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記念日

*「夏へのトンネル、さよならの出口」のネタバレを含みます。


 スマホのアラームが鳴るより先に、暑苦しさで目が覚めた。

 ベッドから上体を起こす。時計を見ると、六時半だった。カーテンの隙間から朝日が差し込み、セミの鳴き声が聞こえてくる。トレーナーの襟元をぱたぱたしながら、僕はアラームを解除した。二度寝するには微妙な時間だった。
 寝室からダイニングに移ると、むわっとした熱気が全身を包んだ。
 暑い……もう九月なのだから、いい加減涼しくなってほしい。
 エアコンを点けて、カーテンを開ける。それからキッチンに入って、食パンをトースターにセットした。焼き上がるまでの時間で、顔を洗い、歯磨きを済ませる。東京に引っ越してからもうじき二年、朝のルーチンは効率化が進んでいた。
 焼き上がったパンにバターを塗っていると、花城がダイニングに入ってきた。ヘアバンドで髪をまとめて、額には冷えピタが貼ってある。目の下には、うっすらとクマができていた。いかにも漫画家らしい姿だ。
 僕は挨拶をする。

「……おはよう?」
「おはよう。私は今から寝るけど」
「相変わらずぐちゃぐちゃだね、生活リズム」

 花城はキッチンに入ると、てきぱきとシリアルを皿に盛って牛乳をかけた。それを持って、食卓のテーブルに着く。僕も自分の朝食をそちらに運んで、花城の正面に座った。
 同棲を始めてから、二人で決めたわけでもなければ、暗黙の了解といえるほどでもない、ささやかなルールが僕たちのあいだにいくつか生まれた。そのうちの一つが、「朝ご飯のときはいただきますを言わなくてもよい」だ。そんなわけで、僕たちは何も言わずに食べ始めた。
 パンをぱりっとかじる音、フル稼働するエアコン、タイマーを設定していた洗濯機、そして花城の「ふわあ」というあくび。そんな小さな音たちが、僕たちの食卓を満たしていた。

「ねえ、花城」
「ん」
「朝ご飯って、朝に食べるから朝ご飯なのかな。それとも、起きてすぐ食べるご飯なら夜でも朝ご飯になるのかな」
「現実の時間と体内時計、どっちを基準にするかって話?」
「まぁ、そんな感じ」
「う~ん、じゃあ後者じゃない? 英語の話になるけど、ブレックファストってたしか断食を破るみたいな意味だったし。朝って言葉は入ってない」
「おお、博学」
「それほどでもあるね」

 ふふんと自慢げに笑う花城。
 僕はバタートーストをたいらげて、牛乳を飲む。いつもより少し早起きした分、ゆっくりできそうだ。リモコンでテレビを点けると、天気予報をやっていた。お天気キャスターが今日の最高気温は三五度だと伝える。まだまだ秋は遠い。
 ――現実の時間と体内時計、どっちを基準にするかって話?
 花城の言葉が反芻される。
 朝食が体内時計を基準にするなら。
 僕の年齢も、戸籍の三二歳ではなく、体内時計を基準にした一九歳が正しいということにならないだろうか。

 *

 花城とウラシマトンネルを出てから、二年が経った。
 まさに激流のような二年だった。いや、だった、ではない。今もなお、激流の日々が続いている。ウラシマトンネルに潜っていた空白の一三年間を、がむしゃらに埋めようともがいていた。
 僕は高卒認定試験を受け、今は近所のスーパーで働いている。花城の収入だけでは生活が不安定だし、ずっとヒモのままでいることにも抵抗があった。最近は夜にも週三でバイトを入れて、資格取得の勉強もしている。

『働きすぎじゃねえの』

 と電話の向こうで加賀が言う。
 仕事の休憩時間、僕はスーパーの裏で加賀に電話をかけていた。

「仕方ないよ。履歴が真っ白な三二歳じゃ、たくさん稼ぐのは難しいんだ」
『売れてんだろ? 花城せんせの漫画。俺の甥っ子も読んでる』
「花城が聞いたら喜ぶよ」
『書店でよく見かけるし、そこまで生活が厳しいとは思わないんだけどな』
「まぁ、花城も大丈夫だとは言ってるよ。でも……これは本人には言えないけど、やっぱり漫画家って不安定な職業じゃない? だから男である僕がちゃんと稼がないと……」

 はあー、と加賀は大きなため息をついた。

『あのなぁ、カオル。もうそういう時代じゃないんだ。お前が負い目を感じる必要はないし、花城だってお前が身体壊したら悲しむだろ』
「それはまぁ……そうかも」
『かもじゃねえよ。お前がトンネル出るまで何年間も待ってたんだろ? それだけ重い女なんだから、お前が倒れたら仕事ぶん投げかねないぞ」
「重いとか言うな」
『とにかく、俺が言いたいのは無茶すんなってことだよ』

 どうやら心配してくれているらしい。
 何年経っても、加賀は変わらない。高校生のときと同じように、あるいはあのとき以上に、僕に気を使ってくれる。そう思うと、頬が綻んだ。

