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国民皆保険を夢見て厚生省を創設した局長は、割腹自殺を遂げている

陸軍の医務局長に小泉親彦という軍医中将がいました。
福井県出身で、東大医学部を卒業後、陸軍の軍医となりました。
この人こそ、厚生省の産みの親です。

東京都世田谷区にある陸上自衛隊の三宿駐屯地に「彰古館」という医学博物館があります。
ここには、明治時代から終戦までの陸軍衛生の貴重な資料や、医療機器などが保存、展示されています。

日本で初めて輸入されたドイツのシーメンス社のX線装置や、歴代の軍医総監・医務局長の肖像画が飾られています。
森林太郎(鴎外)の肖像画もあります。

小泉中将は、「国民皆兵」という言葉から「国民皆保険」を唱えて、国民の健康を担当する独立した省の設置を強く呼びかけました。
他の先進国には健康政策を担当する省があるのに、我が国では内務省の一つの局で行われ、しかも国民の健康状況が極めて悪いことを指摘したのです。

陸軍省の小泉医務局長の主張に、日本医師会も賛同しました。
こうして昭和13年に、内務省から独立して厚生省が設置されました。

昭和16年の第三次近衛内閣では、小泉は厚生大臣に就任しました。
小泉は、続く東条英機内閣でも厚生大臣を務め、国民健康保険の整備を進めました。

1942年から3年以内に全市町村に国民健康保険組合を設立するように、施策を実行したのです。
ところが、戦争が激化し、空襲や疎開などによって医療機関が閉鎖され、医薬品も供給されなくなってしまいました。

敗戦によって制度は、壊滅的な打撃を受けました。
戦後に、小泉は、GHQから戦犯の疑いで出頭命令を受けましたが、それを拒否して、割腹自殺を遂げました。

小泉大臣時代に行われた国民健康保険の普及作戦は、現在の国民皆保険制度の下敷きになりました。
昭和36年に国民皆保険が実現できたのも、このときの蓄積が後押しとなったのです。

国民皆保険を実現させたときの総理は、岸信介首相です。
東条内閣のときは、商工大臣を務めており、小泉は同じ内閣の閣僚メンバーでした。

岸総理は、日米安保条約を改正して日米関係を強化するなど安全保障の世界ではタカ派として有名ですが、その裏では、社会保障の世界で国民皆保険・皆年金を進めた最大の功労者です。

「国民皆保険」という言葉を聞くと、小泉親彦のことを思い出します。
陸軍省時代のことを調べてみると、結核医療、リハビリテーション医療、戦争神経症といった精神医療の体制整備を積極的に進めています。
相当の大物局長だったようです。

小泉大臣の次の次の厚生大臣が、相川勝六です。
「誰?」という人も多いと思いますが、第29代の宮崎県知事で、平和の塔をつくった人です。

宮崎県知事から広島県知事となり、その後、愛知県知事から愛媛県知事、厚生省事務次官、厚生大臣へと昇進します。
宮崎県知事で、大臣までなったのは、相川知事しかいません。
これもまた大物知事でした。

八紘一宇の塔の建設を企画するのは、並大抵のことではできないと思います。
相川知事の後の知事もその後の知事も、宮崎県知事で終わっています。

いつか、小泉親彦や相川勝六といった忘れられた偉人の生涯を描く小説を書いてみたいものです。
え? 誰も読まない。

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