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若山牧水は、石川啄木の最期を看取った

公衆衛生に関係する歌を探していたら、結核が一番親近感があるような気がしました。
ひらめいたのは、石川啄木です。このような歌があります。
 
年ごとに肺病みの殖えていく 村に迎へし 若き医師かな
 
結核患者が殖えたので、村の診療所に若いドクターを呼んだことがストレートに語られています。

啄木の一家は悲惨です。
1912(明治45)年3月7日に、啄木の母カツが結核で亡くなりました。
1月後の4月13日に、啄木もまた結核で亡くなります。26歳でした。
翌年の1913(大正3)年5月5日に、妻の節子が結核で亡くなります。
二人の姉妹が残され、節子の父が引き取って育てました。
1930(昭和5)年12月6日に、遺児の姉京子が急性肺炎で亡くなり、2週間後の12月19日に妹房江が肺結核で亡くなります。

結核の家庭内集団感染です。
それにしてもすさまじい結核の感染力です。
この頃は抗結核薬がありませんでした。

啄木の東京の自宅での最期を看取ったのは、宮崎県出身の歌人「若山牧水」です。
日向市東郷町坪谷に生まれ、今も当時のままの生家が残っています。
生家の近くに若山牧水記念文学館があります。

日向市坪谷の若山牧水記念文学館の牧水像

牧水は、43歳で肝硬変で、静岡県の沼津で亡くなりました。
沼津市にある牧水記念館に行ったことがあります。
生まれた場所と亡くなった場所に、二つの記念館が建てられているのは、珍しいのではないでしょうか。
牧水に人気がある証拠だと思います。
建てられた歌碑も日本一多いと聞いています。

牧水生家のバス停

公衆衛生学的に言えば、牧水はアルコール中毒でした。
死ぬ直前まで酒を飲んでいました。
特に好きだった日本酒は、伊丹の「白雪」です。
臨終のときは、喜志子夫人が茶碗に入れたお酒をガーゼに浸して唇を拭いてやったそうです。
このときに立ち会った稲玉医師は、酒のせいで遺体が腐らなかったと書いています。牧水は酒に愛されていた!
 
山の雨しばしば軒の椎の樹の ふり来てながき夜の灯かな
 
東京の日野市の百草園に、この歌の碑があります。
牧水の長男で建築家の旅人さんが、設計しました。
京王線の百草園駅から歩いていけます。
牧水ゆかりの椎の木などがあって、お勧めです。
今日8月24日は、牧水の誕生日です。
毎年、牧水の誕生日に近い日曜日に、東京牧水会の皆さんが百草園の歌碑の前に集まって、牧水が愛した日本酒「白雪」をひしゃくで捧げています。

東京牧水会が歌碑に白雪を捧げています

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