内務卿大久保利通が暗殺されたときの秘書官は滝廉太郎の父だった
大分県竹田市にある岡城に、行ったことがあります。
険しい山城で、豊臣秀吉も「この城は落とせない」と言ったとか。
ちなみに竹田は、作曲家の滝廉太郎の故郷です。
話は飛びますが、西郷隆盛は、藩主の島津斉彬に抜擢されました。
島津斉彬が亡くなった後に、弟の島津久光が薩摩藩の実権を握りました。
西郷は、久光とはまったく合いませんでした。
久光を怒らせて、二度も島流しをさせられました。
それでも死罪とはならずに、最終的には鹿児島に呼び戻されました。
西郷の盟友の大久保利通が、久光を説得したのです。
疫学の専門家の産業医大の学長は、眼光が鋭く、名前も大久保利通に似ているなあと思っておりましたら、大久保利通の直系のご子孫でした。
学長は「鹿児島には一度も行ったことがない」と言っておられました。
大学の同級生が、鹿児島大学医学部の教授になりました。
新任の教授は、鹿児島県医師会で講演をするというのが慣例でした。
講演後の懇親会の席上での、県医師会幹部の言葉に衝撃を受けております。
「あんたのとこの学長さんは大久保ち聞いちょっが、こん鹿児島では大久保はだめじゃかいな」
恐るべし、鹿児島県。
いまだに大久保利通に恨みがあるのか!
大久保利通の像が故郷の鹿児島市に建ったのは、亡くなってから100年後のことです。
人の手に届かないほど高くしているのは、像にいたずらをされないようにしているから、とまことしやかに語られております。
確かに高いです!
宮崎県東京事務所のある都道府県会館の近くの紀尾井町の清水谷公園には、大久保利通の哀悼碑があります。
明治十一年五月一四日の朝、馬車で出勤途中に、石川県士族ら六人に襲撃されて亡くなりました。
このとき内務卿の大久保は、ひとりだけで馬車に乗っていました。
大久保の秘書官は、滝廉太郎の父です。
妹の結婚式が故郷の竹田であるので、休暇をとって帰っていました。
もし、大久保内務卿と一緒に馬車に乗っていたら、音楽家の滝廉太郎は、この世に存在していません。
「荒城の月」「花」「箱根八里」「お正月」「鳩ぽっぽ」も存在していなかったら、なんと悲しいことでしょう。
人の運命とは、わからないものです。
大久保利通の墓は、東京の青山墓地にあります。
大変目立つので、青山墓地のランドマークになっています。
亀の上に墓石がのっかっている、ユニークな形をしています。
大久保公に怒られそうですが、ポケモンのゼニガメを思い出しました。
公衆衛生人にとって東京の青山墓地は、必見です。
われらが宮崎県出身のビタミンの父「高木兼寛」の墓もあります。
内務省衛生局長の後藤新平、アドレナリンを発見した高峰譲吉、千円札の北里柴三郎など、公衆衛生の有名人が目白押しです。
たとえ青山墓地に通い詰めをして見終わったとしても、大丈夫です。
次は、鶯谷の谷中墓地があります。
なんと、大久保利通を暗殺した六人の石川県士族らの墓がありんす!