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刃物専門編集者の憂鬱 その23「関のナイフと刃物産業」


こんにちは。「編集者&ライターときどき作家」の服部夏生と申します。
肩書きそのままに、いろいろな仕事をさせていただいているのですが、ちょっと珍しい「刃物専門編集者」としての日々を、あれこれ書いていこうと思います。

 今回は今、制作&執筆中の書籍のために書いている原稿の(素材の)一部を上げます。
 どんな本になるか、時期がきたらお伝えさせてください。

刃物の町、関


 岐阜県関市は「刃物の町」として、世界に知られる。

 関市が公表する『令和4年度 関市の工業』を紐解くと、2020(令和2)年の刃物出荷額は456億円、うち輸出が117億円。同年の日本全体の「刃物」の輸出額は約222億円だから、半分以上を関市の製品が占めている。

 「刃物」の内訳はカミソリ・替刃、包丁でほぼ半分、ハサミ、爪切りなどが続き「ポケットナイフ」は全体の3・2%となっている。出荷額は円高によるバブル経済の到来を呼んだ1985(昭和60)年のプラザ合意や、2008(平成20)年のリーマンショックといった荒波を受けるたびに売り上げを大きく落としてはいるものの、リーマンショック後の2009(平成21)年の322億円から大幅に売り上げを伸ばし、平成初頭の水準にまで戻しているのは、驚嘆に値するだろう。

 日本のものづくり産業すなわち製造業全般は、リーマンショックやコロナ禍による打撃を受けたものの、経済産業省による『2024年版ものづくり白書』に、依然として「我が国経済を支える中心的な産業としての役割を果たしている」とあるように、堅調な売り上げを維持している。

 数字を見る限り、関の刃物産業も、日本のものづくり産業全体と同じように「復興」へ向かっているように感じられる。

 ただし、課題は明確に存在する。人材の不足である。

 ものづくり企業が直面している経営課題について、『2024年版ものづくり白書』から引用してみよう。

『大企業では「価格競争の激化」(43.0%)と回答した企業割合が最も高く、次いで「人手不足」(41.9%)、「人材育成・能力開発が進まない」(40.9%)が続く。中小企業では、「人材育成・能力開発が進まない」(42.8%)と回答した企業割合が最も高く、「人手不足」(42.2%)、「原材料費や経費の増大」(32.1%)と続いており、企業規模に関わらず、人材育成・能力開発にも課題を感じているものづくり企業が多い状況がうかがえる』 

 関市においても、刃物に関連する4人以上の事業所の数は、1970(昭和45)年の1078に対して2020(令和2)年には86と大幅に数を減らしている。従業員の数も減っており4579人から約6割の2748人にまで減っている。

 雇用促進奨励金などの行政の後押しもあり、リーマンショック後、従業員数は増加傾向にあるようだが、関市の刃物産業は、人手不足と後継者育成を解消するという課題が今なお残されている。


戦後から現在に至るまでの軌跡 


 課題こそあるものの、約800年前に日本刀の生産地として知られるようになって以来、関は途切れることなく「刃物の町」としてあり続けてきた。
 今回は、中でも戦後からの刃物、特にナイフの産地としての関にフォーカスをしているが、この分野において、ここまで伸びてきた理由を、関の刃物卸会社・井戸正の取締役会長をつとめる井戸誠嗣はこう語る。

「ある種の『嗅覚の良さ』に尽きるように思います。世の中の需要を敏感に読み取り、高い技術で応えてきた。その結果が、生産される刃物の品目の多さに現れています」

 世界に冠たる多品種製造を支えるのは、つくり手たちの技術に他ならないと井戸は続ける。

「昭和30年代にドイツのゾーリンゲン製のナイフを輸入した頃のことを思い出します。その頃はデザインから切れ味まで、ゾーリンゲン製品のクオリティの高さは抜群でした。『とにかく、ゾーリンゲンに追いつき、追い越せ』という時代でした。ただ当時から関の刃物は、高級品から廉価な製品に至るまで『刃付け』のレベルが非常に高かった。だから、機能性と美しさが共存したデザインの要素を付加するだけで、関のナイフのレベルが飛躍的に上がったのだと思います」

 ここで出てくるゾーリンゲンについて簡単に説明しよう。
 ゾーリンゲンとは、デュッセルドルフにも近いドイツの刃物産地である。イギリス・シェフィールド、関と並ぶ世界の三大刃物産地「3S」として知られる。

 同地が刃物の街として知られるようになったのは、700年ほど前のこと。山が多くブッパー川に代表される水の豊かである地の利を生かして、多くの水車が設けられ、職人たちがそれを使って金属製の刃を研ぎ上げていった。比較的近くにあるケルンからライン川の水運を利用して各地へと製品を届け、さらにそれらがフランスをはじめとする他国へと輸出されていくに連れて、その技術の高さが知られるようになる。

 14世紀には職人たちのギルド、すなわち同業者組合ができ、刃物の町として強固なシステムが出来上がっていく。産業革命期も乗り越え、現在も同地発のグローバル企業の数々が高い水準の刃物を世界に送り出している。

 日本において高度経済成長期の頃「ゾーリンゲン」は高級刃物の代名詞だった。

 昭和40年代の空気感を東京の刃物店・銀座菊秀のオーナー、井上武はこう振り返る。

「当時、一般的に売られているナイフって『登山ナイフ』と呼ばれている日本の関製のナイフ、あとはビクトリノックスやウェンガーのアーミーナイフくらいでした。高級品とされていたのは、ドイツのゾーリンゲンのナイフ。ピューマとかが3万円くらいで売られていました」

