音もなく舟が出て行く朝に。
よのなかを なににたとへむ あさびらき こぎいにしふねの あとな
きがごと ―沙弥満誓(『万葉集』354番)
良い歌だな、と思った。世の中への憂いや息苦しさと、朝の穏やかさが同居している。本当にいい歌だなと思う。
別に和歌の話がしたいわけじゃなくて、じゃあ何を書こうと思ったのかと聞かれると困る。年が明けてから暫くなにも書いていなかったし、なんだか書くこと以前に生きること自体に意欲が持てない時期にある。
「生きることに意欲が持てない」と遠回しに表現したけれど、端的に言えば鬱っぽい。もっというと、「死にたいなぁ」という薄いベールが体中を覆っているような状態だ。時々訪れるので驚きも何もないのだが、時々訪れるわりにはそうなるたびに毎度毎度苦しむ。
息を吐く。吐いて吐いて吐く。すると体が縮こまる。体は生きようとするから息を吸わねばならないが、心はこのまま停止したいと願っている。不思議である。
「孤独」の友は言葉だと思う。
昔はそれが小説だったり物語だったりしたが、いつからか、出会った歌歌が私の孤独の友となるようになった。
上の歌、拾遺集には次のようにある。
題しらず 沙弥満誓
世の中をなににたとへむあさぼらけこぎゆく舟のあとのしら浪
「朝開き」より「朝ぼらけ」の方が響きがよいが、「こぎゆく舟のあとのしら浪」より「あとなきがごと」の方が余韻があって美しいように感じる。
更に面白いのは、源順がこの上の句を取って様々改作をしているところだ。
応和元年七月十一日に、よつなるをんなごをうしなひて、おなじ
年の八月六日に、又いつつなるをのこ子をうしなひて、無常の思
ひ、ことにふれておこる、かなしびのなみだかわかず、古万葉集
の中に沙弥満誓がよめる歌の中に、世の中をなににたとへんとい
へることをとりて、かしらにおきてよめる歌十首
世の中を何にたとへんあかねさす朝日さすまの萩のうへの露
よのなかをなににたとへん夕露もまたできえぬるあさがほの花
世の間を何にたとへむあすか川さだめなきよにたぎつ水のあわ
世の中を何にたとへんうたたねの夢路ばかりにかよふ玉ぼこ
よの中を何にたとへん吹く風は行へもしらぬ峰のしら雲
世の中をなににたとへん水はやみかつくづれゆくきしのひめ松
世の間を何にたとへん秋の田をほのかにてらす宵の稲づま
よの中をなににたとへんにごり江の底になからはやどるつき影
世の中を何にたとへん草も木も枯れゆくころの野べのむしのね
世の中を何にたとへん冬を浅みふるとはみれどけぬる白雪
能宣集にも同様の試みが見られる。
よのなかのつねなきをみて、万葉集のなかなる沙弥満誓が歌をも
とにて、しものくをくはへて、したがふ、時文などしてよみはべ
りし
二四二よのなかをなににたとへむしたぎえのこほりとぢたるはるのいけみづ
世中をなににたとへんなつぐさのやどるほたるのよひのともし火
よのなかをなににたとへむささがにのいともてぬけるしらつゆのたま
よのなかをなににたとへむぬまみづのあわのゆくへをたのむうきくさ
よのなかをなににたとへむさよふけてなかばいりぬるやまのはの月
世中をなににたとへむかぜさむみくれゆくあきのうつせみのこゑ
世中をなににたとへむふくかぜにとまりさだめぬあまのつりぶね
世中をなににたとへむかみなづきしぐれつきぬるもみぢばのいろ
世中をなににたとへむしもをいたみいろかはりぬるあさぢふののべ
世中をなににたとへむわたのはらうちきらしふるなみのうへのゆき
世中をなににたとへむともし火をみつつあつまるなつのよのむし
世中をなににたとへむくさのはのつゆにやどりてみゆるつきかげ
双方「つゆ」や「ほたる」から「月影」や「しら雲」など様々なものに世間の無常やはかなさを歌っているけれど、やはり元の「漕ぎ去ぬ舟のあとなきがごと」にはかなわないように思う。
想像してみる。
何もない朝の海を、一隻の舟が音もなく出て行く様を。
世の中を無常として、はかなんで、それであるいは世を捨てて、それでもそこにある穏やかさを考えてみる。
舟の後に白波がわずかに立ち、消える。何も残らない。
その人生の儚さを想像するたび、どうせ死んでしまうならば、もうしばし、いましばらく、私はそう思ってしまうのだ。
孤独の友は言葉だと思う。
およそ1200年前の言葉に、今日の死にたさを救いあげられている。
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