残香
私はずっと以前、小さな六角柱型の香水壜を持っていた。
澄んだ琥珀色のそれは、大人びた香りの液体をたっぷりと含んだ、美しくも脆い、私の宝物だった。
何年前のことだろう。ともすれば学生の頃か。
それは私が買ったのではなかった気がする。
まだ若かった私は、香水などという美しくも妖しい逸品をきちんと選ぶ自信も無ければ、うまく身につける自信もなかったのだ。
たしかその香水は、結局あまり使わずに誰かに譲ってしまった。
やはり私は、香水などという高貴なものを扱いきれるほど大人ではなかったのだ。
今となっては、香水なんて幾らでも買ったりつけたりしているのだがーーー
「しまった」
じゅっ、と嫌な音をたてた私の手元のオムレツは、黒く焦げてしまっていた。
せっかく今日こそ、きれいに焼けそうだったのに。
やはり、料理中に考え事はいけないな。
私はもともと料理が得意ではなく、ひとり立ちしてからも料理をするつもりなどなかったのだ。
ほら、今もこうして失敗しちゃって。
「これは美味しくないかもなぁ」
毎度私の失敗作を食べさせられる夫の苦々しい笑い顔が脳裏をよぎる。
途端、ある姿がフラッシュバックした。
狭い1Kの部屋の隅にあるキッチンに立つ背中。
彼だ。
オムレツ屋でバイト始めたんだ、と笑う彼。
不器用な私を絶対にキッチンに立たせずに、
いつでも完璧なオムレツを作ってくれた彼。
そうだ、彼が、あの香水をくれたんだ。
上京したての頃の、まだ若かった私たち。
私たちは、一刻も早く大人に近づこうとしていた。
まだあまり使うことはないだろうけど、見てるだけでも綺麗だからね。
そう言って、私にあの香水をくれた人。
失敗したくなかった。掴み続けたかった。
いつも、いつまでも、二人だけで。
子どもから大人へ脱皮しかけの、純粋すぎた19歳の背中が、眩しくも愛おしい。
「どうしたの。冷めちゃうよ」
不意な呼びかけに我に返る。
日曜日の昼下がり。
二人で食べるはずのランチはところどころ黒く、夫は困ったような、面白がっているような顔でわたしとそれを交互に眺めていた。
「はやく食べようよ、お腹すごくペコペコ」
記憶の彼とは対照的な態度の夫は、今回もまた見事だなぁ、と笑いながらオムレツを食卓へ運んでいった。
それに続いて、私も急いでエプロンを脱いでキッチンを後にする。
昔の記憶も脱ぎ去って。
刹那、あの香水の香りがした気がした。
終.
2020. 7. 16. Thu.
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