医師を目指した高鍋町出身の石井十次は、医学書を焼いて児童福祉の道を歩んだ
宮崎県高鍋町の中学生は、石井十次のことばを暗記しています。
いや、呼び捨てはせず石井十次先生と呼びます。
石井十次は、高鍋町では知らない人はいないのですが、高鍋町以外ではあまり知られていません。
椎葉村出身の私は、全く知りませんでした。
厚生省の児童家庭局に勤務していたときに、児童福祉の父と呼ばれる偉人が宮崎県にいたことを知って驚きました。
石井十次は、医師を目指して故郷の高鍋を離れて岡山医学校に進学します。
岡山県の上阿知村に代診医として赴任しました。
石井十次の勤務する診療所に隣接した大師堂は、食事に事欠く巡礼者たちが集まる場所となっていました。
ある日十次は、二人の子どもをかかえて備後の国から巡礼にやってきた母親に会いました。
このままでは、備後に帰り着く前に三人が共倒れになると、母から一人の子どもを預かりました。
これがきっかけとなって、十次は孤児や貧児をつぎつぎに預かるようになりました。
こうしたことから、十次は考えました。
自分が医者をやめたとしても、医者になりたい人はたくさんいる。
自分が子どもを預からなかったら、誰も預かってくれない。
十次は、児童福祉の道を進む決心をしました。
覚悟を決めるために、これまで勉強をしてきた高価な医学書をすべて焼きました。
こうして退路を絶った十次は、1887年9月に岡山市のお寺を借り受けて、孤児院を開設しました。
十次の活動には、多くの人が支援をします。
倉敷紡績の社長の大原孫三郎は、十次の最大の支援者となりました。
大原孫三郎は、企業経営以外にも、倉敷中央病院や大原美術館の開設、労働衛生研究所の設置など、さまざまな活動を行っています。
クリスチャンの石井十次の影響を受けていました。
十次は、故郷の宮崎県に帰って、孤児院を開きます。
現在の木城町に、石井十次記念館があります。
ここには、岡山から移設された当時の建物もあります。
この時代には珍しく写真が多く残されており、その多くは外国人によって撮影されたものです。
中でも、孤児全員が勢揃いした写真は圧巻です。
子ども家庭庁の職員をはじめ全国の児童福祉を担当している方々は、ぜひ視察されることをおすすめします。
石井十次を知らずして、児童福祉を語るなかれ。
十次は「子ども満腹主義」を提唱しました。
子どもは、おなかいっぱいにさせておけば悪いことはしないと言っています。
子ども満腹主義は、現在の子ども食堂に通じるところがあります。
子どもまんなか社会、子どもファーストよりも、しっくりと腹落ちします。
映画「石井のおとうさんありがとう」では、マツケンサンバの松平健さんが石井十次を演じております。本当にそっくりです。
高鍋町役場の入り口に掲げてある石井十次のことばです。
為せよ屈するなかれ
時重なればその事必ず成らん
石井十次は、ライオンの絵の前で、子ども一人ひとりと向き合いました。
この有名なライオンの絵は、記念館にあります。
ハベレオは、have leo!
心の中にライオンを持つ人に面白い公衆衛生を届けたいと、このハベレオ通信を始めました。
言い換えれば、ライオンハート的公衆衛生通信。
為せよ屈するなかれ 時重なれはその事必ず成らんと、私はこれからも書き続けていきます。