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ルイーズ・ブルジョワ展〜ブルジョワの生き様〜

行ってきた。
いやあ、良かった。
もしこれを読んでいるあなたが「行こうかなーどうしようかなーそろそろ終わっちゃうなー」なんて考えながら、このnoteに辿り着いたのなら、こんなnote今すぐ閉じて、チケットを購入するべきだ。
それでも迷っているのなら、少しでもこのnoteが後押しになったら嬉しい。


はじめに

最近、美術館熱が高まっていることもあり、ネットでぽちぽち探していたところ、現在森美術館で開催中のこの「ルイーズ・ブルジョワ展:地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」が目に止まった。

なんか蜘蛛が印象的だったからだ。
バカの感想である。
もちろん、ルイーズ・ブルジョワなんて人知らなかった。

しかしながら、本当に行って正解だった。
そんなに美術館に足繁く通う人間ではないので、母数が少ないけれど、今まで行った美術館(個展)の中で一番良かった。
この個展はルイーズ・ブルジョワの作品の集合体ではあるけれど、全てを回り終えた時、この個展自体がまるでひとつの物語のように感じられた
個展に置かれた全ての作品を通して「LOUISE BOURGEOIS」という一本のノンフィクション映画を観せられたようだった。
足を運ぶ前は?マークだった「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」という言葉に、こんなにも痺れさせられるとは。綺麗な伏線回収にも程がある。

と、そんなわけでこの記事ではこの「ルイーズ・ブルジョワ展」について書いていこうと思うのだけれど、ノンフィクション映画だと言ってはみたものの、これはあくまで個展なので、突き詰めれば「実際に行って、その目で見て、感じて来いや」の一言に尽きる。

《蜘蛛》
こういった作品を一個一個掲載して、良さをひとつひとつ言葉で説明する!というのは無理があるというもの。

そのためこの記事は前半で「個展として、どんなところが良かったのか?」ということに触れ、後半では、個展を通して知ったルイーズ・ブルジョワという芸術家の生涯に触れながら、彼女の抱えていた苦悩について、自分なりに考えてみたいと思う。
前半はまだ個展に行っていない人向け、後半は個展に行った人向けの内容と思っていただいて良い。
お好きなところを、読んだり読まなかったりしてもらえたらと思う。


ここがオモロいブルジョワ展①「わかりやすい」

めっちゃ、わかりやすい。というか、ちょうどいい。
美術館にとっつきにくさを感じていたり、苦手意識を持っている人の大半の理由は「だって、わけわかんねえじゃん」という言葉に集約されるのではないか。
それ、めっちゃわかる。わけわかんねぇの、わかる。

「なんか、いいな」みたいな感情を大事にしたいと思ってはいるものの、それにしたって突き詰めれば「で、なんなの?これは」と言いたくなる個展も少なくない。置いてけぼり状態。
その点、ブルジョワの作品は、作品によって伝えたいことや作風は変わってはいるものの「あーこれはこういうことを伝えたいんだな」とか、あるいは「もしかしてこれはこういうことなのかな?」みたいなヒントが作品の中に散りばめられている
「脈絡ねーじゃん」みたいなのがあんまりない(ちょっとはある)。
なので、俺のような美術館ビギナーでも結構楽しめる。

ちなみに、内容的に「楽しむ」という言葉が適切かどうかと言うとだいぶ難しいところなのだが、あくまでブルジョワ展がオススメの理由ということで、前半においては、あえてラフに表記していく。

ここがオモロいブルジョワ展②「作風めっちゃ変わる」

めっちゃ、変わる。
なぜお前はフジロックフェスティバルに行くのか?
いろんなバンドを一度で楽しめるからだろう。
そういうことである。

ブルジョワは、作品によって異なる苦悩と向き合っていて、その苦悩をそのまま作品にぶつけている
その苦悩を作品にぶつけるのに、どの表現方法を使うのが適切なのか?と思案したのだろう(想像)。
そのため、彫刻もあれば、絵画もあれば、ホログラムみたいなんもあったり、果ては刺繍みたいなのもある
だから、歩いてて飽きない。あの手この手。
長い生涯の中で、さまざまな切り口から自らの苦悩をぶつける姿勢には、感服するばかりだった。

