刃物専門編集者の憂鬱 その29 「NEMOTO KNIVES 寸評大会'24 大賞ひとり選考会」
こんにちは。「編集者&ライターときどき作家」の服部夏生と申します。
肩書きそのままに、いろいろな仕事をさせていただいているのですが、ちょっと珍しい「刃物専門編集者」としての日々を、あれこれ書いていこうと思います。
はじまりはX
なんとも楽しい企画がはじまった。
きっかけはXでのやり取りだった。
僕が、今年(2024年)のJKGナイフコンテストの審査で書いた寸評に対して、応募してくださった方のひとりが、より詳しい説明を求めてこられた。
それ自体は、当方の説明不足ゆえに起こったことで、X上で公開でやりとりをさせていただいて無事に終わったのだが、そのポストにナイフ作家として圧倒的な実績を持っている根本朋之さんが、コメントを寄せてくれたのだ。
そこからやりとりが始まった。
JKGのコンテストでもさまざまに奔走したマトリックス・アイダの相田東紀さんも加わって「カスタムナイフの世界でも批評が盛んになったらいいですねー」的な話になった。
良かったな、いい話できたな、と思っていたら、根本さんはさらに先へ行った。
お、おう。すごい、と思っていたら、こんなポストが投稿された。
OK余裕、未来は俺等の手の中、である。
光栄至極。
knottsこと服部夏生、全身全霊でやらせていただきます。
ということで、始まりました。
NEMOTO KNIVES寸評大会 大賞選考会 !!!!!!!
選考基準だけ先に書いておきます (ちょっと長いです)
それにしても、僕も論評(=寸評:以下同)しようとしてはたと気づいたけど、今回の根本さんのポストは(いい意味で)すっごく意地悪。
画像のナイフを論評せよ。
1.作品考察
2.いい点
3.悪い点
設問形式になっている。
ともすると、試験の答案みたく「正解」を書こうとしちゃう。
論評はマルバツで判定できないものを、文章化するものなのに……
まあ、2はいい。書ける。
でも、1って誰に向けて、何を書くの?
しかも3。ネガティブな意見書くのか、、、しんど。
批判って、その批判に疑問を呈されたり反論された場合に、返事しないといけない。
作者だけじゃない。
不特定多数の人たちからだってきます。
そこらへんの覚悟ができてないと、僕のようなヘタレな文章になります。
今回これ以下は絶対あり得ませんから、ご安心ください。
◆
●基準その1:設問1に関して、論評する人の視点が、誰が読んでも理解できるように書かれているか
●基準その2:設問3に関して、建設的な議論を引き起こせるような内容か
◆
まず、このふたつを大きな基準にして、拝見させていただきました。
あと「誰に向けて書いているか」にも注目しました。
論評(=批評とかに置き換えていただいてもOKです)ってちょっと特殊な文章で、書く上で、ふたつターゲットとなる人たちがいるんです。
*論評の対象(この場合はナイフを作った根本さん)
*論評を読む人たち
双方に向けて書く以上、書くべきテーマも大まかに言うと、ふたつあります。
*作者が、よりよい作品をつくっていく後押しになるように
*論評を読む人たちに作品(この場合はナイフ)と作品の属する世界の魅力が伝わるように
僕は作者ではないし、読む人ではあるけど、好きの度合いとかクラスタの違いを考えれば、いずれも正確に理解できません。
あくまで想像です。
ただ、究極のゴールは「業界の発展のため」にはなるでしょう。
◆
●基準その3:上記のターゲッティングとテーマが含まれつつ、「ナイフの世界がますます発展繁栄する」ような内容になっているか
◆
これをもう一つの基準にして読ませていただきました。
ようやく始めます。って、みなさん、論評上手だよ!!!
ひとつずつ拝見していきました。
みなさん、論評上手だよ!!!
