刃物専門編集者の憂鬱 その4 「え、オレが書いていいんすか!?」
こんにちは。「編集者&ライターときどき作家」の服部夏生と申します。
肩書きそのままに、いろいろな仕事をさせていただいているのですが、ちょっと珍しい「刃物専門編集者」としての日々を、あれこれ書いていこうと思います。
* * *
■『日本のカスタムナイフ』ってイカした本があるらしいよ。
随分、間が空いてしまった。
2023年の3月23日にホビージャパンという出版社から、編集を担当した『日本のカスタムナイフ』というムックが出版された。
作家によって作られた1点もののナイフ、カスタムナイフの数々。
そして、世界的な評価を得ている大家に、実績十分な実力者、意欲作を世に送り出す新鋭といった作り手たち。
これらを一堂に紹介していく、というタイトル通りのシンプルなテーマの本である。
内容などに関しては、ホビージャパン社のブログサイト『SCREW』でも簡単に紹介しておいた。よろしければご一読いただきたい。
ありがたいことに、好評をいただいているようで、読んでくださった方々、ご協力いただいた方々に、感謝している次第である。
■憧れの英国貴族文化の結晶を、手に取れることの幸福。
この本の巻頭特集に登場いただいた古川四郎さんは、僕にとって特別な人物である。
最初に知ったのは、新入社員として刃物専門誌に配属されて、しばらくしてからだった。
刃物に関して何も知らないところから、本を読んだり人に話を聞いたりして、少しずつ知識を得ていく過程で、どうやら、古川四郎という作家がすごいらしいとわかってきたのである。
要するに、彼は、ナイフ作家の代表的な存在として広く知られる人物だった。
とはいえ、何がすごいのか、よくわかっていなかった。
特別なオーダーで作ったワーンクリフというデザインの多徳、雑誌の企画で作っていただいた羽ペンの軸を削るためのクイルナイフ…。
どれも素晴らしかった。一見した時のデザイン、手にした時の感触、ブレードを開け閉めする時のアクション、ディテールのデザイン。いずれの部分も破綻なくまとめられている。
素人にだって、わかる見事さだった。
ただ、そのクオリティの高さは、自分がそれまで培ってきた価値基準を遥かにはみ出したものだった。
心の琴線に触れる、すごさ、の中身を、僕は説明できなかった。
要するに理解できていないのである。
手強いと感じたときは、とりあえずその対象から身を引く。
全貌がわからない相手へのドン・キホーテ的突進を「無謀」と断じることで、僕はここまでの人生をどうにか全うしてきた。
古川さんの作品はまさに、そんな手に負えない存在だったから、あまり深く考えずに、放っておいた方が良さそうだった。
だが頭ではわかっていても、突進せずにはいられない「何か」があった。
仕方ない、ひとまず、自分の好きなところから、幾分かでも引っ掛かりを作ろう、と考えた。
古川さんは、あらゆるジャンルのナイフも作ってきているが、中でもひときわ高く評価されているのが「ポケットナイフ」だ。
それも、英国の貴族文化にのっとった正統中の正統のデザインと装飾である。
かつて英国は世界に冠たる工業大国として君臨してきた。
18世紀後半の産業革命が、生産力の向上に多大に影響した。
それ以前から欧米文化を牽引してきた貴族文化のハイセンスぶりに、近代のテクノロジーが加わった。
技と心が高い次元で融合した結果、往時の英国からは、素晴らしい製品が生み出されてきたのである。
往時の英国製のポケットナイフは、彼の国の黄金時代の結晶とも言える存在である。
特に、シェフィールドという刃物製造の盛んな街でつくられたハイエンドモデルの持つ精緻さと贅沢さ、デザインの素晴らしさは、ため息をつくしかない。
古川さんは、シェフィールドの最後のナイフ職人と言われた人物の元を訪れて、失われる寸前の技術を教わっている、世界でも稀有な人物でもある。その作品は、まさに、英国の貴族文化の伝統にのっとった作品と言って差し支えないだろう。
格好いいじゃないか。
それらは、英文学なるものを大学で学んでいた僕にとって、小説や戯曲で読み、憧れながら想像してきた世界を具現化した作品でもあった。
OK、ここをとっかかりにしよう。
そう考えて、シェフィールドナイフに関する記事をつくることにした。
初めて担当させてもらった巻頭の特集だったはずである。
だから、ものすごく気合を入れて作ったことは覚えている。
そして、煙を吐くくらいにやる気を空回りさせた結果、イマイチの出来に終わったことも覚えている。
