下北沢という奇妙な街について

坂道に沿って自転車が整列している。持ち主達はどこにいるのだろう。

喫煙所は昨今の情勢に従って閉鎖されている。彼らはどこへ行ったのだろう。

車椅子の婆さんが鳩に餌をやりながら爺さん達と昼間から宴を開いている。


極めて静的に呼吸をするこの街の風景は「飽き」というものを知らない。


下北沢に生きる人たちの住処は、喧噪に包まれた駅前ではなく、商店街の脇に伸びる薄暗い小道にある。

彼らは一日中この狭い空間で日向を探しながら一服する。次の日が来ればまるで誰かと約束していたかのように現れる。

ふくらはぎには彼らが生を共にすると誓った大きな刺青。鼻には陽に当たって輝くピアス。きっとそこに痛みは無いのだろう。


僕が初めてここに来た時に襲われた違和感は非常に気味の悪いものだった。

僕には彼らが人間には見えなかった。

彼らの日常は極めて「単調」だ。


どんなに違う環境で育った人間であっても、自分と同じように喜び、悲しみ、人間同士の柵に悩み果て、そして何かを、もしくは誰かを愛するのだろう、と考えてしまう。

それはこれらの言葉そのものが万人が普遍的に有するものとして発明されたものであるはずだからだ。


下北沢という不思議な街に生きる人々の中に波と言えるものは一寸も見えない。

彼らは普段何をして生きているのだろうか。愚問に他ならない。

彼らは何を待っているのだろうか。そこに目的などという陳腐な考え方を見出すことが出来る訳が無い。

彼らの目には何が映っているのだろうか。その小道を抜けた先の世界など興味すら持っていないのだろう。

だからって、だからこそ、僕は決して彼らに対して「サブ」なんてレッテルを貼りたくは無い。


いくら考えても、言葉に侵され支配された僕の汚れた脳味噌では一生かかっても彼らを理解することは出来ない。

ただ、1つだけ言えることがあるとすれば、

彼らの過ごす日常のように、物質的な残滓ではなく、人と時間の気ままな流れによって規定される文化を、僕は敢えて格好をつけて「カルチャー」と呼びたい。