スープのこと。あるいは粉ミルクの秘密。
家から車で30分行ったところに、小さな民家を改築したカフェがある。
平日しか開いていないそのカフェに初めて行ったのは2年ほど前で、その時の私はペーパードライバーだったから、恋人の車に乗せてもらってお店に来たことを覚えている。
畑が広がる田舎道を左折して、さらに細い生活道路を通った先。駐車場の案内でいつも麦わら帽子をかぶった店主さんが、お店の前に立って忙しそうにしている。
「こんにちは。今日は結構ゆっくりしてますよ」
案内された場所に駐車して、車から降りると店主さんがそう言った。始めて来てから2年の間に、カフェは次第に人気になって、時には何組も待ちがでたり、駐車場に車が入らなかったりすることがあった。
「そうなんですね……あの、今日はスープってありますか?」
「ありますよ。特別なのが、一杯」
そう聞くと、日焼けした顔をくしゃっとさせて店主さんが笑った。
お店の中で、日当たりの良い席に案内してもらう。
スープとお店特製のパンのセット。それから、コーヒー。
鞄から本を取り出す。「君たちはどう生きるか」。映画を見て買ったけど、積んでいた本。
仕事をし始めてから、本を一冊読むことにも苦労するようになった。文章を書くなんて、尚更だった。
本を開く。コペル君と、おじさん。それから、児童小説特有の語り口。
3年前ほどに、私の文章が好きだと言ってくれた人がいた。その人とは、色々あって、結局良い関係を築くことはできなかったけど。
だけど、その人が言ったことは何故かよく覚えている。
「はつかさんは、児童文学を書くと言いですよ」
コペル君の横に立ちながら、私はその言葉を思い出していた。
***
あの本を買ったのは、たぶん栄セントラルパークの今はなくなった丸善だったと思う。名古屋駅の高島屋にあった三省堂でも、まして同じ栄にあるジュンク堂でもなく、丸善だったんじゃないかと思うのは、丸善が一番瀬戸電新栄町の駅から行きやすかったからだ。
名古屋に詳しい人からすると、「ジュンク堂もそう変わらないだろ」って思うかもしれないが、田舎から名古屋に出たばかりで街のことを何も知らない人間からすると、セントラルパークを歩いていれば出て来る丸善と、少し曲がって入らなければいけないジュンク堂では、心理的な行きやすさが違った。
今はないあの丸善で、私は一冊の本を買って、小さな大学近くのワンルームへと持ち帰った。それから、大学院へ行くときと、休学して実家に戻る時。2回程引っ越したけど、その本は今も私の本棚の中に納まっている。
身体に染み付く本、というのがあると思う。
好きな本、とか、大切な本、とかでもいいけど、染み付く、というのがしっくりくる。
いつも心のどこかにある、そういう本のこと。
私のもそう言った本が何冊かあって、例えば「きなりの雲に」とか「モモ」なんてのもそうだ。
普段はあまり気にしてないけど、自分の心の中で小さくても確かに場所を取って、時に人生の手助けをしてくれたりする。
吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えていた』もそんな一冊だった。
窓から教会が見える部屋に引っ越してきた主人公は、その街のサンドイッチ屋さんで働くことになる。
新しい街、少しずつ増えていく知り合い。古い映画。それから「あのスープ」。
その本の最後には、スープのレシピが乗っていて、なんとか再現をしてみたくて、鶏がらを買って出汁を取ってみた時期もあった。
滋味がしておいしい、という言葉の意味が腑に落ちたのもその時で、スープを作ることが好きになった。
「身体に染み付く」本は、そうやって、私の人生を少しだけ変えてくれる。
ちいさくても、確実な変化だ。
私の心の中で、あの主人公が生きる街が確かにあって、私は時々、そこでサンドイッチを買ってスープを飲んだ気になる。
そういう、拠り所みたいな本が、ときどきある。
***
コペル君は聡明だ。
あだ名がコペルニクスなだけのことがあり、とても大人だなと、おじさんと一緒になって感心する。
特に、「粉ミルクの秘密」あるいは「人間分子の関係、網目の法則」には驚く。コペル君はある日、自分が乳飲み子の頃飲んでいたという粉ミルクの空き缶をみて、ふと考える。一体、どこから来たのだろうと。