もちろん、古川四郎さんにもインタビューした。
何を聞いたかも忘れてしまったし、どんな記事だったかも完全に忘れている。
だが、ひとつ、強烈に覚えていることがある。
■この作家がつくるものはいいものだ、と得心した瞬間。
校了間際のことだった。
古川さんのインタビュー記事の中で、シェフィールドについて語った一節が、信頼できる文献を調べると、どうやら間違っているようだと気づいた。
どんな間違いかもう忘れた。
その程度の、枝葉末節の部分だったことは確かだ。
しかも、電話して確かめるには、ちょっと遅すぎる時間帯だった。
大筋に影響しない部分なんだから、併記や注釈を入れることで対応すればいい。
地の文(インタビュー記事において、発言パートではなく書き手が書いたパートのこと)だったから、文献の方を優先させて修正しておき、後から理由とともに古川さんに伝える、という手を使うこともできなくはない。
今だったら、そこらへんの対応を取るだろう。
だが、当時の僕は、間違いは絶対に正さねばならぬ、取材先の人たちだってそうに違いない、故にどんな遅くても連絡してOK、と頑なに信じていた。
揺るがぬ信念にしたがって、躊躇なく電話のプッシュボタンを押した。
「どうしました?」
やや怪訝そうに電話に出た古川さんに、僕は、記事の件で、文献にあたったのですが、ここ違うような気がするんです、と(多分)ものすごい早口で伝えた。
「その本、うちにもあるよ。何ページ?」
古川さんは、静かに答えた。ページ数を告げると、古川さんは、パートナーのメイさんを呼んで、
「調べてもらうので、ちょっと待っていてね」
と電話を保留にした。
そこではじめて、僕は、古川夫妻にえらく迷惑をかけていることに気づいた。
気まずさで永遠にも感じるような数分間ののち、古川さんは再び電話に出た。
「確かに、そこは直した方がいいみたいだね」
無礼を詫びようとこちらが声を出すより前に、こだわりのない声で、氏は僕にそう告げた。
どうやって礼を言って電話を切ったか忘れた。
でも、ゲラに赤字を入れて、写植屋さんに修正してもらって、版下を作成してもらい、色校に「文字修正あり」のスタンプを押して、上司に責了の赤文字を入れてもらって、責了紙と版下をセットにして、印刷所が手配したバイク便に引き取ってもらう、という、やたら手間のかかる作業を1時間くらいで済ませて(今の三倍くらい手間も時間もかかっていた)、校了したはずである。
それだけのやり取りだったが、僕は、その時から、古川さんのものづくりの姿勢を信頼しているし、その作品を至高のものとして記憶したのである。
■自己模倣に陥らずに、挑戦を続けることの凄み。
それから何十年かが経った。
折に触れて、作品は拝見していたし、取材でお伺いしたこともあったが、数年に一度という頻度だった。
それでも、僕が出版社を辞めた時に、古川さんは電話をかけてきてくれて、「大丈夫かい?」と、書く仕事のご提案をしてくれた。
当時の僕は思うところがあって、会社に辞表を提出してから退社するまでの半年以上の間、独立後に向けた営業活動を一切しなかった。
ゆえに独立した時には、マジで仕事がなかった。
根拠のない「大丈夫だろ」という思いがあったけれど、正直、不安だった。
だから、その心遣いがとても、とても嬉しかったことを覚えている。
だが、ここで書きたいのは、そういった義理と人情ではない。
特に独立してからは、恩義なんて、実にさまざまな方から受けているわけだし、しかもその内容に優劣なんてつけられない。
「やっぱりすごいな」
フリーランスになってから、古川さんにお会いしたり、作品を拝見すると、毎回そう感じた。
何度も何度も言い訳として書いてきて、自虐芸と化している感もあるが、ここまで時間を費やしても、刃物における使いやすいデザインとか制作上のポイントといった本質は、あまりよくわかっていないことは、自認している。
ただ、心の琴線に触れる、すごさは、ぼんやり見えてきた気がした。
古川さんの新作には、必ず「挑戦」が込められていたのである。
詳細は、本を読んでいただきたいのだが、オーダーメイドのコンバットナイフや、金属製のハンドル材のポケットナイフは、過去の作品を知った上で、現代の要望にどう応えるか、という氏の明確な意思が存在していた。
僕が、すごい、話を聞きたい、と思ったのは、すでに後世に残るマスターピースを作っているにもかかわらず、新しいものを作ろうとしている姿勢に感銘を受けたからである。
