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「私」は「私以外」である。

何を言い出すんだこいつは、と思ったかもしれないがまぁ暇潰しにでも聞いてほしい。

昨今、「自分を大切にしよう、自分のために、自分の思う通りに生きよう」という風潮は基本的に肯定的に捉えられていると感じる。自分が生きるにあたり、まず自分ありきなのだから当たり前と言えば当たり前だ。だがそれは時に、「私」にこだわり過ぎる、執着して疲れてしまうという状態に陥ることもあると思う。

私も過去、「私」にこだわり過ぎていた時期があった。とにかく私の時間を他者に邪魔されたくなくて、邪魔されると「私の貴重な時間が奪われた」と不機嫌になったりしたものだ。他にも例えば、「私のモノ」にこだわり過ぎて、それを他者に触れさせまいと必死になって守る人も居るのではないだろうか。「私」が大切過ぎて、ちょっとしたことでも許したくない、侵されたくない、と変に神経を削ったりイライラしてしまうのは本末転倒とも言えてしまう。

そこで考えてみる。「私」というのは本当に唯一無二、断固死守しなければならない至極の概念なのだろうか?


まず「私の身体」について考えてみよう。
私の身体は私のモノだろ、と思うかもしれないが、身体の構成成分は私が食べてきた動植物達である。また一番初めの個としての私の細胞でさえ、父と母の細胞の一部でしかない。つまり「私の身体」でありながら、その中に私由来のものは別に何もないのである。

また「私の思考」についても、考える機構である脳は先述したように元々父と母の細胞からできたものである。そこからの成長についても、父母、兄弟姉妹、近所の人や友達、先生、出会ったテレビやゲーム、アニメ漫画小説映画その他創作からの影響を多分に受けている。逆にここに、「私由来の私だけの思考」なんてものがいつ入り込む余地があるだろうか?全ては周りからの影響であり、「私の思考」等というものはそれらが作り上げた余白部分みたいなものだ。

そう考えると、「私」というのは実は「ありとあらゆる他者」によって構成されるもので、「私」の中に「私」は存在しないのだ。「私」というのは「私以外」なのだ。

…と、考えると「私」への執着もだいぶ薄れるのではないだろうか?
ただ気をつけたいのは、「私」を丸ごと手放してしまえ、自分の意志を捨てろ、ということではない。今こうして文章を綴る私は確かに「私」として存在しているものだし、生きているというのも真実なのだから。

例えば極端な例だが、ブラック企業でハラスメントを受けながら「私は私じゃない私は私じゃないから大丈夫」と言って留まり続けていたら明らかに不健全だ。あくまでも自分への執着を捨てる、というくらいが大切だと思う。

「私」にこだわり過ぎて疲れてしまっている、不幸に感じることが多いかもしれない、と感じた方は1日だけでも「私は私以外だし」と「私」を手放してゆっくりするのも良いのではないだろうか。

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