「優しい」って、言われたくない。
まず最初に、言い訳をさせてほしい。
別に、「優しい」って言われることが嫌なわけじゃない。できれば優しくありたいし、人を不快にはさせたくないから。
じゃあいいじゃん。解散。
と、なればいいのだが、そうはならない。ならないから、困ってる。
つまり何が言いたいかというと、このnoteの目指すところは誰かを批判したりしたいわけじゃなく、私の中の自我の問題である、ということ。このことを最初にことわっておく。
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「優しくて、あたたかい文章」と、言っていただいた。
ありがとうございます、すごくうれしいです。そう喜んでから、喉の奥に魚の小骨がひっかかったみたいな、そういう違和感を感じた。
「優しくて、あたたかい文章」
良い言葉だ。私もそういう文章が好きだし、できれば毎日朗らかにそうやって生きていきたいとおもう。
だけど、何故だか心の底から喜べない。
何故だろう。
それはつまり、私の文章が、ありきたりな、どこにでもある、そういうものだと言われている気がしてしまうからに他ならないのだ。
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実際の私は優しくもなんともない、常にこの世に中指立てて、くそったれだなって思ってる。あれもこれも、全部くそったれで、生きるのなんて嫌でしょうがない。
唾を吐きかけて、毒を吐いて、そうしてなんとか生きていたりする。
その虚構性に、後ろ指をさされている気分になるのかもしれない。だけど、それだけじゃなくて、「優しい」って、つまり「つまんない」ってことなんじゃないかって思っちゃう。
これは自我の問題だ。
特別でありたいと願う、そういう、誰もが持っていて、それでいて誰も口に出さない、自我。
私の書くものは、つまんないかな。もしかしたら、自分自身、心の奥底でそう思っているのかもしれない。
じゃあ、毒を吐いて、心臓を抉って、そういう話が「面白い」んだろうか。それも違う気がする。
つまりこれは迷子である。どこに向かうべきなのか、悩んでいるのだ。
ありきたりな、ほわほわした、素敵生活みたいな、そういうものを書きたいわけじゃない。かといって、たっぷりと毒を含んだ、毒々しいものを書きたいわけじゃない。
優しくても、人の心臓に突き刺さるような、そういうものを、書きたいんだ。
そのために、どうすればいい?