ここがオモロいブルジョワ展③「物語性がある」

ある。
冒頭でも話したように、この個展全体がひとつの作品のような趣がある
作風や苦悩は作品によって変わるものの、当然ながら「ひとつの苦悩が解決したから、はい次の苦悩」というわけではない。むしろある苦悩の中にも別の苦悩を内包しているようなきらいがある
つまり、作風や苦悩が変わろうとも、それぞれの作品は繋がっている(感じがする)。
言うなれば、この個展全体がルイーズ・ブルジョワの人生を覗いているようなものである。
「今、俺はこれを感じているから、この思いをぶつけるんだあああああああああ!!!!!!見ろおおおおおおおおおおおおお届けぇぇぇぇぇぇぇこの想いいいいいいいいい!!!!!!」みたいなパッションをひとつの作品から感じると言うよりも(個人差だけど)、一つ一つの作品がまるで日記になっているかのように思える。
その時、その瞬間、彼女が感じていた苦悩を、言葉の代わりに作品に吐き出しているように感じられる。
だから、館内を回り切った後、一つの人生が終わったような、一人の人生を観終えたような感覚に包まれるのかもしれない。

ルイーズ・ブルジョワはどんなことを想って亡くなっていったのだろう。
少し内容に触れるが、今回展示されている作品の中でも一際異彩を放っているのが《父の破壊》という作品である。

《父の破壊》

この作品は端的に言って「嫌いな父を食う」というコンセプトで制作されたらしい。エグい。
しかしながら、晩年の作品では白い布にお花を縫い付けていたりする。かわいい。
そんな流れを考えると、最期の最期は苦悩から少しは開放されて、安らかに旅立っていったのかなあ、なんてことを想像したりもする。
また、そんな思いを馳せながら、全て回り終えた上で改めて「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」の言葉に触れると、この言葉の渋さがヒシヒシと感じられる。痺れる。

ここがオモロいブルジョワ展④「気になった作品紹介」

ここまでもいくつか作品は出てきたが、せっかくなので、作品を一部紹介してみようと思う。本当に少しだけ。

《良い母》(部分)

「第一章」として展示される前半では、母親としての、あるいは自身の母親に対する娘としての、苦悩が描かれた作品が多く展示されている
この《良い母》(部分)では乳房から5つの糸が伸びている。
この「5」という数字は他の展示でも度々登場していて「なんで5つなんだろ?」と思っていたのだけれど、これはブルジョワ自身も5人家族で育ち、自らが母親となった家庭でも5人家族だったことから来ているらしい。
「5」という数字が、ブルジョワにとってのキーナンバーだったようだ。

《無題》

これが前述したホログラムの作品。
いくつかあるうちのひとつ。
角度によって見えたり見えなかったりして面白い(それは単にホログラムの感想だけど)。
また赤と黒のコントラストがかなりイケてる。
この一枚は同じスペースに展示されている《罪人2番》という作品と状況がほぼ一致していて、その《罪人2番》というのはホログラムや絵画ではないリアルなアート(なんて言うんだろ?)なので是非行って体験してみてもらいたい。
ちなみにこれ、所有者はかの前澤友作社長とのこと。すご。

《ファム・メゾン》

こちらは《ファム・メゾン》という作品の一部。
ファムは女性、メゾンは家
一応説明しておくと、ルイーズ・ブルジョワは1911年生まれの2010年没。彼女が生きていた時代というのは、日本に置き換えても想像に容易いが、今とは比較にならないくらい男性の権力が強かった時代である。
この《ファム・メゾン》では家庭に入り、家に縛られる、あるいは守られる女性の存在を建築と一体化させて描いている
いくつか同じテーマで《ファム・メゾン》が展示されているのだけれど、中でもこれが個人的に良かった。
モノクロで鬱々とした印象を受けるものの、バンザイして飛び跳ねているようにも見える。
ブルジョワとは趣旨が少しズレる話なんだけど、以前どこかで目にしたお坊さんの説法か何かで「現代は、昔よりも確かに女性の地位は向上したけれど、昔は今以上に女性と子どもは守られるべき存在だった」(かなりニュアンス)という話があった。一理あるなあ、と思う。
つまり、それはそれで、それだけ女性という存在を「守るべきもの」として特別扱いしていた、という視点でもある。
女性が強い男性に惹かれたり「守られる」ことにキュンとする感情というのは、理屈ではない遺伝子レベルで組み込まれた本能のようにも感じていて、鬱々としながらも、どこか嬉しそうに見えるこの作品からは、そんな視点も感じられる。あるいは翻って、そこに喜びを感じる自分へのアンチテーゼなのかもしれない。
いずれにせよ、この感覚が正しいものだとすれば、ブルジョワは極めてウィットに富んだ人物だったのだなあと思う。

