目が覚めたら、担任教師が隣で寝ていた
私は、小学6年生の中盤から不登校になった。
私は幼い頃から容姿が悪く内気な性格で、友達はほとんどいなかったけど、特に大きないじめなどにあっていたわけではなかった。
だから学校を休み始めたときは、大人たちに何度も「どうして学校に行かないのか」と尋ねられたし、親には頬を叩かれたりもした。
「どうして、不登校になったのか」。
それは、20代後半になった今でもうまく説明ができない。
でも、ちょっと振り返って整理してみようと思う。
それから、6年生の時の担任の先生にまつわる思い出についても。
そもそも、小学校なんて入学した当初から嫌いだったし、なんなら幼稚園だって嫌いだった。
容姿や内気さ、要領の悪さのせいでどこに行っても浮いてしまう存在だった私にとって、逃げ場のない空間に閉じ込められてビクビクしながらみんなと同じことを繰り返す日々は、そりゃ普通に苦しかっただろうなぁとは思う。
でもそれを言葉にする術もなかったし、「学校は毎日通うのが当たり前」と刷り込まれていたから、きっと苦しさに対する自覚もあんまりなかった。
それでも、思春期が始まる小学6年生ごろになってようやく、「この抑圧された状態のまま集団の中に居続けたら、自分の輪郭がぼやけてなんかヤバいことになる気がする」みたいな、自分が自分ではなくなるみたいな、漠然とした恐怖のようなものが噴出したんだと思う。
だから、「頭が痛い」と言って学校を休んだ。
本当はしんどいのは体よりも心だったけど、どうしてもそれは言えなかった。
振り返ってみると、「体が悪い」は学校を休む理由として認められるけど、「心が辛い」は認められないし、それに、心のことを言葉にするのは恥ずかしいことだと思っていた気がする。
とにかく「頭が痛い」を毎日言い続けて学校を休み、激昂した親に病院まで引きずられて頭のMRIを撮られ、当然結果は異常なしなのでその理由は使えなくなり、それでも自分の気持ちをうまく言葉にできなくて、私はただ、「行きたくない」と言った。
「学校に、行きたくない」。
それだけでは、周りは納得してくれなかった。
どうして、なんで、学校に行きたくないの?
私は困って、言った。
「担任の先生が怖い」。
でも、これは、嘘ではなかった。
不登校の原因はそれだけではなかったが、でも、私は6年生の時の担任の先生のことが本当に苦手だったから。
6年生のときの担任教師は30代後半から40代前半くらいの女性で、体格が良くて、低い大きな声でいつもハッキリと喋る人だった。
そして、笑うときはしっかり目尻を下げて笑ってくれるけど、でもそれ以上にとにかくイライラしやすくて、すぐに男言葉で怒鳴るので、私はそれが怖かった。
例えば一度、クラスでグループごとに分かれて、折り紙の輪っかを繋げた飾りを大量に作ったことがあった。
それを教室の壁に飾るのは先生の仕事で、それは大変な作業だから先生はイライラしていた。
私たちのグループの飾りには、男子がふざけて作った、黒の輪っかがたくさん混ざっていた。
教室を飾るための輪っかに黒が混ざっているのを見て、先生は思いきり顔を歪めて「なんだこのグループは黒ばっかり使って!いやらしい(感じが悪い)な!」と思いきり怒鳴った。
そういうことは日常茶飯事だったけど、私はその声や、顔や、静まり返る教室の空気が怖くて仕方がなかった。
「いやらしい」という言葉の使い方も、嫌だった。
恨み言ばかりで申し訳ないけれど、もうひとつ。
私は6年生のときに足を怪我して、一時期、松葉杖で登校していた。
そして階段を使うのが大変なので業務用のエレベーターで教室まで向かうのだけど、ある日、エレベーターに乗るために通らなければいけない裏口のシャッターが、数十センチしか開いていないことがあった。
子どもの私でも、かがまなければ通れない。
シャッターの内側にいた先生が、そのシャッターを開けてくれるのだろうと思ったのだけど、先生は「くぐれるでしょ?入ってきて」と真顔で言った。
かがんで隙間をくぐれるなら松葉杖を突いてはいない、と思ったけど、その真顔が恐ろしくて、私は隙間をくぐった。
実際なんとかなったので、別に、先生の言う通りたいしたことではなかったのかもしれないけど。
