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横浜の野毛山公園には、横浜に水道を引いた恩人パーマー大佐の胸像がある

英国や米国は、条約に基づいて江戸に近い神奈川を開港するように幕府に要求しました。
幕府の外国奉行の水野忠徳は、神奈川に港を設けることは難しいと判断しました。
東海道に面している神奈川という場所は、大名行列をはじめ人通りが多く、外国人と接する機会が頻発すると外交問題を引き起こす可能性が高かったのです。
また、土地が狭く、新しい建物を作る場所もなく、開港する場所としてはふさわしい場所ではありませんでした。

水野は東海道から外れた砂浜の寒村だった「横浜」に目を付けます。
突貫工事で埋め立てて、できた土地を外国人に提供したのです。
英国公使オールコックは、「横浜に港をつくるとは条約違反である。神奈川につくるとあるではないか。さらに、長崎の出島のように我々を隔離する気か」と激怒して、幕府に対して猛烈に抗議をしました。
対する外国奉行の水野は、「横浜は地理的に神奈川に含まれるので条約違反ではない」と頑として応じません。

現金な外国の商人たちは、広い土地があって便利な横浜に次々に建物をつくって商売を始めました。
こうした現状に、オールコックをはじめ各国公使も、横浜での開港を認めざるを得なくなりました。
水野忠徳の作戦勝ちでした。

私も東海道五三次で有名な品川宿、川崎宿、神奈川宿を歩いてみたことがありますが、神奈川は確かに狭いです。
ちなみに神奈川には、坂本龍馬の妻のおりょうさんが働いていた料亭「田中屋」があります。
おりょうさんは、西郷隆盛から誘われて、龍馬と一緒に霧島を訪れました。これが日本初の新婚旅行だと言われています。
龍馬が亡くなってから、しばらく仲居をしていました。
田中屋の前を通ったときに、門から中を覗いたことがあります。
このとき行っておけば、と後悔しております。

開港した横浜は発展して、人口も増えていきます。
埋め立て地の横浜は、井戸による飲み水の確保が難しく、また火事もよく起こりました。
たびたびコレラも発生しました。
幕府が倒れて明治新政府となりましたが、世界に開かれたYOKOHAMAに水道を整備することが最大の外交上の懸案事項となりました。
近くを流れる川から水道を引きましたが、水量が足りずに失敗しました。

1882年にある英国人が横浜に立ち寄りました。
英国陸軍のパーマー大佐です。
工兵のパーマー大佐は、中国の広東や香港での水道建設の経験がありました。
これは渡りに船だと、パーマー大佐に横浜の水道建設の調査を依頼しました。
パーマー大佐は、三か月間で調査を実施し、報告書をまとめました。

1885年、英国陸軍を少将で退役したパーマーは、英国から技師を引き連れて横浜にやってきました。
相模川の上流から横浜の野毛山までの約40キロの水道をつくる工事に着手しました。

1887年10月17日に、念願の水道が開設されました。
新鮮な水が到着したときに、横浜の住民たちは大喜びしたそうです。
横浜の野毛山公園には、横浜に水道を引いた恩人パーマーの胸像が建てられています。

パーマー大佐とタテハチョウ


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