「肝に銘じるよ。ありがとう」
『別にいいけどよ』
「じゃあ本題に入るんだけどさ」
『今までの本題じゃなかったのかよ』
「記念日って、何を渡せばいいと思う?」

 *

『なんでもいいんじゃない?』

 スピーカーフォンに切り替えたスマホから聞こえてきた返事に、私はちょっぴり失望した。
 ネーム作業がキリのいいところまで進んで、小休憩を挟んでいたときだった。不意に今日が『記念日』であることを思い出して、そして私がなんの準備もしていないことに気づいて、慌てて小春に助けを求めたのだ。

「もうちょっと真剣に考えてくれない? 本気で悩んでるんだけど」
『そう言われても……塔野のこと、よく知らないし。ていうか、本気で悩んでるならどうして記念日当日の夕方にかけてくるわけ? そういうのって、事前に準備しとくもんじゃない?』
「それはだって、さっき思い出したから」
『大事な日ならちゃんと覚えときなよ』

 返事に詰まる。正論だった。
 高校生の頃に比べて、小春はずいぶんとはっきり言うようになった。初めて会ったときは、ほんとどうしようもないいじめっ子だったのに。もちろん、今はもう気にしていない。彼女の仕打ちは、私の本気パンチでとっくの昔に清算されている。

『でもまぁ、そうねえ……やっぱり、二人で楽しめるものがいいんじゃない?』
「というと?」
『食べ物とか? 二人の記念日なんだから、分け合えるものがいいと思うよ。あと、あんまり高いものはやめといたほうが無難だね』
「どうして?」
『だって、気ぃ使わせちゃうじゃん』
「なるほど、たしかに……塔野くん、無駄に重く受け止めそうな気がする」

 素直に感心した。
 こういうとき、人生経験の差を思い知らされる。それはそうだ。私がウラシマトンネルに入って膨大な時間を費やしているあいだ、彼女は着実に自分の人生を歩んでいたのだから。もはや肉体でも精神面でも、小春は私よりもはるかに大人だ。そう考えると、小春のことが頼もしくなる。同時に、置いていかれたような寂しさも、ちょっと感じる。

『ところで、いつまで塔野のこと名字呼びしてんの?』
「え?」
『一緒に暮らし始めてもうだいぶ経つでしょ? 塔野もだけどさ、そろそろ名前で呼び合ったらどうよ。じゃないとそのうち困るよ』
「困るって、なんで?」
『そりゃあ、いつかは同じ名字になるんでしょ?』

 う、と私はたじろぐ。
 こんなことで動揺してしまう自分が少し情けない。

「一応、名前で呼び合う練習はしてるから……」
『練習! ウブすぎて泣けてくるわ……。あんずって、ウラシマトンネルに入ってた分を差し引いてもピュアすぎ――』
「う、うるさいなあ! 訊きたいことは訊けたからもう切るよ」
『はいはい、じゃあ頑張ってね~』

 通話を終了した。
 椅子の背にもたれて、ふうと息をつく。雑に終わらせてしまったけれど、ちゃんとアドバイスをもらえた。小春には感謝しないと。
 食べ物で、分け合えるもので、あまり高くないもの……。

 よし、決めた。

 *

「ただいま」

 時刻は一九時半。我が家であるマンションの2LDKに帰ってくると、珍しく花城が玄関まで迎えに来てくれた。

「おかえり。待ってたよ、塔野く――ん?」

 花城の視線が、僕の右手に止まる。

「それ、何?」
「ああ、これ? 実は……」

 僕はレジ袋からその箱を取り出して、花城に見せびらかした。

「ケーキ、買ってきたんだ。今日は記念日だから」

 花城は驚いたように目を瞬いた。
 ちょっとしたサプライズだ。花城は忙しくて記念日のことを忘れていただろう。喜んでもらえたかな……。
 ドキドキしながら花城の返事を待っていると、彼女は何も言わず、慌てたように廊下に引き返した。
 え、と僕は呆気に取られる。どうしたんだろう。
 不安になりながら玄関で立ち尽くしていると、花城が戻ってきた。両手には、僕が持っているものと同じような箱がある。

「私も買ってきちゃった……」
「え、じゃあ二人ともケーキ?」
「そうみたい」

 僕と花城は顔を見合わせて、同時にあははっと吹きだした。そのまましばらく笑い合った。
 それから僕と花城は、二人で夕食を食べて、皿を洗って、コーヒーと紅茶を淹れて、いざケーキの箱を開けた。二人とも小さめのホールケーキだった。
 誕生日でもないのに、それぞれのケーキにろうそくを二本立てて、部屋の照明を消した。ろうそくの小さな明かりの前で、僕と花城は肩を寄せ合った。

「じゃあ、ウラシマトンネルを抜けて今日で二周年ってことで」
「うん。これからもよろしくね、塔野くん。……いや、カ、カオル……」
「え、何? カカオ?」
「……バカ」
「冗談だよ、あんず」

 ふーっ、と僕はろうそくを消した。
 真っ暗な部屋でも、花城の顔が赤くなったことは雰囲気で分かった。

 


映画夏トン、二周年おめでとう!




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