誰かが訪ねてくる場所のこと。
重い身体を引きずりながら、パジャマのまま玄関をあける。裏手にある幼稚園のこどもたちはもう帰ったようで、晩秋の風が落ち葉を運んできていた。ガザリと音がして、玄関の取っ手をみる。そこには坂の下にあるコンビニの袋がぶら下げられていた。
ポカリスエット、パウチのお粥、みかんの入った大きめのゼリー。それと、ビニール袋の下のほうに、一枚のメモ用紙。明らかに授業で配布されたものの端っこを破いたようなそれには、「いきろ~」と気の抜けた文字が書かれていた。
〇
大学入学を期に、実家を出た。『出た』というと、遠方の大学に通学するためのように感じるが、実際には実家から大学までは電車で一時間。駅までの時間を換算しても、二時間でお釣りがくる程度の距離である。より正確に言えば、私は大学入学を期に、実家を追い出された。その背景には、母との折り合いの悪さや、私のそれまでの半生が深く関わっているのだが、それについて考えるにはまだまだ人生の時間を要する気がする。
ともかく、無事入学先が決定したときに母に告げられたのは『家を出ること』であった。猛反発の末に大ゲンカをしたものの、悲しき未成年者は親の意向に歯向かえず、私は四月からの独り立ちを余儀なくされた。
『家を出ること』を提示した母は、それでも持病のある我が子が心配なようで、最初の一年は学生寮に住むように、との条件が加わった。親心というものは、全くもって複雑怪奇である。
はじめて借りた、あの部屋。
その言葉通りならば、私のはじめて借りた部屋は、大学一年生の時の寮になる。そこは、女子限定の寮で、様々な学校に通う学生が集っていた。ビジネスホテルよりも狭い、小さな部屋。ユニットバスは付いてるが、洗濯機もキッチンも共同。朝夕は食堂で出される。門限は12時。急な外泊はご法度。
一日中、陽の当らない部屋で、固い布団に包まって眠った一年。田んぼの中で育った田舎娘にとって、ほこりくさいアスファルトの街並みは陰鬱とした感情を高めるには十分な環境だった。本来の人見知りも相まって、寮で仲の良い友人ができることは終ぞなく、足の踏み場もないような小さな部屋に友人を呼び込むこともできなかった。
毎晩、大学から帰って冷めた夕食を食む。誰とも話すことなく、布団に潜り込む。朝でも夜でも薄暗い部屋、常に機嫌の悪い寮長のおじいさん。どこにも居場所などないという、あの感覚。
二年にあがる春。一年という独り暮らしお試し期間を終えて、私は新しい下宿を探すように母から命を受けた。選んだのは大学のすぐ近く、裏手に幼稚園のある、ちいさな下宿。大学までは徒歩5分、近場のスーパーまでは徒歩15分。すこし古いけど、トイレとお風呂は別。コンロも二口ついていた。
はじめて借りた、あの部屋。
そう聞いて、思い出すのは、あの六畳間のちいさな城。南の窓は昼間になると暖かな日差しが差し込み、西側からは子供の声が聞こえる。裏手は大学の裏山で、毎日亀のいるちいさな池の前を通って坂をのぼった。
そこで過ごした三年は、平凡ながらも瑞々しい香りや温度を伴って、鮮明に思い出せる日々になっていく。
ちかくの可愛い喫茶店、ひとりが寂しいときに食べに行く魚がおいしい定食屋さん。散歩するのにちょうどいい公園。
なによりも、だれかが訪ねてきてくれるということ。
孤独を煮詰めたような独り暮らしでも、大学が近いのもあって友人が訪ねてきてくれる。時にはおかしを持ち寄って楽しいクリスマス会を開いたり、狭い六畳間に四人で並んで、夜中まで映画を見たり。深夜一時のコンビニで温かい飲み物を買って、だれもいない公園のブランコで遊んでみたり。終わらない卒論を手伝って、徹夜した冬の日。
ありふれた大学生のようで、ありふれた青春のようで、だからこそいつまでも大切に保存瓶にしまっておきたい日々のこと。
〇
手鍋にお湯を沸かして、パウチのお粥をあたためる。
体調を崩して二週間。布団の中で孤独を煮詰めるには、十分すぎる時間だった。
持病の関係で、よく体調を崩して寝込む。
そういう時には、世界で独りぼっちな気持ちになってしまう。自分が矮小で、世間とのつながりもなく、だれにも顧みられない存在だと思えてくる。朝日が昇っても起きられず、家から出られない。部屋の隅にたまっていくほこりと、ずいぶんと洗ってないシンクの中の食器たち。冷蔵庫には賞味期限の切れた納豆。誰にも会いたくなくて、見ないようにしているスマホ。一切の連絡を遮断すると、宇宙の中をこの部屋ただひとつが漂っているような、そういう気分になってくる。
咳をしても、ひとり。
尾崎放哉は偉大である。
自意識というのは、これもまた複雑怪奇だった。
誰にも会いたくないのに、誰かに心配をしてほしい。話したくないのに、そばにいてほしい。面倒で、手間のかかる、やっかいなやつ。
温まったパウチから、お椀にお粥を移す。白粥では味気ないと、冷蔵庫の奥から鮭フレークを取り出して乗っけた。
小さな部屋の、小さなベットに座って、一口食べる。
意外と、おなかが空いていたことに気づいた。
スプーンを口に運びながら、数日ぶりに部屋の中を見回した。開きっぱなしの本、積み重なったプリント、洗濯籠からあふれる服。それと、誕生日にもらったカエルの置物。
部屋を掃除して、明日こそ大学へ行こう。
それから、少し元気になったら、友人たちを家に招こう。
言葉に出すと照れくさくて、素直には言えないけれど。
面倒くさい自意識に、離れず寄り添っていてくれて、ありがとう。コンビニの袋ひとつ、世界とのつながり。
ひとりきりのあの部屋は、ひとりきりじゃない場所だった。
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はじめて借りた、あの部屋。
誰かが訪ねてきてくれる場所のこと。
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