有沢友好。のみらいよち/断片2
はじめに
導入
生きていくうえで必要なものが、はじめから全て用意されていて、新たに何かを買い足す必要がないような場合において、「お金」がどのような意味を持つのか、どのような役割を果たすのかといったことについては、この『有沢友好。のみらいよち』全体を通して、ふれることはない。
そこまで深く手を伸ばすような余力は、もうわたしにはない。
しかし、今回は「お金」についての話をしようと思う。前回の「断片1」では「社会」の未来について考えてみたので、今回は「社会」を構成する要素のひとつに焦点をしぼって考えていくことにする。
確認事項
あらかじめ断っておかなくてはならないことが、たくさんある。
まず、わたしが「お金」に関するテーマ全般を苦手分野としていることだ。
なので、これから書くことはすべて「下手の横好き」だと考えていただきたい。
つぎに、非常に抽象的な話をするということだ。「お金の話」と聞くと、具体的で生々しいものを想像するかもしれない。けれど、「お金」というものが実は、信用や物語性といったものに支えられている非常に文明的な代物だということを考えると、必然的なことなのかもしれない。
もうひとつは、今回の未来予測はヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』の影響を強く受けていると、あるていど確信を持って言えることだ。
わたしは昨年、課題図書としてヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』と、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』を読むことを自らに課し、年末にはこれらを読んだ感想を書きもした。
もし仮に、事前にこれらを読んでいなかったとしたら、今回のような結論には至らなかっただろうと思う。
最後は、わたしが「お金」をある種の才能だと考えていることだ。
世の中には、文系科目が得意という人もいれば、理系科目が得意という人もいるし、勉強は苦手だけれどスポーツは得意という人もいる。「お金」に関してもそれらと同じように、「お金を得意分野としている」人がいるというふうに考えているということだ。
もちろん、「お金」という科目は社会人にとっては必修科目だと思うので、そういう考え方は受け入れられないという方が大多数だとは思う。
けれど、高校生くらいまでは特に苦手分野というものに出会うことのなかったわたしにとって、毎年入門書を片手に「お金」について考える時間をつくってもなお、機会費用の損失ばかりが増大していく実感しか得られないこの分野というのは、やはり「才能」というほかない。
そういった点をご理解のうえ、読み進めていただけるとさいわいである。
本題
「お金」のまえに
本題に入るまえに、いちど「神様」というものを想像してほしい。
そんな抽象的なものはイメージできないというのであれば、神の代理人としての「教皇」や「王様」はどうだろう。天という抽象概念にたいする、地上の最高権力だ。
仮にあなたが、こういった国家や国民を自らの財産として所有することができるような絶対的な権力者が存在するような時代に生まれ、私有財産を築くことはおろか、自らの生き方すら自分の好きにできないような環境におかれたとする。
おそらく、なんらかの抵抗をこころみるという人はまれで、多くの人は「その時代、その場所の常識」に従い、それを当然のこととして受け入れるだろうと思う。
あまりにも壮大すぎて実感するのはむつかしいかもしれないけれど、現代の我々にとっては当たり前のものとなっている、選挙権や財産権といった様々な諸権利が、実は先人たちの特別な努力によって勝ち取られたものであるという事実は、仮に学生時代に世界史を選択していても、つい忘れてしまいがちだ。
ある側面において、人類の歴史というのは、人の意識や知恵のおよばない「神様」の領域から、人間が自分たちで所有し好きにしてよい領域を勝ち取ってきた歴史だ、ともいえるのかもしれない。
もっとも、「神様」なる存在をつくりだしたのは人間なのだけれど。
なんにせよ、ひとまずはそういったイメージを頭の片隅に置いておいていただきたい。
網野善彦氏の著書『歴史を考えるヒント』には、つぎのような一文がある。
これは、中世の歴史資料に見られる言語習慣から、当時の日本人の価値観や世界観を推測するという項目での一文なのだけれど、人間が所有権を放棄し誰のものでもなくなったものは、神様の所有物になるという考え方は、現代の我々でも割とすんなりと受け入れられるのではないだろうか。
「お金」について
