※再寄稿 ④45坪のオールウェイズ第二章「私のパリ(トーキョー)便り」 ②「シブヤ・ラママの誕生・そしてニューヨーク・ラママとは?」
三文字は最初の奇跡・ラママ
季の雫 1
黄昏時もいいが、私はやはり窓越しに見る朝焼けのレンガ色の風景が好きである。
その時、かけっぱなしのCDの好きな曲を、思い切り空気のように吸い込む。最高である。
静寂の中窓越しに一人の足音、二人目の足音、やがて多くの人達の通り過ぎるざわめきが、刻が過ぎゆくことを教えてくれる。
8時ともなれば人々は溢れ、更に賑やかさも隅々にまで満ち々てゆく。これが都会の日常というものであろう。
あの上野毛の遠い昔の出来事から45年、確かにあり得ない程の不思議な1日ではありました。
今思えば、そんな日もあったと笑ってしまうが、きっと田舎者への、大都会からの軽いジャブだったのかもしれない。
ラジオに切り替える。相変わらずこの一年コロナウイルスの凄まじい猛威を伝えている。
窓越しの風景も賑やかな都会のざわめきも、何もかもおかしい!ラママもこの4、5、6月の三ヶ月間休業である。
TVに写し出された、渋谷スクランブル交差点の人通りも随分少ない。
ライブハウスに至っては、コロナウィルスの巣窟らしい。殆ど専門的な対策法も指導もあまりないまま、ただワンパターン。三密、三密の一点張り。ならば素人なりに考えるしかない!
先ずオゾン発生器を買い込む。深夜8時間吹きっさらし状態(殆ど無菌状態になるらしい。人も殺られるので気をつけること)で使用する。
問題は営業中!飛沫感染が危ない!!
舞台と客席は2メートル離しなさい。扇形のステージのラママでは、壁まで後3~4メートルしかない!客と客とは、1メートル離しなさいと指導がはいる。しかし私にとっては全く説得力がない。彼等は、マネキンじゃあるまい。
それに定員の10分の1も入らない!ましてや大声はまかりならぬ!
お葬式の木魚を、有り難く涙ながらに下を向き、ひそひそ話しながら聞くわけじゃあるまい。そんな所に誰が金払って来るものか。感情の高ぶりを、その思いの全て吐き出し、共有しあってなんぼの商売。いっそ完全保証の完全休業すればいい。
飛沫以上にもし空気感染するならいくら離れても、アクリル板の衝立を立てても小さな室内では、まず感染防止は無理!
唯一換気のみが防止策!!
店内換気扇の再強化。
女性の方から吸い込みが強過ぎて、扉が開かないと苦情がくる程。あとは、本番中の徹底した噴霧器攻撃(6台)である。勿論マスク、手消毒、体温チェック(バンドメンバー、ラママスタッフ、客全て)、更に徹底的にやり尽くす。これが素人がやれる目一杯なのである。
マスクをして街を歩く(人流)だけなら問題はなかろう。今のところ、ラママ内部からはクラスターどころか一人も感染者はでていない!
今、終息の見えないコロナ禍のなか、例えば“あさきゆめみし、えひもせず”などと伯楽的な事を私も言っていられなくなってきた。
ライブハウスのこの惨状! しかし過ぎれば陽は、今朝の日差しのように輝きを増しながら必ず降りそそぐ。
あの18才のパリ行き列車で夢見ていた自分を思い、気持ちを奮い起させ、再度“夢翔”してみるしかないのではないか。
今は心おきなく語り合える友人もいる。優秀なスタッフもいる。何より多くのスタッフ、アーチストで創り上げたラママである。
他のライブハウスの現状を見ても、社長, スタッフ全員必死である。とにかく耐えるのみ!悔しいが心底そう思えてくる!
