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レスラー

またしても人間、それしか撮っていない映画だけれどもその人間たるや。今の時代「USA、USA、USA」というかけ声を背負えるひとつの肉体、ひとつの精神が果たしてあるのだろうか?

ミッキー・ロークが演じるランディ・ロビンソンは、生活のためにスーパーマーケットで働く。同僚には「ロビン」、プライベートの友人には「ランディ」と好意的に呼ばれる。そんな彼の本当の仕事場は、もう一つの売り場であるリングである。控室からリングへと歩くランディの姿は控室から売り場へと歩く姿とは対照的に描かれている。スーパーでスポットライトを浴びるのはそこに並ぶ商品であるけれど、リングの上の商品は自分である。リングに上がると「ロビン」はランディ・“ザ・ラム”・ロビンソンとコールされ、観客には「ラム」と熱狂的に叫ばれる。自分を最高の商品「ラム」へと変えるために、彼は日サロに通い、髪を金髪に染め、ステロイド注射で肉体をつくる。

舞台裏とは、言葉の通り「舞台」の裏であるところの現実そのものなのだろう。「現実」とは、見届けるものにも歩む張本人にも痛くて直視しがたい時がある。売り場へとつづく雑然とした通路は、リアルをフィクションへと変換するために用意される、あわいの空間。リアルであり続けることが難しいのなら、あわよくば、この通路を歩む時間が永遠に続けばいいのに、と思う時がある。でも、社会は舞台か控え室かの二択を迫る。そして、ランディはラムとして死ぬ(生きる)ことを選択する。かつてのライバルとの“再戦”と銘打たれたリングの上で華々しく行われるのは、傷つき、ボロボロだけれども鍛え上げられた美しい肉体、さらには全てのよりどころを今まさに失わんとするその哀しい精神、その両方の自殺である。華やかな自殺、華やかだけれども、果敢なくも深く哀しい自殺。

レスラーという肉体と精神の姿をかりたアメリカ合衆国が、画面のその先に、ぼんやりと見えてくる。

おおいなる幻想の世界、アメリカ。この国は、ランディ同様になんとボロボロで、なんと疲れ切っているのだろう。でも、連呼される「USA、USA、USA」という言葉がかろうじて彼らを奮い立たせている。そして、トウゼン、私自身の国の姿を顧みずにいられない。ボロボロで疲れ切っているのはアメリカかもしれないが、本当のところ病んでいるのはこの日本。同じような資本主義という表舞台に上がる役者のどちらがヒーローでヒールなのかは分からないけれど、役者の目の活力のなさは隠しようがない。目が死んだレスラーにコールを送る客は、いないだろう。

(注)2010年に執筆したものをベースに加筆。画像はIMDbから拝借しました

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