前半終わり

とまあ、こんなところで、ルイーズ・ブルジョワ展、行ってない人向け紹介を終わりにしようと思う。
俺が「わかりやすく、ちょうどいい」と言った理由が少しはわかってもらえたのではないだろうか。
自分なりの考えを膨らませる余白を残しつつ、ある程度伝えたいことを作品にぶつけてくれているので、置いてけぼりにされない
官能的だったり、グロテスクだったり、ホラーチックだったり、正直やや刺激的な展示ではあるが、ほとんどの作品はアートとしてデフォルメされているので、友達や恋人と一緒に観に行って、感想を語り合うというのにも適した個展だったと思う。

そんなわけで、前半終わり。
興味がない人はここでさようなら。
ここからはルイーズ・ブルジョワの生涯や苦悩について焦点を当てていきたい。


ルイーズ・ブルジョワの生き様を考えてみる


個展を訪れた人なら、誰もが気づいたと思うが、ルイーズ・ブルジョワの創作の原動力は間違いなく負のエネルギーだった
前述した《父の破壊》などはわかりやすいが、それでなくても、すべての作品にどこか生々しさや、寂しさのようなものを感じる。
ハッピーなモチベーションで制作された作品って一個でもあったのだろうか?
ちなみに先述したように、晩年の作品には、白い布にお花を縫い付けたものとか、白い布に青いボタンを並べたものとか、一見可愛げのある作品もそこそこあったりはするのだが、それだって「自らの所有物の布を使って制作することで、過去と決別する」という意味合いを持たせていたらしい。つまるところ、自らのトラウマや負の感情と向き合い続けたブルジョワの終活みたいなものだったのではないか。

そんなブルジョワの創作の原動力となっていた負のエネルギーは、明らかに幼少期の両親との関係から来ていて、個展においても幼少期のトラウマは度々言及されている。
というか原動力どころか、そもそも人格形成に多大な影響を及ぼしている。
「両親が人格形成に多大な影響を及ぼしている」ってそりゃ当たり前だろ、と言われればそれはそうなのだが、個展を回った限りでは、その両親によって構築された人格や受けたトラウマと、ブルジョワは人生を賭けて向き合い続けていたように感じた
俺にはその意味で、両親による幼少期の体験が、ブルジョワの人生の全てを形作ってしまったように思えてならない。

とはいえ、もちろんこれは個展だけを見た俺の感想であって、創作以外に過ごしたたくさんの時間があったわけだから、想像していたよりはずっと幸せな人生を送っていたかもしれないし、ハッピーな時間も多々あったのかもしれない。
ただ、その辺は作品関係なく本当に想像でしかなくなってしまうので、この先も個展で観た作品や解説を通してのみ考えを巡らせていく。

さてルイーズ・ブルジョワの作品は、大きな二軸が中心となっているように感じて(それはもちろん完全に別々ではなく、混じり合っているものも多いが)、それは女性としてのアイデンティティーの表現と、父親に対する猛烈な拒絶である。
例えば前半で触れた《ファム・メゾン》は、元々は別のタイトルで発表したものを、後に現在の《ファム・メゾン》と改題したことで、女性解放運動のアイコンとなっていった経緯があるらしい。そんな経緯を踏まえても、この作品は基本的に女性のアイデンティティーについて訴えている作品と受け止めていいだろう。
しかしながら、この「自分自身が女性である」ということへの探究もまた、やはり大元を辿れば、幼少期の家庭環境が、ひいては父親に対する拒絶が裏で糸を引いているように思えてならない

ブルジョワの父は、粗野で支配的だったことが示されており先述した《罪人2番》は、まさにその抑圧された幼少期を表現しているようにも見える。

《罪人2番》
閉鎖的な小さな部屋で、小さな椅子に座って、小さな鏡で自分自身を見つめていた。幼い頃の心象風景のようではないか。

また、そんな父は住み込みの家庭教師と不倫関係にあり、そのこともブルジョワの心を深く傷つけた。
これは記憶が定かでないので、間違った記憶かもしれないことを断った上で書くが、母親も家庭教師との不倫を知った上で、父親との関係を続けており、その事実にもブルジョワは深く傷ついていた。
そして、これもまた記憶が定かではないので、曖昧な話続きで申し訳ないのだが、両親の性行為を目の当たりにした経験があり、それもまたブルジョワの心の深いトラウマになったという。
おそらく個展後半で展示されている《昇華》はその時のことを表現したものなのではないかと思う。
さらに、このnoteを書くにあたってブルジョワの生い立ちについて調べていたところ、父からセクハラを受けていたという記載も見られたので、そのような行為を間接的に目の当たりにするだけでなく、程度こそわからないが、実際にブルジョワ自身も性的な被害を受けていたようだ。
実際、個展においても、ブルジョワ自身がオレンジを用いて父親からのセクハラについて語る映像がループで上映されている。