どんなに優れた作家でも、誰からも認められるものを作ってからは、一様に苦労する。
当たり前だが、その「頂点」に類するものを、周りは求め続ける。
新しい何かを作り出したところで、なかなか受け入れてもらえない。
自己模倣を繰り返さざるを得なくなった作家の、晩年の劣化した作品を目にして、仕方ないよなと思いつつ、残念に感じたことは、何度だってある(一応、書いておくが、今、僕の頭の中で想起しているのは、ある画家とミュージシャンのことである)。
古川さんに限っては、そんな残念さを感じることはない。
もちろん、新たな試みが時代を超えて人々に引き継がれていくメソッドやデザインとなるかどうかは、後世の人たちが決めることだ。
だが、現代に生きる僕にとって、古川さんの立ち止まらない姿勢は、どこまでも魅力的なものと感じられた。
最初に出会った時から、最初にお話を伺った時から、全然変わらない、ものづくりへの情熱。
その根底にある思い、についてだったら、僕なりに、皆さんにお伝えできるかもしれない。
「やれるんかいお前?」
飛龍革命の際、藤波辰巳にビンタを喰らわせながらそう言ってのけたアントニオ猪木ばりに自分に喝を入れて、記事をつくることにした次第である。
■「だって全然満足してないもん、ストーンズじゃないけどさ」
古川さんのみならず、メイさん、氏の長年にわたる盟友である岩﨑琢也さんをはじめとする方々にも、快く協力していただけたので、僕の薄い実力でも、皆様にご覧いただけるくらいの特集にはなったかな、と思う。
だが、本当は、もっともっと後につくるつもりだった。
僕は、古川さんの作品を持っていない。
やっぱり、1点くらいはオーダーメイドの作品を持ってから記事にした方が、いいんじゃないかなと考えていたのである。
だが、何をオーダーするか考えているだけで、どんどん時間が過ぎていく。
泰然としている場合ではない、と考えて記事にしたわけであるが、課題は残っている。
本ができた後、あるパーティーで古川夫妻にお会いする機会があった。
「記事、ありがとうね」
「こちらこそです。最後の部分、『こんな感じどう?』って、ご提案も、ありがとうございました」
「いえいえ。ていうか、俺本当、まだ全然満足してないって思ってるからさ」
「で、あのー、個人でやっているコラムにも、本で書ききれなかったこと、書いていいすか?」
「いーよ」
古川さんは、カジュアルにそう応えると、他の人たちに声をかけられた。
久しぶりに会う方々と聞いていたし、それ以上、あれこれ質問するのは、躊躇われた。
「あの、」
意を決して、僕は、横に座っているメイさんに問うた。
「なあに?」
「四郎さんに本気でナイフをオーダーしたら、受けてもらえますかね」
「大丈夫だと思うわよ。どんなモデルが欲しいか、大将に直接、伝えてもらえたら」
メイさんは、いつも通りの柔らかな笑顔で、そう言ってくれた。
どんなナイフを頼もうか、僕はそれからずっと考え続けている。
シンプルなワンブレードで、でも、身の回りのものをそれに合わさざるを得ないような圧倒的な存在感のあるモデル…。
思いはあちらこちらに散乱し千々に乱れて、少しずつ、一点に集約してきている。
オーダーして、待って、手にして、使ってみて、その先にあるもの。
そう、僕だって、まだまだ、ぜんっぜん、書き足りていないのである。
■Take Five カバーしたことあるけど、5拍子は難しいすよ。
最後に。
古川さんの話で、羨ましく思ったのが、若い頃の音楽遍歴。
故郷が佐世保、実家が楽器店という(ものすごく)恵まれた環境で、洋楽を当たり前のように聴いて育ったんだそう。
ビル・ヘイリーの ”Rock Around The Clock” がイカしていた(ちなみにリリースされたのは古川さんが4歳の時である)、ローリングストーンズもクールだった(代表曲の一つ "(I Can't Get No) Satisfaction" がリリースされたのは、バンドが初米国ツアーを敢行した翌年、同氏15歳の時である)、そして、R.W.ラブレスの工房での作業中には、デイヴ・ブルーベック・カルテットの”Take Five” を口笛で吹いていた…。
なんていうか、かなわねえな、と思わされるレパートリーである。
そして、ストーンズこそ、年を経ても、新しいことにもちゃんと挑戦しつつ、色褪せないゴキゲンな音楽を世に送り出し続けるレジェンドであることに気付かされるのである。
(扉写真撮影:小林 拓)