刃物専門編集者の憂鬱 その3 「え、オレが伺っていいんすか!?」
こんにちは。「編集者&ライターときどき作家」の服部夏生と申します。
肩書きそのままに、いろいろな仕事をさせていただいているのですが、ちょっと珍しい「刃物専門編集者」としての日々を、あれこれ書いていこうと思います。
* * *
■またまた今度は『USカスタムナイフクロニクル』ってイカした本があるらしいよ。
四半世紀続けてきた「刃物専門編集者」としてのあれこれを書いていくと(勝手に)決めたシリーズだが、今回も、まずは、宣伝をさせていただきたい。
2023/1/30にホビージャパンという出版社から、編集を担当した『USカスタムナイフクロニクル』というムックが出版される。
作家によって作られた一点ものの「カスタムナイフ」の文化の発信源、米国にフォーカスして、マスターピースの数々を作り手たちのプロフィールとともに振り返っていった本である。
米国在住のレポーター、ヒロ·ソガ氏が、長いキャリアで収めてきた写真と文章をメインに、分厚いカスタムナイフ文化の輪郭をなぞるかのような一冊になったと思う。
内容などに関しては、ホビージャパン社のブログサイト『SCREW』でも簡単に紹介してみた。よろしければご一読いただきたい。
■ 無知ゆえの機会喪失を、僕はいくつ重ねてきたのだろう。
さて、今回は、筆者の若かりし頃、縁あって刃物、中でもナイフをメインに扱う専門誌の編集者になってまもない頃の話である。
前口上でも書いたように、その部署に配属されるまで、刃物に興味はまったくなかった。とはいえ社命だから仕方ない。自分なりに努力して刃物について、知識を蓄えていくと決めた。
だが、なかなかにハードルが高かった。
包丁は、どうにか判別がついた。でも、ナイフはからっきしである。
なにしろ、それまでアウトドアにも木工にも剣術にも興味がなかった。ハンティングなんて、マジで、小説や映画の中の出来事だった。ナイフが必要な世界に、まるで交わりがなかったのである。
思えば、そんな時期に贅沢な経験を、幾つもさせていただいた。
ある著名なコレクター氏は、来日中のR.W.ラブレスに引き合わせてくれた。
野球ならベーブ·ルース、ミュージシャンならエルビス、映画俳優ならジョン·ウェインに匹敵する。ナイフに幾分かでも興味を持っている人なら、誰もが知るビッグネームである。
その最晩年、結果的には最後の来日時に、サシで対面できたのである。とてつもない僥倖である。
だが、握手しかしなかった。
体調がすぐれなかったのだろう。不機嫌だったから、という言い訳で納得させていた。でも、そんな状態でも時間を取ってくれていたわけである。妙な遠慮なんてせず、ひとつふたつだけでも質問するべきだった。
一時が万事である。
無知は、機会をむざむざと喪失する点において、大罪である。
■ 東京·月島の刃物鍛治が、僕に見せてくれたもの。
編集者の仕事とは、極言すると人に頭を下げることなのだが、無数に枝分かれする作業のひとつに、企画を考えてページを埋める、というものがある。
割と大事な業務なので、こればかりは、私、新人ですんで、と頭を下げとけばオッケー!! とはならなかった。
厳しくはなかったが、教えてもくれない編集部だった。だから、割り当てられた分は、自分でなんとかしなければならなかった。
薄い知識で作り出した珍記事が、読者の方々から総スカンを喰らったりしていた。これはまずい、どうにかしなければ。焦って、机に積み上げた資料本の背を見ていると、惹きつけられるタイトルがあった。
読みだすと、ページをめくる手が止まらなくなった。
東京·月島で、鑿(のみ)を専門に作っている、鍛冶屋さんの聞き語りだった。
子どもの頃の思い出話、直接買い求めにくる職人たちとのやりとり、先代から引き継がれてきた仕事の理…。読んでいるだけで、情景が目に浮かんでくるような、いきいきとした話に夢中になった。
その鍛冶屋さんは、息子さんと二人で、同じ場所で変わらず仕事を続けているとのことだった。
どうやって訪ねたかは覚えていない。ただ、月島のこまごまとした街並みの中で、道路に面した仕事場に、機械式のハンマーやら金床やらが置かれていて、その中で、親子が仕事している光景や、お二人に話しかけた時の柔らかな物腰と表情を、まるで昨日のことのように、鮮やかに思い浮かべることができる。
鉄を赤めて、叩いて、冷まして、という作業を繰り返して、作り出された刃物の数々は、綺麗だった。そのような刃物を作り出す鍛冶屋は、ものすごく格好良い、と思った。
話した内容も、全然覚えていない。
ただ、夜遅くに会社に戻って、その時のやり取りをワープロ(懐かしい)にカタカタと記録していたら、別部署の校了真っ最中の同期が、「記事にするわけでもないのに、なんでそんな一所懸命に書いてんの。早く帰んなよ」と、呆れたように言ってきたのは覚えている。
わかってる、わかってる、と相槌を打ちながら、僕はキーボードを叩き続けて、笑っていた。ようやく、記事にしたいことが見つかった、という確信を得たからだ。
