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お約束

書かねば。


YouTube

当時保護していた野良猫たちの記録動画を、思い出として残すためにYouTubeをはじめたのが、今年の4月。
もともと、いろんなジャンルに興味があって「ゲーム実況」、「教養系」、「DYI系」、「旅系」など、メジャーなジャンルのメジャーな人たちの動画はわりと見ている方だったので、いつか自分も何らかのかたちでYouTubeへの動画投稿をはじめてみたいと思っていたのだけど、いざはじめてみると、意外と大変なことが多いなと思った。


ゲーム配信

プレイステーションには、プレイ動画をシェアするための必要な機能がはじめから用意されていて、素人でも手軽にゲーム体験の共有をすることができるため、わたしもセール品のマイクをAmazonで購入して(某新型肺炎ウィルスの5類移行の影響だと思うが、低~中価格帯のマイクが軒並みセール中だった)マイクテストがてら、実際に声をいれて配信をしてみたが(あくまでもテストなので今は非公開)、あらためて自分の配信をふりかえって観察してみると、いくつか気づくことがあった。


声の大きさと内容

説明の必要もないと思うので、思考プロセスを端折はしょって結論だけ書いてしまうと、ゲーム配信において配信者は「戦闘シーンなどの盛り上がっている場面とそうでない場面で、声量を微調整しなくてはならず、画面に動きがある間は内容のある話をしてはならない」のだ(と、わたしは個人的に結論づけた)。
ちょっとだけ説明を加えると、ずっと同じ調子で淡々としゃべっていると、戦闘シーンなどでは配信者の声は聞こえなくなるし、静かなシーンでは逆に浮いてしまう。
また、画面に動きがあって、見ている側が画面に集中したいときに、配信者が余計な話を長々としてしまうと、「なに? もういっかい言って」となる。
自分の配信を自分で見ていて、そうなるのだから、不特定多数の赤の他人に向けて配信をしている人は、そのあたり、よっぽど気をつかっているのだろうと思った。


動画コンテンツ

ゲーム配信以外のコンテンツをつくろうと、スマホとマイクを車に積んで遠出したこともあった。
例えば、ちょうどお盆の時期に投稿した『うわさの宮崎県都城市安久町の森林』という動画は、地元のニュースを見ていて気になったトピックを、実際に自分で現地に赴き調べてみるといった趣旨の動画だが、このときは分かりやすいテーマが目の前にあったので、勢い任せで動画を撮っても、あるていど体裁の整った「動画コンテンツ」にすることができたのだが、もっと身近な話題について、これと似たようなテイストでスマホのカメラに向かってしゃべった動画は、全部お蔵入りした。厳密にいうと、原稿の段階で没にした。

わたしがnoteをはじめるきっかけとなった、「アーマードコア6の感想」も、実は没になった企画のひとつを拾い上げたものだ。
もともと、YouTube向けに「べしゃり」の原稿として口語体で下書きしており、話し方や話すときのテンションの最適解を探すために、スマホのボイスレコーダーアプリに向って、何通りか口調を変えて試し撮りし原稿を何度も加筆修正したが、全部納得がいかなかった。


非日常的な行為

カメラやマイクに向かってしゃべるというのは、しゃべるという行為にはちがいないし、口語表現であることには変わりはないが、友人や家族と話したり、人と世間話をしたりすときとはスタンスが異なるし、テレビ番組のナレーションとも異なる。
「自分のことや、自分が考えていることを、聴き手を想定しつつも、ずっと一方的にしゃべる」というのは、実は我々人類の日常生活においては、かなりイレギュラーな行為なのではないだろうか。

実際に動画コンテンツ向けの原稿の下書きをしてみて、このジャンルにおける「表現の独特のクセ」のようなものに悩まされることが多かった。

これはまだ仮説だが、「動画コンテンツにおいて、その視聴者というのは、コンテンツの内容そのものよりも実は、〈お約束〉や〈予定調和〉のようなものを求めているのではないか」と、わたしはなんとなく思った。

例えば、語尾に「ですわ」や「ござる」といった、いわゆる役割語(キャラ語)をつけると、「ああ、なんかこの人こういうキャラなんだろうな」と納得できるし、ある種の安心感を覚えることもある。
あるいは、ある種の定型文ともいえるような、決まり切った文言が話のなかのいつもの場所にあると、やはり安心する。
(お笑いのネタを例にとると、U時工事の「ごめんねごめんね~」、サンドウィッチマンの「ちょっと何言ってるか分かんないです」、タカアンドトシの「欧米か」など、必ずくることがはじめから分かっているものを、我々は求めている)

もしかすると、人は、こういった〈お約束〉や〈予定調和〉が期待できない状態で淡々とおしゃべりをする人を前にすると、得体のしれない不安感を抱くのではないか、とすら思える(いや、さすがに極端だとは思うが)。

「わたし今から、こういうテンションで、あるいはこういうスタンスで、こういう事柄について、こういうことをしゃべります」というのを、あらかじめ言外に織り込んだうえでしゃべる、ということができないと、「べしゃり」をベースにした動画コンテンツってつくれないのかもしれない。

わたしの活動が、あなたの生活の一助になっているのなら、さいわいです。