226事件で鈴木貫太郎は四発の銃弾を受けたが、三発しか見つからなかった
1936(昭和11)年2月26日の雪が降る早朝に陸軍の青年将校がおこしたのが226事件です。
このとき、昭和天皇の侍従長だった海軍大将の鈴木貫太郎は、官舎にいたところを、陸軍の青年将校に襲われて、四発の銃弾を受けました。
貫太郎の妻のたかが、「老人ですからとどめはしないで」と言ったところ、首謀者の安藤大尉は聞きいれて、「捧げ銃」をしてその場を引き上げました。
たかは、止血をして、宮内大臣に連絡をとりました。
宮内大臣秘書官の町村金吾がすぐさま、東大の外科教授を退官して日本医大に移った塩田広重教授に電話をしました。
塩田教授は、血液型の違う青年たちを連れて、官舎にやってきました。
血液型の合った青年から血を抜いて輸血をしました。
塩田教授は、鈴木貫太郎を日本医大病院に運び、銃弾の摘出手術をしました。
奇跡的に血管などから外れており、三個の銃弾の摘出に成功しました。
塩田教授は、第一次世界大戦のときに、日本赤十字社からフランスに派遣され、フランス陸軍病院の軍医として従軍して、フランスの輸血の技術を学んだ第一人者でした。
塩田教授は、浜口雄幸総理大臣が東京駅で右翼の青年にピストルで撃たれたときに、急きょ呼ばれて東京駅の駅長室で輸血をして総理を救命したことがありました。
町村秘書官は塩田教授を知っていて、直接電話で連絡をしたのが幸いしました。
このとき命を助けられた鈴木貫太郎は、後に総理となり、戦争終結のために尽力しました。
塩田教授は、戦後、解体された陸海軍から、軍病院を厚生省に移管させる事務を担当する医療局の局長となりました。
現在の国立病院機構の病院の多くは、もともとは陸海軍の病院です。
国立病院機構では毎年国立病院学会を開催しており、この一年間で功績のあった病院関係者に「塩田賞」を贈呈しています。
鈴木貫太郎は四発の銃弾を受けましたが、手術では三発しか見つかりませんでした。
手術の翌日の診察時に、睾丸が巨大化していることに気がつきました。
妻のたかを呼んで確認をしたところ、普段はこうではないという証言を得ることができました。
塩田教授は、手術を行い、睾丸から最後の銃弾を摘出しました。
そのときに呼んだ句が残っています。
鉛玉 金の玉をば 通しかね
すいません。
冗談ではなく本当の話ですので、念のため申し添えます。