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乳がん検診は、家内制手工業からマニュファクチャーに変った
10月は、乳がん啓発ピンクリボン月間です。
宮崎市の橘通りには、ピンクリボンの旗が掲げられています。
私は、ピンクリボン推進者です。
厚労省の老人保健課にいたときに、乳がん検診を担当しておりました。
このとき、市町村が実施する乳がん検診を受けて、見逃されて末期がんになった女性が新聞記者と一緒に取材に来たことがあります。
胸にしこりができて不安になったので、市の委託を受けていた産婦人科のクリニックで乳がん検診を受けて「異常なし」でした。
それからずいぶん時間がたってから、乳がんの専門医にかかったところ、もはや手遅れで「余命半年」と言われました。
ご自身のブログに、市町村の乳がん検診でがんがあることを見逃されて、手遅れになったことを綴っていました。
それを目にした新聞記者が連絡をとってきて、一緒に現行の乳がん検診の問題点の取材をしていたのです。
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当時の乳がん検診は、視触診で行われていました。
乳がんの専門の医師は胸腺外科なのですが、多くの検診を行うために専門以外の医師も従事していました。
見過ごされた患者さんの検診を行った産婦人科医は、視触診をした上で、超音波を使って「異常なし」と判定していました。
患者さんの話を聞いて、しこりがあるのなら専門の乳腺外科医を紹介していたら、と思いました。
乳がん検診は世界的に実施されていますが、視触診は日本だけで、他の国はマンモグラフィによる検診でした。
この事実に、私はショックを受けました。
中学校の歴史の教科書で、産業は「家内制手工業」から「マニュファクチャー」に進化したことを学習したことを思い出しました。
日本はいまだに「視触診」という家内制手工業を行っており、マンモグラフィーという機械化が行われていないのは問題だと思いました。
日本よりも貧しい国が、乳がん検診にマンモグラフィーを導入していたのです。
「こ、これは、乳がん検診を変えなければならない!」と強く思いました。
そこで部下の医系技官のN君に、資料作成を命じました。
担当した新聞記者は、後日、老健局長に取材のアポを取ってきました。
局長室に呼ばれた課長補佐の私は、「日本の乳がん検診は家内制手工業のまま止まっています」と説明しました。
「諸外国のようにマニュファクチャー化が必要です」と言ったところ、局長の目からアニメの巨人の星の星飛雄馬のような炎が出ておりました。
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翌朝、局長から突然の電話がありました。
「これから国立がんセンターの総長に相談に行く。君は同行しろ。何か資料があれば持ってきてくれ。無いならいい」
局長車に乗り込んで、N君がつくった資料を渡しました。
「気が利くな。老人保健課はもう準備ができているじゃないか」
築地にある国立がん研究センターの総長室でその資料を見せたところ、総長からは「このとおりやればいい」と返事がありました。
N君のおかげで、助かりました。
新聞は、がん検診キャンペーンで一面トップ・社会面トップで連日の報道をしました。
見逃された女性は、実名で顔写真付きで登場しました。
新聞記者の取材に対して、局長は乳がん検診を見直すと明言しました。
その後、検討会を設置して、その検討結果を踏まえて、乳がん検診はマンモグラフィーによる検査になりました。
四〇歳以上を対象に、回数は二年に一回としました。
マンモグラフィーは高額なので、これを整備する医療機関に対する補助金も準備しました。
検診に従事する医師に対しては、放射線学会のマンモグラフィーの読影のための研修会を受講をするように呼びかけました。
後で局長に聞いたところ、キャンペーンを張ってきた記者は凄腕の猛者でした。
新聞社をあげて徹底的に記事にしてくると予想したので、がんセンターの総長に直接相談しようと思ったと告白していました。
老人保健課が資料を準備しているとは思わなかったそうです。
資料をまとめたN君は、その後、厚労省を辞めました。
凄腕記者は、その後、取材した録音テープを第三者に渡したことが発覚して、懲戒解雇となりました。
キャンペーンの発端となった患者さんは、亡くなりました。
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凄腕記者が残した本があります。
帯には次の言葉がありました。
検診が命を奪う!? 命を懸けたがん患者の告発、それに応えて走り出した新聞記者。
厚生労働省を動かした「見落とされた乳がん」キャンペーン
富山県にいたときに、この凄腕記者がわざわざ私を訪ねてきました。
居酒屋で一緒に飲みました。
彼はフリーのライターとなっていました。
野球が好きで、大学時代はピッチャーをしており、剛速球を投げていたそうです。
東京六大学では、法政大学に勝つために「仮想江川卓投手」となってバッティングピッチャーをしていたと言っていました。
N君とはその後会ったことはありません。
ピンクリボンを見るたびに、凄腕記者とN君を思い出します。
乳がん検診を変えることができたのは、この二人がいたからだと今でも思っています。
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