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八紘一宇の塔によって「神話の国宮崎県」が、日本中に定着した

1936(昭和11)年2月26日の早朝に陸軍の青年将校に率いられた下士官・兵1483人が首相官邸などを襲撃しました。

昭和天皇の周りにいる「君臣の奸」を取り除き、自分たちが理想とする総理の下での新内閣を樹立する「昭和維新」を成し遂げようとしました。

我が国初のクーデター(未遂)事件です。
青年将校に標的とされた政府要人は以下のとおりです。

亡くなった人
高橋是清(大蔵大臣)
斉藤実(内大臣・海軍大将)
渡辺錠太朗(陸軍教育総監・陸軍大将)
松尾伝蔵(内閣総理大臣秘書官)


重傷を負いましたが、治療で奇跡的に命を取りとめた人
鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)

襲撃を受けましたが、奇跡的に避難することができた人
牧野伸顕(前内大臣)

いずれの方も、昭和天皇の側近でした。

岡田啓介総理大臣(海軍大将)は、襲撃されたときに娘婿の松尾秘書官が身代わりとなりました。
秘書官は、岡田総理と顔がよく似ていました。

銃撃により亡くなった秘書官の死体を、女中たちが「これは岡田首相です」と証言して、青年将校をあざむいたのです。
押し入れの中に隠れていた岡田総理は、無事脱出に成功します。

唯一陸軍の幹部で殺された渡辺教育総監の末娘に、渡辺和子さんがいます。
小学校三年生の9歳のときに、目の前で父を殺され、その後は修道女となります。
著書「置かれた場所で咲きなさい」は国民的なベストセラーになりました。

牧野伸顕は、内大臣として昭和天皇を支えた側近中の側近です。
いわば青年天皇の教育係といった存在でした。
父は大久保利通、娘婿は吉田茂です。

孫の和子さんや看護師や女中たちと、湯河原温泉の旅館光風荘で療養をしていたときに青年将校らに襲撃されました。
護衛の警察官が拳銃で応戦している間に、裏口から逃げることができました。

湯河原の住民がかくまったため、青年将校らは見つけることができませんでした。
旅館は、放火され全焼しました。

和子さんの長男が麻生太郎元総理です。
このとき和子さんが亡くなっていたら、後の麻生内閣は誕生していません。

湯河原の光風荘

海軍出身の三人を襲撃された海軍は、横須賀にある戦艦「長門」の主砲の照準を反乱軍に占拠された総理官邸に合わせて、いつでも砲撃できる態勢をとりました。

一方の陸軍は、反乱を起こした青年将校たちに同情的で、決起した反乱軍を鎮圧することを躊躇していました。

親しく付き合っていた人を殺された昭和天皇は、激怒しました。
動こうとしない陸軍首脳に向かって「朕自ら近衛兵を率いて賊を撃たん!」と歴史に残る台詞で叱責します。

昭和天皇の怒りを知って、ことの重大さを認識した陸軍は、一転して反乱軍を「国賊」として鎮圧し、事件は三日で終結しました。

226事件のときに内務省警保局保安課長だった相川勝六は、事件後に朝鮮総督府に左遷されました。

昭和12年7月に、第29代宮崎県知事となります。
神武天皇の即位二六〇〇年を記念して、八紘一宇の塔の建設を進めました。
今の宮崎市にある平和の塔です。

相川知事は、塔が完成する前に広島県知事に異動になり、竣工式には出席できませんでした。
その後、戦時中の小磯国昭内閣のときに厚生大臣となっています。

戦後は、公職追放となります。
その後、宮崎県から衆議院選挙に立候補して、国会議員となっています。

宮崎に進駐した米軍は、八紘一宇の塔を、軍国主義のシンボルで日本が世界制覇を誓った塔だとして破壊しようとしました。

「八紘一宇」は、神武天皇が大和で都を開いたときのことばからつくられたものです。
八紘は「世界」、一宇は「ひとつの家」という意味であり、もともとは「世界がひとつの家となるように平和になること」ということでした。

最終的に塔の破壊は行われませんでしたが、米軍からは、八紘一宇の文字の削除と、塔にある武人、農人、漁人、工人の四つの像の中から、武人の像の撤去を指示されました。
塔自体は残ったのです。

その後、宮崎観光協会の岩切章太郎会長が、貴重な芸術品としてもとの状態に戻すべきと県に提言し、今では八紘一宇の文字と武人の像も元の状態になっています。

1964年の東京オリンピックのときには、この塔から平和の祭典の象徴としての聖火が発進しました。

八紘一宇の塔をつくるために日本だけでなく中国や朝鮮半島からも石が集められました。
完成したときは日本一高い塔で、紙幣や切手にも採用されたので、全国的にも有名になりました。

神武天皇ゆかりの聖地巡礼をするために、宮崎県には多くの人が集まりました。
この塔によって「神話の国宮崎県」が、日本中に定着しました。

私が高校生の頃の1979年に、宮崎国体が開催され、開会式で集団演技をやりました。
そのときの名前は「日本のふるさと宮崎国体」でした。

いろいろな歴史がまじった現在の「平和の塔」は、まさしく「平和」を考える際に大変勉強になる塔だと思います。

傍には埴輪公園もあって、さまざまな形の埴輪を見ることができます。

私が高校生のときは、「平和台には目の光る埴輪がある」とまことしやかに語られておりました。
さすがに今はないと思います。

もしかして、埴輪の怪物「大魔神」は宮崎発祥かしら

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