話は脇道に逸れるが、イチローは、僕と同郷で同い年で、幼い頃に同じ野球チームを応援し、同じ野球選手のファンになった存在であり、会ったこともないのだが、親近感とライバル心をずっと勝手に持ち続けている。
そんなイチローがかつて、「バッティングの極意を掴んだ」打席があったこと、それがなんてことのないセカンドゴロだったけど、自分だけは嬉しくて笑いながら走った、と語っていた。
天と地の差があることは百どころか千も万も承知だが、ワープロに向かっているその夜の僕も、根っこの部分では、イチローのそれと全く同じ思いを抱いていたのである。
■ メソッドとセオリーの先にあるわずかな揺らぎ。
ナイフを中心にしている雑誌で、企画を通すのは、ちょっとだけ苦労したような気もするが、とにかく「大工道具」を紹介する連載が始まった。編集者はできれば文章を書かない方がいい、というのが僕の持論だが、こればかりは自分で書くこと以外の選択肢が考えられなかった。
鍛冶屋さんたちのお話を伺うことが、面白くて仕方がなかったからである。
ご存知の方も多いと思うが、鍛造刃物の製法は、ほぼメソッドが確立している。そして、鑿や鉋(かんな)、小刀といった大工道具の形状は、ほぼセオリーが確立している。
だが、どれだけ定石を積み重ねていっても、作り手が変われば、製法にもデザインにも「違い」が出てくる。その、ごくわずかな「揺らぎ」のような部分にフォーカスを当てて、丁寧にお伺いして、作り手の「個性」を見出すことが楽しかった。
面倒な若造だったと思うが、各地の鍛冶屋さんたちも、気持ちよく協力してくださった。
初めての方にお話を伺うときの「基準」は明確だった。
最初に会った月島の鍛冶屋。つまり、左久作(ひだりひささく)のお二人である。
製法やデザイン、考え方。彼らと比べてどこが違って、それにはどんな意味があるのか。
上手下手でも、高い安いでもない、独自の価値基準を持っていると、刃物も、職人も、見え方がまるで変わってきた。
当時の連載は『打刃物職人』という本にまとまっている。
現在は、手に入りにくくなっているが、もし機会があればお読みいただければ幸いである。
ご登場いただいた鍛冶屋さんたちは、どなたも名工であり、今ではお会いできない方もいらっしゃる。物書きとしての自分、編集者としての自分、いずれも未熟だが、それを差し引いても、日本の刃物文化の貴重な記録たり得ると思う。
■ 分からないものはそのままにする、という覚悟。
自分は「刃物」を通して、作り手と使い手のことを書きたい。
続けていくうちに、自分がやりたいことがはっきりしてきた。
作り手でも良き使い手でもない僕は、道具としての刃物の、本当に奥底の「機微」を理解し得ない、という諦観もあった。
だったら、そこは書かないで、そのままにしておこう。
そう覚悟を決めた。僕が描き出したいことは、ごく限られた人のみが到達できるポイントとは、ちょっと別のところにある。機微に触れずとも、自分が理解し得る部分にフォーカスして、そこから滲み出てくる「人」のありようを描けば、必ず、興味を持ってくださる方がいる、という、根拠こそないが、確信めいたものもあった。
要するに、理屈をこねるのはやめて「好きか嫌いか」を、刃物を見るときの基準にしたのである。
作品が、いいな、と思ったら、自然にその作り手や、ゆかりの深い人に会いたくなる。そうしたら、然るべき手続きを踏んで、お会いして、話を聞き、記事として紹介する。
シンプルな作業を繰り返していくことで、「嫌い」と思ったものの中に、自分の目が追いつかずにその良さに気づいていないものがあることも、次第にわかってきた。
ナイフのこともよく見えるようになってきた。
そして、刃物の世界って面白いな、と思えるようになった。
ラブレス、シェフィールド、千代鶴是秀、無監査の刀匠…。素晴らしい作品の数々を目にすることができた。「感じ」がわかると、刃物以外の分野の「いいもの」を見ることも楽しくて仕方がなくなってきた。
見て触ることで、自分の中の価値判断や定義は目まぐるしく更新されていった。
でも、それら全ての「基準」は、左久作の作品であることだけは、変わりなかった。
その親切さに甘えて、折に触れて、取材をさせていただいた。意欲のある部下を、喜幸さんのもとに送り込んで、記事を作らさせていただいたこともある。
左久作のお二人は、どんな時も、快く受け入れてくださった。
詳細な事情は、いつか書きたいなと思っているが、僕が私淑することになる、ある方にお声がけいただいて、「技のココロ」というシリーズで、(ペンネームで)左久作のことを書かせていただいたこともある。
三代目の池上喜幸さんの、子ども時代から続く「職人」としての日々の話を中心に据えながら、東京の大工道具鍛冶の姿を描いた。