そもそも「お金」とは何であるか、といった説明は、経済の入門書などに譲ろうと思う。
おそらく多くの人が、高校を卒業してから20歳くらいまでの間に、興味本位で経済や金融に関する入門書をいちどは手にとるだろうと思う。
ここでは最低限、お金の4つの機能を列挙して先に進むことにする。
交換手段(流通手段)
価値尺度(購買手段)
蓄財手段
支払い手段
人は社会生活をおくるうえでお金を、こういった機能を持つ道具として利用している。
人と「お金」の関わり
未来について考えるまえに、これまで人がお金とどうつきあってきたか、について考えてみようと思う。
このテーマに関して参考にできる資料を、わたしは先ほど紹介した網野善彦氏の『歴史を考えるヒント』と、同じく網野氏の『日本の歴史をよみなおす(全)』しか持っていないので、これらをベースに考えていこうと思う。必然的に、日本に限定した話となる。
さきほどの引用で、わたしは「落し物は神仏の所有物になる」という考えかたを提示したが、網野氏は「お金」や「商品」にも同様のことがいえると述べている。
モノは日常の贈与互酬の関係から切り離され、誰のものでもない状態、すなわち「無縁」の状態になることで、はじめて「商品」になるのだという。
しかし、13世紀以降に銭、金属貨幣が広く流通し、お金が人々にとって身近なものになっていくことで、こういった職業は15~16世紀あたりから世俗的なものに変化していったのだという。
こういった、人々の日常と「お金」との距離感の変遷は、今後の「お金」の未来を考えるうえで、頭の片隅においておく必要があるだろう。
まだ「お金」というものが、人々にとってなじみがなく非日常的なものであった時代においては、それは非常に神聖なものであり、どこか呪術的なものであったわけだけれど、それが次第に人々の日常の中に浸透していき、今では日々の生活の土台になっている。
「稼ぐ」方法
わたしは、ひとつ前の記事である「断片1」で、これからの社会の変化を「社会の非モダン化」、「ライフスタイルの再様式化」、「労働市場の縮小」といった表現を用いて定義づけた。
AIの登場により、今後さらに労働市場が縮小してしまうことで、結果的に多くの人がその外側で人生設計せざるをえなくなるということだ。
また、わたしは「断片1」のなかで、「お金の稼ぎ方が思いつかない」とも述べた。
けれど、実は労働市場の外側で能動的にお金を稼ぐ方法がひとつだけあると考えている。
極めてシンプルで、すでにそういうマインドで生きているという人も多いとは思うのだけれど、ずばり「お金の集まりやすい場所や、お金の集まりやすい人に近づく」のが、いちばん手っ取り早いお金の稼ぎ方だと思う。
世の中には、「お金の集まりやすい場所」や「お金の集まりやすい人」が存在していて、非労働市場で能動的にお金を獲得しようと思えば、そういうホットスポットのようなところに積極的にコミットするのが、有効な戦略といえるだろう。
「現代」の本質
あまりにもシンプルで、あたりまえのことのように感じる考えかただけれど、同時に、現在の我々の生活様式との間に、大きなギャップを感じるのは、わたしだけだろうか。
現代社会において我々は、「働いてお金を稼ぎ、そのお金を自らの資産とし、それを自分の好きなように運用する」ことを、当然のことだと思っている。
けれど、このような行動様式は、「お金というものは人間の意志で十分にコントロール可能であるという」前提がなければ成り立たない。
この前提を信じることができないのであれば、誰も「お金」というものを日常の内側に引き入れ、自らの人生設計や資産形成の最も重要な部分に置いたりはしないだろう。
お金が、「価値尺度」や「蓄財手段」などの機能を発揮しうるのは、人間が自分たちの都合にあわせてお金を好きに使役できればこそだ。
けれど、前述したような「世の中には、お金の集まりやすい場所や人がいる」という考えかたは、まるで「お金は人間の意思とは無関係に、お金自身のバイオリズムに従って動く、渡り鳥のようなものだ」と言っているに等しい。
あくまでも、わたし個人の感覚でしかないので、いくらでも批判はできるだろうとは思うのだけれど、もしかすると、これが「現代」の本質ともいえるのかもしれない、とわたしは考えている。
つまり、どういうことかというと、「社会」というのはもともと、人よりたくさん働いたからといって、人よりたくさんお金を稼げて、人よりも「市場」で有利に立ちまわることができる、というようにはなっておらず、「労働」というのはあくまでも、人と人との貸し借りの領域でのできごとであり、「お金」はそれらとはまったく無関係なかたちで存在していたのではないか、そして、それぞれまったく無関係だった「労働」と「お金」を、「労働市場」というスキームを用いて無理やりジョイントさせているのではないか、ということだ。
