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辞書を買った話。

全然noteを書いていなくて、それはなんというか、note用に取り繕うような自分がいないからである。取り繕えているのかと言えば、取り繕えてなかったりもするので、今更取り繕う必要もないような気もするし、取り繕うって何回言えばいいんだろう。

年末に買った辞書が届いた。オンデマンドで、一冊三万円だった。思いきった買い物だった。

『歌ことば歌枕大辞典』といって、和歌文学を調べるなら一番最初に捲る一冊だ。和歌を学ぶ時にお世話になる本はいくつかあって、例えば「国歌大観」だったり「私家集大成」だったり、「和歌文学大系」のシリーズだったりするのだが、その中でもやっぱり一番「手元に」と思うのはこの一冊だ。三万円、高いのか安いのかわからない。いや、高いんだけど、費用対効果的な問題で、安い気もしなくもない。ちなみにこいつ、今はオンデマンドで受注生産だが、最初はちゃんと刷られて発行されていた。その刷られて販売されていたやつは古本屋で十万円の値がついている。たっか。うそじゃん。この十万円を一万円に空目して買いそうになったのが去年一番最後の「ポンコツ案件」である。本当にあぶなかった。
そんなこんなで、私の手元には辞書がいる。勉強机に設置した本棚に、どんと構えている。
私が和歌を勉強しなくなったら、こいつは枕になるか漬物石になるかしかない。まぁ、そういう本は今のところ本棚にいっぱいあって、たとえば新編日本古典文学全集の源氏物語全六巻なんて、平安文学やらなくなったらもうどうしようもなく場所を取るだけである。

これらの本の背表紙を見て思い出すのは、大学二年生の時のゼミでの先生の言葉だ。
「本に挨拶してきなさいね」
まだ二回目の授業だったと思う。先生がそういった。
「これからお世話になるから、『国歌大観』とか『平安時代史辞典』とか、そういう本にご挨拶してらっしゃいね。背表紙を撫でて、よろしくっていうのですよ」
三時間目の授業が終わった後、図書館へ行って本棚の間を歩いた。二階の参考図書コーナーの一番上の段に、黒い背表紙のでかい「国歌大観」が並んでいた。私は本に挨拶をした。おかげで、今もたくさんお世話になっている。その多くはデータベースだが、国歌大観がなければなにもできない。先人は偉大なり。
「歌ことば歌枕大辞典」も、先生がご挨拶なさいとおっしゃってた一冊だった。ちなみに似た名前の「歌枕歌ことば辞典」もあって、これを混同していた時期もあった。混同といえば、国文学研究ローカルあるあるに、『国文学』という名の雑誌が二つある問題がある。『国文学―解釈と鑑賞―』と『国文学―解釈と教材の研究―』である。この二つを間違えて論文探しの旅に出かけて遭難などをする。もうどちらも廃刊になっており、それは私が文学を志す少し前の話で、残念で仕方ない。
 べつに今だって文学を志しているなんて高い目標があるわけじゃなくて、ただなぜかここにいるというと、これまた聞こえが悪いし、もちろん進学した時にはそれなりの矜持あってのことなのだが、だけどなぜと聞かれればやはり「事の流れ」とか「気の迷い」とかなのかもしれない。人生の大方のことは気の迷いで決まるのではないだろうか?などとしたり顔で書いて、なにか分かったようにふるまってみる。違う?そうか。

 大学の友人で、筝曲サークルに所属していたやつがいる。こう書くと多くの友人の中で、と読めるけれど、実際友人は多くなく、卒業してなお時たま連絡を取るのは二人のみだ。高校の友人で連絡を取るのは一人なので、友人として指折り数えられる人間の数は三人である。なんともまぁ、別に困ってはいないが、なんともまぁ…という気持ちにならなくもない。
 その少ない友人のうちの一人が、筝曲部だった。彼女は大学から筝曲をはじめ、楽しそうに筝の琴をつま弾いていた。琴には琴(きん)の琴と筝(そう)の琴があり、琴の琴はその奏法が村上朝時代に途絶えてしまったらしい。と、いうのが源氏などで琴の琴が登場したときにお決まりのようにつけられる注釈である。実際どの時点で途絶えたと判明しているのか、私は論文などを検したことがないのでしらないのだが、まぁとにかくそういうことらしい。そんな、今も奏法が残る方の、筝の琴を、彼女は弾いていた。
 ある日、食堂で会ったあの子がこういった。
「ついに、買っちゃった」
 少しの興奮を抑えながら、嬉しそうに、だけどどこか寂しそうに、そういった。何を買ったのか。筝を買ったとのことだった。
 私の記憶が正しければ、およそ三十万円ほどだったと思う。サークルのツテの筝を取り扱っているお店で、分割払いにしたそうだ。それから、彼女はアルバイトを増やし、早朝にミスドでドーナツを作りながら、それでも変わらず筝の琴をつま弾いていた。自分の愛機が持てて、嬉しそうだった。だけどやっぱりどこか、少しだけ追い詰められたような顔を、していたように私は思う。
 彼女がお手洗いに立った時に、食堂で同じサークルの子がちょっと眉を下げて言っていた。
「あの子、自分を追い込んでるみたい。筝をかって、筝から逃げられないようにしているんだと思う」
 実際、その通りだったろうと、私も思う。

 机の前の本棚の、その中にどでんと居座る辞書を見ながら思う。
 もし私が平安文学から離れたら、それは院を卒業した後、もう文学の道に戻ることがなければ、心にかけることもなくなったら、そうしたら、この本はどうなるのだろう。行く末は枕か漬物石か。ほとんど捲られることなく、このまま学生生活が終わったら、私の三万円はどこへ消えて行ったことになるんだろうか。

 三十万円の筝の琴を買った友人のことを思い出す。私はその十分の一だけど、でも気持ちはどこか似通っている。「逃げないようにするため」なのかもしれない。あるいは、「自分は一生和歌を枕元に携える」と確信しているのかもしれない。願望とも何ともとれない。
 分厚い背表紙がある。千年前の言葉に対しての先人の研究成果の塊がある。私はこれから先の人生、どこへいくのか全くわからないが、この三万円を無駄だと思わないように、そう生きねばと、謎の使命感がわく。

 辞書を買ったつもりが、どうやらべつの物を買っていたらしい。 

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