嫉妬する。まじで。
中でも特に気になったものを上げていきます。
◆
どちらの方も「個」を出しながら、詳細な観察を経て的確に評しています。
自分にとってはどんなナイフか論じる、が徹底されていることで、逆に一般性を出しています。
特に3。「私は手が大きいので」「私は握力弱いから」って個人的な情報がさりげなく入る。
ここ、個を出すと「自分違うし」と読者が興味を失うのでは、と躊躇する人も多いと思うんです。
もちろん共感は大事です。
手が大きい、握力が弱いと思っている方は、その時点で興味を持つと思います。
でもね、読む人って、むしろ「異和」を感じないと、「じゃあ自分だったら」と、本気で「想像」を始めないんです。
お二方の上手なのは「わりかし身近な違い」を、フックにしたところ。
自分の手、違うし。でも、どんな感じだろ、と自らの手を眺めた読者は、今度はこのナイフは自分にとってどんな存在になるだろう、という想像をはじめます。
その瞬間、「ナイフ」というアイテムの居場所が、心の中にできる。
「あれ、自分、このナイフ、興味出てきた」
「まあ待て、他のも見てみようじゃないか」
脳内会議がはじまります。
ほら、論評の役目、果たしていますよね。
公に出す文章には「自分」を出すのはなるたけ控えろ的な話、ありますけど、あれ嘘ですからね。
んなもん、気にせんでいいんです。
論評だろうがなんだろうが、文章は一度自分のフィルターを通して外に出されたものなので、書かれた時点で否応なく個が出てきてますから。
だから国語辞典だって仔細に見ていけば、つくり手の思いがにじみ出てきたりするんです。
◆
個人的に存じ上げている方ですが、あえて知らない体でいきます。
こちらは「専門家」というスタンスを明確にして好論評となっている例。
まず、専門的な言葉を最小限に抑えながらも、刃物に関するプロであることが読み取れる文章ですね。
プロの視点で「刃物としての使いやすさ」を褒め、「ブランディングの必要性」を、プロの作者に向けて、対等な視点から指摘する。
カッコいい。
でも、それだけだったら、飲み屋の会話です。
最初こそ周りが耳目をそば立てるんだけど、そのうちくだらない昔の自慢話になってくやつ。ぐだぐだ。
じゃなくて、この文章がすごいのは、プロじゃない人が読んでも理解できる内容に絞っているところ。
なんか、自分でも語れそうでしょ。ブランディング。
飲み屋で楽しそうに話してたら、ちょっと加わってみたいでしょ。
え、すげえプロの会話が理解できる。仲間入りしたい!! と感じさせる(少なくとも僕はそう思った)文章を書く能力。
テクニックでもできるけど、それ以上に才能です。
ずるい。
論評として作者に向ける体を取りながら、初めてナイフに触れる人にまで興味を持ってもらうための仕掛けを忍ばせた名コピー。
巧妙。でも、ナイフへの愛と知識がたっぷり入ってます。
誰だか知らんけど。
◆
上記の2つのパターンのハイブリッド的な論評。
まず「コレクター」としての立場を明確にしつつ、「オーダーしたい」けど「使い手を選ぶ」と、ごく私的な視点から評価しています。
これだけで、読み手の想像を刺激する良論評です。
さらに素晴らしいと感じたのが、冒頭の作品考察。
コレクターならではの的確な視点で、デザインの妙と持ちやすさという「知っている人」じゃないと分析できない要素を平易な言葉で紹介している。
実物見る前に、これ、いいナイフじゃん!! ってわかるんです。
こんな経験、みなさんありません?