なんらかのかたちで働けば、必ず報酬としてお金を獲得できて、お金を提示すればいつでも自分の欲しいものと交換できる。
そういったルールのなかで生きている現代人にとって、お金は便利な道具であるという認識があるのだけれど、もしかしたら、それは単なる思い込みで、「お金は人間の意思で十分にコントロール可能である」という気がしているだけなのではないだろうか。
さらなる労働市場の縮小は、人々の「お金」にたいする考えかたに、大きな変化をもたらす可能性があると、わたしは考えている。
文明的必然
世の中には、生まれつき体が大きかったり、力が強かったり、運動能力が高かったりする人がいる。
では、そういった生まれながらの才能にめぐまれている人が、そうでない人より偉くなれるかといわれれば、すくなくとも現代社会においては、そう単純にはいかないだろうと思う。
けれど我々は、そういった特別な才能を持っている人を半ば特別視することで、自分たちとは「別格」として扱うことが多い。
特別な才能の持ち主がその才能を思う存分発揮できるような「非日常」の領域を人工的につくりだし、ルールに則った才能の使用を促すことによって、日々のなんでもない日常を保護するという習性が、実は人類にはある。
これはなにも、体格や運動能力に限った話ではなく、「生まれつき頭がいい」ような人にも同じことがいえるだろうと、わたしは思う。
そういった人たちは、学者や聖職者や政治家といった仕事につき、彼らのルールに従って行動するはずだ。
このようにして、日々の日常のなかのあちこちに様々な「非日常」の領域をつくりだして、人間の意思ではどうにもならないようなものを隔離することで、日常の体裁を守ろうとするというような行動を、人間は特別に知恵をしぼってというわけではなく、半ば本能的におこなう。
あくまでもわたしの個人的な見解にすぎないのだけれど、これこそが文明の本質であり、こういった行動は時代や地域に関係なく、人類にとってきわめて普遍的なものである、とわたしは考えている。
であるならば、「お金」も同じような運命をたどるのではないだろうか。
労働市場が人々のお金にたいする「常識」を規定している間は、お金は人々の日常の内側にあり、多くの人にとって人生設計や資産形成の最も重要な位置にありつづけるけれど、労働市場の外側で生きる人が今後増えつづければ、いつかこの常識はひっくりかえるのかもしれない。
人類はその習性にしたがって、「お金」と「お金の才能がある人」とをまとめて「非日常」に閉じこめてしまうという未来は、可能性としては十分ありうると、わたしは考えている。
その場合、「お金」はゲームのスコアのような、試合の勝ち負けを判断する指標のような意味合いを持つようになるのかもしれない。
まとめ
さて、どうまとめたものか。
非常に抽象的な話ばかりしてしまったので、自分でも頭がすこしぼんやりしている。
ざっくりといってしまえば、労働市場の縮小が人々のお金にたいする認識を変える、ということだろうか。
「現代」を生きる我々は、労働市場のことを「社会」といいならわしており、そこでは努力や労働意欲次第で「お金」を、人間の意思のしたにおき道具としてつかうことが可能であるが、人間の仕事の減少にともない労働市場が縮小することで、いくら努力しても「お金」を人間の意思のしたにおくことができなくなり、いずれ「お金」にたいする常識そのものが崩れる。場合によっては、「お金」は人類にとって非日常的なものになり、本来の神聖性や呪物性をとりもどす。
と、いったところだろうか。
このような変化は、少なくとも向こう5年10年くらいでは起こらないだろうと思う。
おそらくは、100年くらい先のことになるのではないだろうか。
もちろん、そもそもこのような変化は起こらないという可能性もあるのだけれど。
それでは、このあたりで今回の『有沢友好。のみらいよち』を、〆ようと思う。
なんらかのかたちで、あなたの生活の一助になれたのならさいわいです。
ここまでおつきあい頂き、ありがとうございます。
余談
これは少し前に別の記事で書いた話題だけれど、お金の価値というのは、お金が「労働の対価として(苦労して)手に入れるもの」であり、「誰もが欲しているもの」であるという物語性によって支えられている。
仮にお金が道端のそこらじゅうに落ちていて、誰もが気軽に手に入れられるようなものであれば、価値を持ったりはしないだろう。
一方それとは逆に、お金が、ある日突然温泉のように湧き出てくるようなふるまいをするのであれば、ある種の神聖性を持つだろうと思う。