うーむ。
そのような経験を経て、こういった作品が生み出されたのだと考えると、なんだか深く納得してしまうというか、点と点が線になったような気持ちである。

しかしながら、そういった文脈を受けて興味深いのは、ブルジョワが父親の死後、重いうつ病を発症し、しばらくの間、創作活動から遠ざかっていた、という事実である。
父親が死んだから、そこでうつ病になったというわけではなく、きっとその前からずっとうつ病の傾向はあったのだろう(当時はうつ病への理解も薄かっただろうし)。
だから厳密には、父親の死を受けて、そのうつ病が加速した、ということなのだろうと思うが、なんにせよ、その事実は実に重い。
《父の破壊》なんて作品を創るぐらいだから(尤もこの作品の発表は父の死の数十年後のようだが)、単純に考えたら父親の死で何かから解放されそうなものなのだが、実際には逆だった。
それが良かろうと悪かろうと、父親がブルジョワという人間の大部分に影響を及ぼしているのは明白で、意思決定も思考も、ブルジョワの様々な心理面に、幼い頃のトラウマと共に父親が介在していたに違いない。
そう考えると、父の死はむしろ自らのアイデンティティーの喪失に近いものがあったのかもしれない

ブルジョワがカッケーなと思うのは「怒りや苛立ちを作品で表現できなければ、その矛先を家族に向けてしまう」と自ら語るように、明確に自分の苦悩や葛藤を芸術にぶつけていると自覚していること。
さらにカッケーなと思うのは、父親の死によって加速した重いうつ病を機に、ブルジョワは自らの精神分析に取り組んだということだ。
「男ってクソじゃね?全員死ねばよくね?」でもなく「なんで私はこんな境遇に生まれたの?」でもなく、もちろんそういう瞬間もあったかもしれないけれど、それでも冷静に、フラットに、己の感情や境遇と向き合い、芸術にぶつけるその姿勢。それが実に素晴らしいと思った。

このnoteを書き始めるまで、俺自身も気づかなくて恥ずかしいのだが、ブルジョワ展に展示されている印象的な作品の大半は父の死後発表されているものばかりだ。
要するに、冒頭でブルジョワ展が日記のようだったと表現したが、実際には本当の意味でその瞬間、日記のように創作に打ち込んだわけではなく、父の死後、精神分析などを通して自分と向き合い、自らを理解していく中で、当時の感情を追体験するように作品にぶつけ、昇華していったんだな。
すげえよ。あんた大人だよ、ブルジョワ。

とまあ、そんなわけで自らが抱えてきた感情と向き合い、作品にぶつけまくった後に、ブルジョワは自分の衣服や布を使った創作(何度も前述した白い布に花のやつとか)で過去の昇華にチャレンジしていく。
そして、そこで登場するのが、個展の副題ともなった「地獄から帰ってきたところ 言っとくけど、素晴らしかったわ」の文字が刺繍されたハンカチなのである。
「地獄」のような過去と向き合い、芸術にぶつけ昇華し、自己を受け入れ、その果てにブルジョワは言う。それはもしかしたら強がりかもしれないけれど、それでも言うのだ。
素晴らしかった」と。
しびぃ〜〜〜。渋すぎぃぃぃ〜〜〜。痺れるぅ〜〜〜。


おわりに

長々読んでくれて、ありがとうございました。
後半では父親との関係に焦点を当てめで、ルイーズ・ブルジョワ自身のことを文章にしてみたけれど、個展では母親への感情みたいなのも描かれているし、もっとフェミニストとしての側面が強い作品なんかもたくさんある。
つまり、まだまだ楽しみしろはたくさんあるってわけ。

俺は男だから、どうしても男としての目線が入ってきてしまうけど、女性は女性でまた感じるものは多いのではないかなあ。
もしこのnoteをきっかけにブルジョワ展に訪れた人がいるなら、感想聞かせてね。
それでは、また。

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