんなことが起こる前から自分は随分と傷ついていて、小さな拍子でそのカサブタが剥がれただけなのだと思った。 自宅近くの公園のベンチからは空が広く見える。美しい空は何を言わずとも、美しい。ただ、たくさんの物象が時間と共に溶けていく。

「優しさは、いりませんか。誰かに優しくなれます。あなたもきっと。」
また微かな声が聞こえる。身体を起こすと、彼女はすぐ正面に立っていた。
「何がしたいんですか。優しさを売ってるんですか?」
「優しさは買えません。だから、売ることも出来ません。」
「じゃあ、僕にどうしろと?」
「焦らないで、大丈夫です。生きることは、衝撃に耐えることです。ぜんぶ、忘れられます。」

頭上では、パステルカラーの薄暮がどこまでも広がっていく。雲までもが橙色に染まり、そのうねりが陰影を帯びている。
地元の公園になぜか彼女がいることも、ここで交わす言葉もすべて幻に思えてきた。

僕はいつからか、孤独になっていた。
会社勤めしてから気づけば五年になり、学生の頃の友人と会わなくなった。誰かと繋がっていたいと思うことも減って、数字だけを追い求めるようになった。常に絶対的な正しさが僕の目の前にあって、その他は例外なく間違っているか、効率が悪いのだった。 
「…僕はどうしたらいいんですかね。」
「無理に考えなくても、いいんです。正しいとか間違ってるとか、考えてもしょうがないんです。ぜんぶ、私たちじゃなくて、お空が決めることなんだから。」
雲をのせたパステルカラーの空が、波を打つように大きく揺れ始めた。

故郷の住宅街に僕は立っていた。両脇には少し大きな一軒家が並んでいて、その横に整えられた木々が陽の光を浴びながら輝いている。
子供のころはこの道を歩いて帰るだけで、どこかわくわくした。自分が光の一部になって、木々の合間を縫って泳いでいるような心地がした。風景はいつだって僕の身体の一部だった。さらに言えば、こころの一部だった。和やかな景色は、僕を和やかにしてくれる。理屈なんかよりよっぽど僕のこころをわくわくやどきどきでいっぱいにして、幸福な人生の予感をくれるのだった。

人は、風景に生きて、生かされています。
きっと、みんな、お空の従僕です。
でも、怖がらなくても大丈夫。

彼女の声が遠くから聞こえてくる。
身体をぼんやりと風景に委ねていると、次第に手足の先から陽だまりの景色に溶けていって、僕は風になっていた。

あなたもきっと、優しくなれます。
みんな、いつか風景に溶けていく、さみしいこどもたちだから。

風になった僕は、故郷の街を緩やかにふき抜けていった。重力も制約もない、軽やかなたび。

私もあなたも、みんな、さみしいこどもたちのひとりだから、いつかはお空のもとで溶けていくよ。

だから、いつかまたここで、身をひそめて。



ーーーー


朝が来て、時計が鳴った。
けだるい身体に喝を入れるみたいに、大きくのびをして、布団から立ち上がる。
カーテンをまくって窓を開くと、やわらかい朝風が吹き込んでくる。
あぁ、いつもの今日が始まるんだな。
そう思うと、学校にいるみんなにふと会いたくなって、急いで制服に着替え始めた。


また、わたしの今日が、始まっていく。




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