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自殺を図った東條英機は「日本は、医学もアメリカに負けたのか」と言った

 
 ポツダム宣言を受諾し、降伏した日本本土には、米軍が進駐してきました。

1945(昭和20)年9月11日に、東京都世田谷区用賀にある元総理大臣の東条英機邸に、東京に進駐した米陸軍第八軍の支隊が向かいました。
支隊の任務は、日米開戦時の内閣総理大臣東条英機を、戦争犯罪人として逮捕することでした。
陸軍の将官級の自決が相次いでおり、勝者として敵の大将を裁判で裁いて見せしめにするためにも、身柄を確保する必要があったのです。

午後4時13分に東条邸に到着しました。
支隊の将校は、部屋から出てきた東条元首相に、「横浜までお連れする命令が出たので、速やかに同行する支度をしてください」と伝えました。

東条が部屋に戻った後に銃声が聞こえました。
時刻は4時17分。
二人の将校が、東条の部屋に駆けつけました。
三二口径のコルト拳銃で左胸を撃ったようで、血が流れている東条元首相の姿を発見しました。

5時15分に近所の日本人の医師が呼ばれて手当をしました。
東条元首相には意識があり、医師による手当を拒否しました。
米国人将校は、あらゆる手段を使って救命せよと、日本人医師に厳命しました。
 
6時15分に、米国第一騎兵師団からジョンソン軍医が到着しました。
東条元首相に、一ユニットの血漿を輸注を行います。
銃弾は貫通して、心臓や大血管からは奇跡的に外れていました。
ジョンソン軍医は、携帯しているモルヒネを注射し、傷口を縫合しました。救急車で第一騎兵師団の診療所に運ばれて、そこでさらに一ユニットの血漿の輸注が行われました。

9時40分に、横浜にある米軍の野戦病院に到着しました。
そこで、新たな血漿の輸注が行われました。
 こうした血漿の輸注は、日本ではまだ行われていない技術でした。

意思に反して、生き延びさせられた東条英機元首相はこう言いました。

「日本は、医学もアメリカに負けたのか」

米軍の軍医は、最前線で破傷風ワクチン、抗マラリア薬、モルヒネ、血漿輸血、ペニシリンなどをふんだんに使って予防・治療を行っていました。
日本軍では考えられないことで、米国の医学水準からは相当に引き離されていた状況だったのです。
こうして日本の医学は、これまでのドイツ医学から米国医学に変更されていくことになりました。

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