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広島東洋カープ初優勝の立役者ポプキンスはアメリカに帰って整形外科医になった

昔、広島東洋カープにポプキンスという外野手がいました。
広島が初優勝したときに貢献した選手です。

ポプキンスは、雨天順延のときなどの練習がないときに、広島大学医学部の解剖学の教授のところに行って勉強していました。
大学の教職員たちは、カープの現役の選手であるポプキンスが来ていることに非常に驚きました。

ポプキンスには夢がありました。
それは、医師になることでした。

日本のプロ野球でお金を稼ぎ、いつの日かアメリカに帰ってメディカルスクールに入るための勉強をしていたのです。
ベンチの中でも、時間があれば、分厚い医学書を読んでいました

選手としても一流で、1975年10月15日の優勝を決めた後楽園球場における巨人との試合は、9回表に出たポプキンスの3ランホームランで決まりました。
ポプキンスの活躍は、WBCで活躍したヌートバー選手に似ています。

広島大学医学部の学生で、学園祭の実行委員だった越智光夫さんは、広島市民球場で10歳年上のポプキンスに声をかけました。
「学園祭に招待したい」と言ったところ、「その頃は日本にいない」とポプキンスにすげなく断られました。

ポプキンスは、帰国後は米国のメディカル・スクールに合格し、医師の資格を取得して、整形外科医となり夢をかなえました。

越智さんも、医学部を卒業して、整形外科医となりました。
後に母校の整形外科の教授となり、広島東洋カープのスポーツドクターも務めました。

越智教授は、整形外科の国際大会を広島で開催することをPRするために、米国の整形外科学会に出張しました。
会場で、広島をPRする映像が流れるモニターを食い入るように眺めている高齢のドクターがいました。

宮島、お好み焼き、平和公園……。

よほど広島のことが好きなのだろうと、五分後に越智教授は英語で声をかけました。「あなたは広島に住んだことがあるのですか?」
答えが返ってきました。

「MOCHIRON」という日本語でした。

越智教授は、振り返ったその顔に見覚えがありました。
広島東洋カープにいたポプキンスだったのです!

越智教授は、日本の整形外科学会に来て講演して欲しいとポプキンス医師を招待しました。
さらに、マツダスタジアムでの始球式にポプキンスを呼んだのです。

2013年5月、広島対楽天の試合の開始前に、「バッター、ポプキンス」というアナウンスが流れると、集まった観客は大歓声を上げました。
カープ史上初の優勝の立役者を覚えていたのです!

ポプキンスは、バッターボックスに立ってバットを構えました。
投げるピッチャーは、なんと越智教授でした。

カープのチームドクターの特権で、投手になったのです。
山なりの「自称フォーク」を、ポプキンスは見事に空振りしました。

ポプキンスの米国の自宅には、優勝を決めた後楽園球場でのホームランを打った写真が飾られていたそうです。
プロ野球選手から医師になるとは、アメリカ人はチャレンジ精神があります。

宮崎はスポーツランド。
スポーツ整形が盛んになると、宮崎がより一層盛り上がります。

アスリートが続々と宮崎大学医学部を受験して、宮崎からスポーツ整形を目指すMIYAZAKI・メディカル・ルートができると面白いですね。

なんと、工藤監督の講演会があると!
さっそく参加しました!
公衆衛生的に勉強になりました!


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