文字だけ、あるいは文字と絵だけの情報で、どんなものだろうって実物を想像して、いつの間にかそれが、とてつもなくイカしたものになっていったこと。
僕にとってはそれが『ぐりとぐら』のホットケーキだったりするんですけど。
ともあれ、文字だけで、ここまで正確に描写されていると、実際に手に取った時の「齟齬」も少ない。
だから読み手はどれだけ想像の翼を広げてもOK。
実物はそれ以上にイカしたものになります。
まあNEMOTO KNIVESクオリティなら、どれだけ期待しても大丈夫だろう、というのもありますが。
あと、本人じゃないとわからないけど、これ、第三者的に読んで、作者めっちゃ嬉しいはずですよ。
ここまで作品を理解してくれて、なおかつ手に入れたいなーと言ってくれてるんだもん。
作品の魅力を的確に自分の言葉で語れる。
文字数たったの18。
これができると、読者の興味を最大限に引き上げ、作者のモチベーションを高めるなんてミラクルができるようになるんです。
◆
この方も個人的に存じ上げていますが、知らない体で。
上記の論者たちに対して、こちらは個やアイデンティティをできるだけ排除した上で、一般性の高い論評にしようという試みをなさっている。
そして、ちゃんと成功しています。
デザインは唯一無二、加工技術も上々、ただ使用を考えるといくつか疑問符が残る。
非常に明瞭にポイントが整理されている。
論点がスッキリしているから、もし作者が議論を望めば、双方冷静かつ論理的に展開できますよ。
もしラリーが始まって、なんらかの着地点が見つかったら、作者にとってもそれを見守っていた読者たちも「知見」が深まりますよね。
建設的な議論が多く行われている業界は、排他とは無縁です。
だから人が集まるし、知見も積み重なって、文化としての厚みも出てきます。
論評とそれに伴う議論って、外の世界に向けた業界からのメッセージになる。
それを知ってて書いているであろう論者。
きっと賢い人だと思いますよ。もしナイフ作ってるんだったら見てみたいな。
誰だか知らんけど。
◆
こちらの方は、刃物づくりに非常に近接したお仕事をされているのではと推察します。
お話の一つひとつが、端的で具体的。
デザインの意図を推測して、その格好良さに敬意を払い、取り回しの難しさについて言及する。
それだけで終わらないのが、プロのつくり手たるところ。
「自分ならこうする」と、画像までつけているんです。
こうなると僕のような読者は、もうついていけないです。へえ、と見てるだけ。
先ほどのブランディングとは違うプロのやりとりです。
でも、これも、ぜんっぜん嫌じゃない。
敬意がベースにあって嫌味がないから、むしろ楽しい。
多分、昔話にもならんでしょ。こういう人たちだったらという安心感もある。
ていうか、この論評に対する、根本さんの返答もまたいいんですよ。
プロを自認している方々は、初心者に忖度なんてしなくたって、いいんです。
もちろんしてくれても嬉しいです。でもしなくても、いいです。
僕のような素人は、その世界の奥深さに感嘆し、作者と論評者の敬意がベースにあるやりとりを一所懸命、読むだけです。
で、わからないところは自分で調べて、試して、理解していく。
そうやって憧れの世界に近づいていくのもまた、楽しいことだと思います。
◆
こちらの方は、いわゆるエンターテインメントを創出する側のプロと推察します。
で、文章がうまい。めちゃくちゃ。
惹き込まれる。
良かったら声に出して読んでみてください。わかると思います。
単語選びと、文章の区切り方の強弱、体言止めの使い方。
どれもが絶妙なんです。
その特有のリズムに乗っているうちに、いつの間にか論者の描く世界の中に入り込みます。
そしてナイフを使用している場面が目の前に広がります。
あ、そうか、だからハンドルは短い方がいいし、ブレードはこの大きさが必要なんだな。
いつの間にか手に汗握っちゃってます。
文章力だけでなく、実際にナイフを何らかの方法で「使ってきた」方だから書けるんですよね。
そして、悪い点の紹介が秀逸。
脳内に喋っている人が浮かんできませんか。
これは、使い手と用途を選ぶナイフなんだってことを、クールに言い切る。
これ、論評を超えちゃってるんです。
論者の考える、このナイフが最も活きるシチュエーションを描いた短編映画、そのシナリオなんです。
脳裏に浮かぶ映像って、本物の映像と違って読み手の解釈を加える余白がある。
ナイフだって、使い方の余白が大きな道具です。
僕たちの創造性が問われます。
で、あんた、どう撮るの? この短い文章は僕たちに問いかけてきます。
そして僕たちはナイフからも問いかけられていたことに気づきます。
で、どう使うの?