先生のことを思い出そうとすると、ぎゅっと固い、冷え冷えとした記憶ばかりが蘇る。
悪い人ではなかったはずだし、きっと、してもらったことも多くあるはずなのに。
そう、「してもらったこと」。
不登校になってから、先生が私にしてくれたこと。
不登校が長引くと、だんだんと生活リズムが狂い始め、夜に眠れなくなる。
そうすると当然朝起きられないので、余計に学校に行けなくなる。
私は「もう学校には行かない」と開き直ることができず、「学校に行かなきゃ」「普通の子になるために学校に行きたい」という焦りに次第に苦しめられるようになっていたけれど、それに反するようにどんどん体は正常な時間に眠るのを拒んでいった。
本当は、本心では、もう二度と学校に行きたくなかったのかもしれない。
その日も私は、夕方なのにベッドでぐっすりと眠ってしまっていた。
だけど、ふっと違和感を覚えて目を開けた。
そしたら、満面の笑みをたたえて隣に横たわる先生と、目が合った。
先生は、私の隣で、首までしっかり布団に入った状態でこちらを見ていた。
厚くファンデーションを塗った頬の毛穴の感じや、大きく吊り上がった真っ赤な唇、作ったように下げられた眦を、至近距離で見た。
ものすごい衝撃だった。
学校に来ない私の様子を見に、先生はわざわざ家まで訪ねてきたそうだ。
それを親が部屋に上げ、ベッドにまで入ることを許した。
先生は眠っていた私を「分かっているよ」と言わんばかりの笑顔で見つめ、普段見せるような鬼の形相はかけらも示さず、私を無理にベッドから出すこともしなかった。
ただ呆然とする私に気味が悪いほど優しく何事かを話しかけ、そのまま帰っていった。
それを祖母が追いかけて菓子折りのような物を渡そうとしていた。
先生は断ったらしいけど。
子どもながらに、熟睡している布団に他人、しかも好きではない他人が入ってくるというのは本当に怖いし、恥ずかしいし、びっくりするし、なんというか、屈辱的なものだった。
でも先生に悪気はない。
むしろわざわざ、学校が終わってからの時間を割いてくれた。
でも、じゃあなんで私の心はあんなにも冷え切ってどうしようもなかったんだろう。
どうしてあんなにも、「土足だ」と感じたんだろう。
実際、物理的に足どころか全身で踏み込まれたのだけれど。
私は、この時の一連の出来事に「感謝」をするべきだったのだろうかと、今になって考えてみたりする。
けれどどれだけ考えてみても、私の胸の内に広がるのは「こんなにも当人の心が問答無用で置いてけぼりにされる出来事ってあるのか」という衝撃と、「あのとき、先生はいったいどういう感情だったんだろう」という分からなさだけだ。
あの時、あれをされて私が学校に行く気になると、誰かが思ったのだろうか。
もしかして私以外の全員が、あの出来事で私が「心を入れ替える」とどこかで期待したのだろうか。
それほどまでに、私のしていることは、「悪いこと」なのだろうか。
あの頃、私がもう少し自分の気持ちを言葉にして説明したり、うまく立ち回れる術を持っていたりしたら、少なくとも他人が勝手にベッドに入ってくることはなかったのだろうか。
だけど私はあの出来事を、誰にも「嫌だった」と言うことができなかった。
それは、「学校に行かない」という行動をとった自分を、“加害者”だと思っていたからだと思う。
学校にも行けないだらしない人間だから、人に迷惑をかけているから、親を悲しませているから、周りのほうが正しい。
そう思っていた。
あらかじめ自分でそう思っていないと、きっと心のどこかが、壊れそうだった。
でも私は、「ただ私でいた」だけだ。
「ただ私として惑っていた」だけだ。
けれどそれは許されず、誰かの手を煩わせ、そして、衝撃的な出来事を問答無用で呼び込んだ。
そんな象徴として、あの先生の笑顔は今も私の中に残っている。
あの頃の私にもし会えるとしたら。
「信じられないかもしれないけど、大人になったら意外と、少しはうまく立ち回れるようになるから」
「そして、いま心が傷んでいるってことが、それは恥ずかしくはないんだってことが、少しは理解できるようになるから」
「だから生きよう」
くらいのことは、言ってあげられるかもしれない。
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