オーストラリアで牛を育てる人。乳を搾るひと、粉ミルクへ加工する人、缶を作る人、舟でオーストラリアから日本へ運ぶ人、港から街へ運ぶ人、それを売る人……人間が互いに顔の知らないところで網目のようにつながっていること。確かに生きることを助け合い、互いに影響を及ぼし合っていること。
分かっていても、知ってはいても、それを実感することは難しい。
もっというと、実感して、そのうえで社会の一員として自分を位置づけることは、とても難しい。
私なんかが、世界に与えている影響なんてないように思えるし、いなくなっても同じだななんて、思う日がある。
無力感で泣きそうな日が、ある。
「おまたせしました。かぼちゃのスープです」
本から顔をあげると、店員さんがスープと自家製パン、サラダの乗ったプレートを持って立っていた。
目の前に、柔らかい湯気がのぼる。冬の太陽が射して、スープの上のクリームが白く光る。
店員さんにお礼を言って、小さく手を合わせてから、スプーンですくう。
とろりとあまい、かぼちゃのポタージュが、柔らかく喉を通った。
***
初めて恋人とあのカフェに行った日、本棚に並ぶ「それからはスープのことばかり考えて暮らした」が目に入った。それが、なんだか嬉しかったことを覚えている。
就職して車を運転するようになってから、初めて一人で出かけたのも、あのカフェだった。駐車が下手で、店主さんに誘導してもらってハンドルを切る。
混むときもあるから、本を持っていく。お店の裏が高台になっていて、そこで畑を眺めながら本を読んで時間をつぶしたりする。
「いつもありがとうございます」
ある日、お店から出ると、店主さんが声をかけてくださった。暑くも寒くもない時期だったことを覚えている。
「美味しかったです。ごちそうさまでした」
「いえいえ、お土産まで……」
私が手に持った袋を見ながら、店主さんが言う。お店自家製のパンをいくつか、帰りに包んでもらっていた。まるく、ころんとして、でも食べ応えのあるパン。
「家で食べようと思って。スープでも作って」
「それはおいしいでしょうねえ」
少し離れた場所に止めた車へと、並んで歩く。心地よい風がパンを持った袋を撫でる。ふと、あの本の事を思い出す。
「……本棚にある、『それからはスープのことばかり考えて暮らした』が好きで」
なんでその話をしようと思ったのかは、あまり覚えていない。ただ、あの本がある、このお店が好きだった。それから、この美味しいパンには、美味しいスープがあるだろうなあと思った。
店主さんは、脈絡のない私の言葉を、静かに聞いていてくれた。
「このパンと、美味しいスープが一緒に食べれたら、きっと幸せだろうなあって思います」
***
パンをかぼちゃのスープに浸して食べる。
じゅわっとスープの味がして、噛んでいると時期にパンのうまみが口に広がる。
おいしい。やっぱり、スープにあう。
身体に染み付いた本と、目の前にある一杯のスープ。
私が丸善であの本に出合っていなければ、2回の引っ越しの間に失くしていたりしたら、その本がこの店の本棚になかったら、車を運転するようにならなかったら、あの日心地の良い風が吹いてなかったら。
コペル君のいう「粉ミルクの秘密」。
顔を合わせることのない、でも互いに、確かにつながって、影響し合う者たちについて。
小さいけれど、確かに、世界と自分がつながっていることについて。
***
「あの一言があったからできたスープですから、飲んでもらえてよかったです」
帰りに、店主さんがそう声をかけてくださった。
それがなんだか照れくさくて、私は何もしてないのに、うれしく思う。
一冊の本、一杯のスープ。
このカフェでこのスープを飲んだ誰かが、もしかしたらこの温かさで気持ちが軽くなるかもしれない。ちょっと元気になったその誰かが、また知らない誰かに、少しだけいい影響を与えるかもしれない。
そうやって、私たちは、互いに小さな変化を与え合って、生きている。
当たり前で、だけど忘れがちな事。粉ミルクがどこからくるか考えながら、毎日を生きているわけじゃないから。
それでも、時々思い返す。
無力感に苛まれて、意味もなく叫んだり、泣き出したくなるような夜に。
小さくても、確かに私が世界に与えた影響の事。美味しいスープのこと。
不思議と、スープを飲んだときのように、心が温かくなるきがした。