ものすごく個人的なことを書けば、このシリーズを執筆する機会を得たことで、僕は物書きとしてやっていく決意を固めたのだが、そんなことはさておき、実に貴重な職人話が、全編にきらぼしのごとく散りばめられている。「職人」「江戸」「伝統」といったキーワードに興味のある方は、お時間ある際にぜひ、読んでいただければと思う。
■ 僕にとっての全ての刃物とその作り手の「基準」。
何ヶ月かに渡った「技のココロ」の取材時に、チーム全員で、左久作の切り出しを購入した。
わーすごいすごいと、ひとしきり騒いでから、お暇する時に、喜幸さんから「服部さん、ちょっと」と、声がかかった。
「娘さんいらっしゃるでしょ。彼女が成人した時に、渡してもらいたいものがあるんですよ」
日を改めて訪問して、渡された桐箱の中には、切り出しが入っていた。そこには、タガネで僕の娘の名前が刻まれていた。
「よかったら、これも一緒に渡してください」
と添えられたのは、娘に宛てた長い手紙だった。
何が書いてあるかは、あと数年で成人した際に、娘に読んでもらうしか中身を知る術はない。
その日が来るまで、喜幸さんの思いが込められたこれらを大切に保管することだけが、今の僕にできることである。
今回、メンテナンスも兼ねて、久しぶりに、その切り出しを取り出して眺めてみた。
端正なシルエットに、波模様の入った地金。鋼と地金の鍛接部分はぴたりと合わさり、鍛接剤の粒などは微塵も見当たらない。一見すると、そっけない姿だが、少し目を凝らせば、高い技術と粋な感性が、隅々にまで詰め込まれている。
ね、いい刃物でしょ。
喜幸さんは、お伺いすると、必ず「自信作」を見せてくれた。へえーと言いながらしばらく眺めてから顔を上げると、これまた必ずそう言った。
お店に卸さず、ほぼ口コミのオーダーメイドだけでやってきた方々である。昔も今も、使い手に頼まれたら、自分たちができる一番いいものを根詰めて作ることのみ
で、信頼を得てきた「誂え鍛冶」である。その看板のもとで、子どもの頃から、父のみならず顧客からも、心構えを教えられてきた三代目が、いい出来だという自負を表明する場面は、ごくごく限定的である。
そんなことが分かっているから、喜幸さんが、照れを多分に含んだ声色で、語りかけてくれることが、たまらなく嬉しかった。
当時の記憶を蘇らせつつ、江戸から続く鍛治の、品のいい仕事を見て、いっとう最初に、左久作と出会えたことの僥倖を、改めて噛み締めた。
この「仕事」を見ることができたから、どんな刃物の名作に出会っても、臆することなく、手に取り、自分の基準で見ることができたのである。
ものづくりにおいて、いわゆる「本物」に出会うことは、マストではない。人に聞かれたら、そう言うようにしている。「本物を見ろ」論を、狭小な価値観しかないくせに振りかざす人たち(結構多いと思うんだよね)に辟易して、そうじゃないんだよ、と言いたい自分がいるからだ。
その言葉に偽りはない。自己の中の美意識を繰り返し磨き上げていくことで、人を感動せしめるものを作り出すことは、できるはずだ。
だが、もし「いいもの」に出会えたら、見える景色が、「以前」とは、ちょっとだけ違ってくる。それもまた、間違いのないことだ。多分。
二代目であり父でもあった喬庸さんが逝去されてから、喜幸さんは一人、左久作の看板を守り続けている。
そんな喜幸さんに、随分、お会いしていない。フリーランスになった際に、エールを送っていただいた時も、電話でお話ししただけである。
今度、上京したら、お会いしに行ってみたいな。月島の仕事場で、最初にお会いした時と変わらない笑顔を拝見して、積もる話をしながら、令和の「自信作」を見せていただきたいな。
春から、娘が進学で親元を離れることが決まった今、僕は、そんなことを考えている。
■イカしたナイフの本、もう一冊、出版だってよ。
最後にもう一回、宣伝させていただきたい。
3月23日(発売日が当初から少し変更になった)に『日本のカスタムナイフ』というムックが発売される予定だ。
その名の通り、日本のカスタムナイフを中心に紹介した一冊だ。毎年この時期に出版してきた『ナイフダイジェスト』のタイトルを、今年はちょっと変えて、内容をより純化させたものである。
現在、取材真っ最中だが、「え!! あの人が!?」という方々にも、ご登場いただき、コクのあるお話と素晴らしい作品を紹介させていただく運びとなっている。
ぜひ、楽しみにお待ちいただければ、と思う次第である。
(注:リンク先は2022年版の『ナイフダイジェスト 2022』です)
詳細が決まり次第、また紹介させていただきたい。
最後のそのまた最後に『USカスタムナイフクロニクル』について、もうひとつ。
今回もまた、責了日、要するに締め切りの日にちを、一日間違えていたことに、その三日前、プロデューサー氏に「念のため、ご確認です」とメンションされて気づいた時には、マジで焦った。仕事部屋で、パブリックエネミーの『Fight The Power』を大音量で流し、壁掛け時計を振り回しながら、踊り狂って乗り切った次第である。
サポートをしていただきましたら、今後の記事作成のに活用させていただきます!