お散歩記録(200103)
正月三が日の、ぼんやりとした空気感が嫌いじゃない。
特に親戚へのあいさつが終わった三日や四日というのは、みんなどこかぼんやりとして、非日常と日常の間を、ふわふわと漂っている感じ。大人も、子供も、道に生えている気の早いタンポポの蕾も、まだ眠っている木の芽も。全部が、どこかふわふわとして、なんとも人間らしい。
初詣を兼ねて、近所を少し散歩してきた。
お参りする神社は、幼いころからよく通った場所。裏手にある保育所に、毎日おばあちゃんと手を繋いで通ったことを、今でも鮮明に覚えてる。
保育所のお散歩の時間は、その神社へと行くのが、お決まり。お参りをして、どんぐりや松ぼっくりを拾う。大きくて参拝者が多い神社ではないけれど、静かで、地域の人たちに手入れされた、すごく落ち着く神社。
実は意外と古くて、九世紀にはすでにあったと知ったのは、小学生になってから。そんなとんでもなく昔から、あの場所に鎮座していたのかと思うと、途方もなく大きく感じた。
ぽつぽつといる参拝者に混じって、手を合わせる。
去年はありがとうございます、今年もよろしくお願いします。
本当に、この神社にはずっとお世話になっている気がする。中学生で病になった時も。学校に行けなくなった時も。高校にうまく馴染めなかった時も。大学に入って下宿に行く時も。節目のごとにご挨拶をしている。
顔を上げると、記憶の中と変わらぬ社が目に入る。
奥にいらっしゃる神様。私はまだ生きています。また、顔を見せに来ます。
親戚の人にあうような、昔の同級生に話すような、そんな些細な信仰心。
ご挨拶も終わらせて、せっかくの外出、そのまま帰るのも勿体ないと、少し足を延ばして散歩をすることにした。
歩くのは、神社の付近の古い町。小さな家々が密集していて、くねくね曲がった裏路地が続いている。記憶の断片を手繰り寄せると、そのあたりも保育所の時に散歩で来た場所だった。
公道に出る散歩は、神社へ行くのに比べて特別な冒険だった。古い蔵や、土壁。木の雨戸のついた日本家屋。うすぼんやりとした記憶の中のそれらは、残っていたり、建て替えられていたり。
垣根の椿を横目に、ぽつりぽつりと歩いていくと、とても懐かしい場所へ出た。ぼろぼろになった、古い家。今はだれも住んでないその家は、かつて牛を飼っていた。
思い出すのは、動物特有の鼻を刺す臭い。初めて見る大きな牛に、興奮したこと。保育所のお散歩の途中で見せてもらった牛の姿は、大きくて、力強かった。
二十年近く前、まだこの辺りには古い暮らしが残っていた。今はもう、ない。その生活の息遣いを、幼いころ感じられたのは、本当に僥倖だったなと思う。
日常は忙しなく過ぎる。もし正月明けののんびりした気持ちで日々を過ごせれば、少しは心の波風も穏やかになるだろうか。
そんなことを思いながら、幼い自分の影を追った。
〇雑記
おせちの黒豆。実はいっぱい炊いちゃって、余るかなと思ってたら、好評だったみたいで、もう少ししか残ってない。黒豆を食べながらお茶を飲む時間って、最高に贅沢だな~って思いながら日記かいた。
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