『不正解』で出来ている。
例えば何か伝えたいことがあるとして。
どうやったらこの気持ちが、私じゃない誰かに届くのだろう。
手を離した瞬間、あてどなく流される風船のように届くかわからないものを、それでも届けたいと願う。
けれど上手くいかなくて、いつだって白紙の前で、私は立ち往生している。何を恐れているのかと問えば、きっと私が恐れているのは『間違える』ってことなんだと思う。
〇
格好よく生きたいなとそう願いながらも、現実の私はとんでもなく臆病で小心者だ。着る服一枚さえ、他人にどう思われるの気にしている。でも気にしているだけで、お洒落に詳しかったり好きだったりするわけではない。Tシャツ一枚でイオンに行くし、すっぴんでスーパーへ行く。
それでも、気にしているのだ。気にしているという事実だけが、ずしりと私の心にいつもいる。
皆がおいしいというものを、美味しくないと思ったときに、きっと私はそのことを口に出すことが出来ない。皆が素敵だと思うものを、素敵だと思えなかった時きっと私はそのことをずっと黙っているだろう。
あるいは、それでいいのかもしれない。楽しんでいる人へと水を差す必要なんてないのだから。だけれども問題は、私自身が『そう思えない』自分を恐れて『これはおいしいものだ』と思い込もうとするところにある。
そういう自分を見つける瞬間が、本当に恐ろしい。私は、私の感覚を信じてあげられていないんだ。
〇
自分のことを、信頼していない。
本当は、自分の両足でしゃんと立って前をまっすぐ見つめられる人間でありたいと、そう願っている。願っているだけは変わらないのに、やはり他人の顔色を気にしている自分がいる。そういう自分を見つけるたびに、自分に失望して、死にたくなる。
私は、なんでこんなにダサい奴なんだろう。
〇
病気だった子供は、皆一様に医者を目指したりする。
ご多分に漏れず、私もそういう進路を望んだときがある。でもこれは、半分以上、私の意思ではなかった。
母は、私にそういう生き方をしてほしいようだった。救われた命を、誰かに帰すような生き方。正しい生き方だ。
結局、私はその正しさの上を歩むことが出来なかった。
がん患者にも正解と不正解があるなら、結局文学に進んでいる私は、きっと不正解の方だ。
テレビで、恩返しをしている人たちを見かけるたびに、心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚える。底のない穴に突き落とされて、どこまでも不正解な自分を見つめているような感覚。
吐きそうになって、すぐさまチャンネルを変える。
昔、ニュージーランドに短期留学をしたことがある。海辺の、タウランガという綺麗な街だった。内陸の県に住んでいる私にとって海とは、タウランガの、あの美しい冬の海だ。
水平線と、火山と、砂浜。曇りの日も、雨の日も、それからもちろん晴れの日も、美しいあの海だ。
だけど、わざわざ短期とはいえ留学させてもらっておいて、私は結局英語を使う進路を選ばなかった。何を書けばいいのかわからなくて、ホストファミリーとの連絡もとっていない。
ここでも、私はまたしても不正解の留学生だ。正しい留学生は、facebookで連絡を取り合って、英語で投稿したりするらしい。まめすぎて信じられないし、とても真似できそうにない。
ちなみに私がfacebookを立ち上げるのは一年に一度である。
こういう『不正解』を積み上げて、今ここにいる。
私は感動小説の主人公じゃないから、若くして病気で死んだりしない。私は医療ドラマの主人公じゃないから、恩返しのために医者になったりしない。私は意欲あって活動的な大学生じゃないから、英語でfacebookもしないし、世界とのつながり云々なんて思わない。
世界とつながるのなんて、お断りだ。私の感情にはいってこないでくれ!くそったれ!
〇
正しいとか、正しくないとか、全部まるめてトイレに流せばいいんだろ。知ってるけど、できない。一番くそったれなのは、私自身だ。
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正しい方を選べないのに、正しい方を気にかけてばかりいる。そこに、私の『ゆがみ』がある。
自分の感じたことを、信用できない。自分の感情を、信用できない。
なにか、喜怒哀楽を貼り付けてラベリングしたくなる。安易な言葉へと流れたくなる。
その癖に、安易な方に流れた自分を見つけて己に失望するんだから質が悪い。
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格好よく生きたい。それは、自分に素直であると言うことだ。
でも本当にカッコイイ人って、こういうくそダセエ記事書いたりしないんだろうな~。
やんなっちゃうな。
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