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「家庭の味」は家の外へ出るまで気付けながち
読んだ。
タイトルにびっくりした。
「親が作った短い話を毎晩聞いて育った人」なんて、紹介としての「〇〇人」とするには、あまりにありふれているのでは!?と感じたからだ。
もちろんそうではない家庭があることは分かる。親とともに育っていない子供もいる。親と寝なかった子供もいる。親が既成の物語だけ読み聞かせていた子供もいる。彼ら彼女らをいなかったとするつもりなぞ毛頭ない。
ただ、親の創作物語を毎夜聞いていた子供だって、山ほどいると思っていたからだ。
同様に、掌編サイズの物語やエッセイ、あるいは論説文を持ち歩いてときどき他人に読ませることだって、インタビュイーの彼女が自分のエピソードとして挙げなければ「あるある」だと思っていた(……というか今でも半信半疑だ)。やらない人もいるが、別段取り立てて話すほど珍しいことでもないだろうと。
不思議なものだ。
たとえばわたしの母はわたしを産む前からピアスをしていて、だからわたしはピアスをすることに大した意味を見出していない子供だった。
中学1年生のとき、誕生日プレゼントとしてピアスホールを貰った。一緒にあけにいこうか、と。母の3つめ、わたしの初めて。きらきらしてキレイだな、と思った。それで十分で、それで全部だった。
しかし、世の中にはあらゆる思いを込めて、勇気を出して、祈りとして、誓いとして、戒めとして、ピアスホールをあける人々がいる。
この感覚は、きっと一生理解できない。
知ることはあっても、実感できる日は来ないだろう。
件のインタビュイーはゆるやかな客観視を以て話していたように見えた。
素敵な視野の広さだな、と思う。
今朝は塩胡椒で味付けしたフレンチトーストを作った。
顆粒コンソメ、牛乳、卵で作った卵液に、耳を除いた食パンを浸す。バターとサラダ油をひいたフライパンで両面を焼く。塩胡椒で味を整える。ついでに空きスペースでソーセージも焼く。冷凍しておいた茹でブロッコリーを電子レンジで解凍する。マヨネーズを添えたブロッコリーとソーセージを皿の端に盛る。所々きつね色になったフレンチトーストを中央に重ねる。飾り程度にナツメグを振る。
「ツナサンドにするかと迷って、ソーセージにした。ハムがあったら、それでもよかったね」
余ったパンの耳で、バットに残った卵液を拭うように吸い取る。目分量だったがピッタリ使い切れたことが嬉しく、少し笑う。フライパンに放り込む。カリカリが好きだ。
夫は、甘くないフレンチトーストに戸惑っていた。
「不味くはないけど、混乱する」だそうだ。フレンチトーストとは甘いもの、というのが彼の「普通」だからだと言う。
しょっぱいフレンチトーストは慣れ親しんだ味がした。
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