試しているつもりがいつの間にか試されていたことに気づかされる爽快感。
素晴らしい文章を読ませていただいて、ただ、感謝です。
◆
で、今回、脱帽させられた論評はこれです。
作品考察で物語の導入つくっちゃうんだもんねえ。
しかもめっちゃ想像が沸いてくる。
僕、神社、目に浮かんでますもん。
神主もいるし。
なんならふらりと過疎地にやってきた謎の美女もいるし、竹中直人な村の巡査もいるし、意地のわるーい集落の長もいるし、地域おこしで有象無象な輩たちが寄ってきているし……。
そこにこの宝刀があるんですよ。しかも、主人公はワイ。
もうワクワクもんじゃないですか。
作者も嬉しいんじゃないかな。自分の作品が物語のキーアイテムになるんだもの。
や、実際ね、今回の根本ナイフが「発見された宝刀」なのか、神主がオーダーした「宝刀のレプリカ」なのか、が分からないし(どっちでも面白いけど)、箇条書きになっているから論評としては、ちょっとだけ読みにくい、ですよ。
けど、そんなん枝葉末節。と思える楽しさです。
2、3も秀逸。
作家性、すっぽ抜けという誰もがわかる要素に、ある程度好きな人じゃないと注目しないであろう要素を組み合わせて、幅広い層へ響く「説得力」を獲得しています。
このナイフは、いいものなんだな。
しかもちゃんと使える道具なんだな。
そして想像の世界へ連れて行ってくれるアイテムなんだな。
これって、初めての人にも、ナイフの世界の楽しさを過不足なく、紹介していると思いませんか?
僕はそう思います。
その一点だけ取り上げても、すごい。
よって大賞は「連射式スペツナズナイフ」さんに差し上げます。
よっ、初代寸評王!!
賞品、何にしましょうかね? ちょっと考えないとですね。
長い長いあとがき
ここで取り上げさせていただいた方たちに限りません。
全員、素晴らしかったです。
だって愛があるもの。
結局、論評を支えるものは、今回で言えばNEMOTO KNIVESというナイフ、根本朋之という人物、ナイフというジャンル、そのいずれかもしくは全部が好きだ、という気持ち、これに尽きるのだと思います。
あるでしょ。
どれだけディスっていても、抑えようもなく愛が滲み出てくるものって。
太宰治という作家がいます。
僕にとっては、その小説を通して文章の書き方を教えてくれた、とても大きな存在なのだけど、この人、煽りの文章を書く天才だったんです。
その最たるものは、最晩年に書かれた『如是我聞』というコラム。
文学界への論評の形をとりながら、彼をくさしてきた海外文学者や志賀直哉のことを返り討ちにすることに多大な情熱を傾けられているんです。
これ、めちゃくちゃ秀逸なBEEFになってますよね。
全編この調子なんで、すげーやと笑いながら読むんですけど、だんだん泣けてくるんです。
行間から彼が身を捧げる「文学」への祈りにも似た熱い思いが滲み出てくるから。
文学への愛。
その一点だけで、太宰は「論評」を通して、文学の素晴らしさを永遠に伝え続けるエッセイをものにしちゃったんです。
だって、僕、これ読んでから、志賀直哉の小説読みましたもん。ここまでくさすって、絶対なんかあるでしょって。
すごいじゃないですか。
没後数十年経ってから読んだ少年に、当時ディスった相手の作品を読ませるまでの(ちょっと歪んだ)「愛」。
僕にとって、論評や批評で、真っ先に頭に浮かぶものって、この『如是我聞』になります。
(僕たちが書くときは、相手に敬意だけは払いましょうね 笑)
好き、は、必ず、通じます。
きっと、誰かがどこかで、反応します。
そして、我々とどこかで、邂逅します。
それを信じていれば、論評という作業にも意味が生まれます。
文字は、遠くへ行きます。
現物を見たことがない人のところへ。
ナイフの世界を知らなかった人のところへ。
その論評が「好き」や「愛」をベースに書かれている限り、きっと、その真意は伝わります。
もちろん、サークルの内側にも視線は向けられます。
論評されることで作者の作品は洗練へと進みます。
さらに幾つもの議論が生まれ、新たに論評が出てくるようになる。
裾野は広がるけれど、深度も増していきます。
文化として厚みが出る、ということです。
そうすっと、いいナイフたくさん出てきます。
手にするチャンスもたくさん生まれてきます。
それ、楽しいだろうな、気分いいだろうな、と思います。
だって、自分が頑張って自分の心地いい状況をつくったんだもん。
もちろん、そんな簡単に物事が進むわけないはずです。
だから、どんどん自分の好きなものを論評したり、議論したりしましょう。
なんかお手伝いできることがあったらします。
ていうかここでもXでも声かけてください。
最後に、素晴らしい論評を寄せた皆様。
そして、Xでのやり取りから、ここまで楽しく意義ある企画を考え、自ら動かれた根本朋之さんに、精一杯の敬意と感謝を捧げます。
2024/10/26
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