 日本の関でナイフが作られており、市場に出回っていたが、高級品と位置付けられるものはゾーリンゲン製だったことが端的に語られている。

 井戸の「追いつき、追い越せ」が実現していった大きな要因のひとつとして、米国のナイフファクトリーの製品を手がけるようになったことが挙げられる。尾上高熱工業の創立者であり、技術アドバイザーとして関の刃物の発展に大きく貢献した故・尾上卓生の言葉を紹介しよう。

「現在のジー・サカイが、ガーバーからの依頼に応えてオリジナルデザインの『シルバーナイト』を完成させた時のことはよく覚えています。ブレードのリカッソ(筆者注:刃の根元に設けられた平らな部分)に『GERBER』。もう一方の面には『SEKI, JAPAN』。ナイフに限らず当時の日本製品は『安いが、品質は今ひとつ』と言われがちだったところに、世界を代表するアメリカのファクトリーが自社製品に『日本製』と刻印したんです。

 故アル・マーさん(筆者注:当時ガーバーのデザイナーをつとめたナイフ作家。シルバーナイトのデザインも担当した)をはじめとする多くの方々の大きな力添えもあって『関ナイフ』は世界でも高く評価されるようになっていきました」

 いくつかの言葉を

 ジー・サカイは関を代表するナイフファクトリーとして現在も広く知られている存在である。そして、ガーバーは米オレゴン州で1939(昭和14)年に創設されたナイフファクトリーである。アウトドア、ミリタリーの分野で絶大な信頼を寄せられるナイフを送り出し、世界的なブランドとなった。フィンランドのフィスカーに買収された後も、人気を維持し続けている。

 そんなガーバーの「フォールディング・スポーツマン」をはじめとするモデルは、昭和40年代の日本のハンターやアウトドア愛好家にとって垂涎の的として知られていた。米で1902(明治35)年に創業し「#110(ワンテン)」というメガヒット作を生み出していたバックと同じく、精緻かつ丈夫なつくりに加えて、機能的かつ美しいデザインが革新的だったのである。

 ゾーリンゲン一強の時代に風穴を開けるような米のファクトリーナイフ。

 その一角を占めるブランドの製品を、関の工場が手がけることは、まさに革命とも言える快挙だった。当時のことは「シルバーナイト」実現の道筋をつけた功労者、故・和田榮が創設した会社の後継にあたるファスナーズ・メールオーダー・システムのホームページに詳しく書かれているが、紆余曲折を経て、1970年代後半の発売以降、200万本以上を売り上げた大ヒットモデルとなった。

 「SEKI, JAPAN」の刻印がものをいった。

 「日本の関」の製品は品質が良い。高評価が業界内で広まることで海外のメーカーからの仕事が舞い込んでくるようになってきた。そのような現象が関の各所で起こっていたのだが、ここではナイフに限って、関市史(*)の資料を紐解いてみよう。

 「ポケットナイフ」の年次別生産高を見ると、1960(昭和35)年は約7億円だったのが、65(昭和40)年には17億7千万、74年(昭和49)年に一気に跳ね上がって24億3千万、78(昭和53)年に40億円の壁を超えている。前述した井戸の語る「嗅覚の良さ」が遺憾なく発揮された証左となるだろう。

 ちなみに井戸はこうも語っている。

「今や、ゾーリンゲンに本社を置く世界的ファクトリーのハイエンドモデルの包丁はここ関でつくっているほど。『世界最高峰』の品質として認められているのが、現在の関ナイフです」

 その言葉通り、バブル景気直前の85(昭和60)年に55億4千万という最高額を記録し、同景気の崩壊が始まった90(平成2)年には34億円にまで一気に落ち込むことになるのだが、包丁の生産高が増加することで刃物や金属類の総生産高は、大幅に落ち込むことなく推移していく。

 ゾーリンゲンに本社を置くツヴィリングは2004(平成16)年から関に自社工場を設立している。ツヴィリング J.A. ヘンケルス ジャパンの代表に14(平成26)年に行ったインタビューにおいて、その理由が語られている。

「以前も日本の工場に製造を依頼してはいました。(関の自社)工場設立は、より高いクオリティの製品を作ろうと考えての決断でした。当時、和食の人気が盛り上がっていたことがあり、欧米諸国での『和包丁』の需要が伸びていました。(中略)和食による使いやすい包丁は、日本でつくった方がより良いものとなるだろう、和の技術を取り入れた包丁こそ世界的に必要とされている、と判断したのです。(中略)結果は吉と出ています。作り手たちの技術は驚くほど高いものです。品質管理のレベルも非常に高い」

 関の刃物関連の作り手たちの技術の高さは、現在に至るまで世界のトップクラスを維持し続けているのである。

(*)=『新修 関市史 刃物産業編』(1999年、関市教育委員会・編集、関市・発行)

参考文献:
『ナイフマガジン』2014年2月号 No.164(ワールドフォトプレス)
『ナイフマガジン』1997年10月号 No.66(ワールドフォトプレス)
『ツヴィリング読本』(2014年、ワールドフォトプレス)
『日本のカスタムナイフ年代記』(2024年、服部夏生・著/井上武・監修、ホビージャパン・発行)
*引用した方々のコメントは、全て筆者が掲載当時にインタビューしたもの

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