季の雫 2
昨日ニューヨークのラママから、11月7日ニューヨーク・ラママ生誕59年のアニバーサルイベントに、色々参加してほしいと連絡が来た。
来年の6月には、20億円かけて改装中の劇場が完成するという。 多分コロナの為完成時期は、遅れるだろう。ただ完成パーティには、何かしらしなければならない。
NY・ラママもコロナ禍の中、夢翔し続けている。
夢を抱き続ければ、羊さえ空を舞う。私も再び翔(かけ)巡るしかないのである。
話題を変えよう! ここでニューヨーク・ラママとシブヤ・ラママの話しを少し詳しくしましょう。
ニューヨーク・ラママはマンハッタン橋の近く、イーストヴィレッジ3丁目に居る。
現在、大中小の劇場を所有し、世界70カ国以上から、まだニューヨークでは知られていない、アーチスト・作品群を紹介し続けているプロデュース企画集団である。
過去2度のトニー賞を初め、数々の賞を受賞、世界的にも名のある制作集団でもある。
(上)エレンスチュワートシアター
(下)中劇場 他リノベーション中劇場あり
アル パチーノ・ロバートデニーロ、劇作家のサムシェパード・ランフォードウィルソン等、特に日本文化には造詣が深く、寺山修司、東由多加(東京キッドブラザーズ)、安部公房、舞台美術家の朝倉摂、倉本聰、前田順(敬略)などそうそうたるメンバーとの交流の中で、日本文化・日本人の感性をニューヨークに紹介してくれていたのである。
またオーナー エレン女史は、日本のミュージカル(東京キッドブラザーズの黄金バット)をニューヨーク・オフブロードウェイで紹介(大好評!日本でも大変な話題となる。
日本オリジナルミュージカルを初めて本場での公演に導き、その先駆者となった女性である。野球で言えばラソーダと野茂、いやそれ以上かな。
また来日公演した“ブルーマン”もラママ発。自身も“トロイアの女”を演出。語り草になる名舞台。その全てを、ニューヨーク・ラママそのものを率いた人物が、エレンスチュアートという伝説的な女性なのである。
また、特筆すべきは60年近くのNYラママの歴史を語るアーカイブ・ミュジアムルームである。
ラママで公演された全ての記録(衣装、大道具、ポスター等)膨大な資料が館内に保存されている。
季の雫 3
〈シブヤラママの誕生〉
1982年5月10日
場所 渋谷区道玄坂1-15-3プリメーラ道玄坂に45坪の小さなステージハウスとしてオープンする。
ラママの命名のエピソードから始めよう。
私自身、世界的に由緒あるN Yラママを率いるエレン女史とは全く面識もなく、ただ、彼女の創造、創作への情熱と、その理念に感動したのです。
ライブハウスらしくないという反対を押切っての命名でした。
しかしこのラママという三文字が、39年のシブヤラママの歴史を支え続けてくれている。ある意味奇跡に近いことだと思う。
その最初の奇跡が次の出来事である。
それは突然やって来た。1984年、けたたましく電話が鳴り響く!
まさにドキッとする瞬間。人生この突然ドキッという出来事によく出くわすのであるが、この時もそうである。
受話器を取るとソフィスティケイトされた女性の声で、“西武の文芸員ですが、今度ニューヨークのラママのオーナーエレンスチュワートさんが来日”するというのである。
山崎努 小川眞由美 原田芳雄 他出演
寺山修司さんの一周忌と、彼の最後の映画作品 “さらば箱舟” 完成記念の為来日されますが、お会いになりますか?との事。
特別な感情を込めて、“勿論、是非!”と返事したのを思い出す。彼女は“はい、わかりました。ではエレンに伝えておきます”と言って電話を切った。
はて?西武の文芸員の方がどうしてこんな電話を?まだまだ公に宣伝もせず、もちろん世間に認知もされていない。
わずか45坪のライブハウスにあのエレン・スチュワート女史が何の興味を示してやってくるのか?
確かに名前はシブヤ・ラママ、ニューヨーク・ラママ、三文字は同じではあるが・・・。
考えても仕方ない。
とにかく彼女のための5日間の特別イベントを企画したのでした。。
勅使川原三郎(ダンサー、俳優・演出家)、 近藤等則&ヒグマ春夫、 ぽっこわ・ぱ(マイム)、 大江戸助六太鼓(邦楽)、 奥山恵介(人形劇)、 江原朋子(ダンスパフォーマー)、 ハネムーン(ロックバンド)、 トシライブバンドシノラマ(パーカッション・尺八、) 水玉消防団(ロックバンド)、 岡本文弥、 天鶏(舞踏) そしてブレークダウン・近藤房之助(ブルース)。
といかにもラママらしいオールラウンドのジャンルからよりすぐったアーチスト12組。
アバンギャルドな強烈な個性と実力の持ち主がメインのイベントでした。
さて当日、エレン女史が介添人の肩を借り、ラママの急な階段を足を引きずりながら降りてきました。
最初の印象は“東京にラママが?”と少し憮然とした表情でした。
私は恐縮し、少年のようにドキドキしながら、この手作りの我が家の扉を、建て付けの悪いあの古びたドアを開けたのである。
その瞬間、鼓膜が破裂する程の強烈な音圧!ケレンミのないストレートなサウンド!激しいVoのシャウトがいきなり全身に飛んできました。
水玉消防団、女性のバンドながらパワフルで暗い空間が吠えまくっています。
さすがの彼女も何事かと驚かれたようですが、目が馴染むにつれて、小屋を見渡し、演出家としての感性に何かが触れたのだと思います。
さっきの硬い表情は消え、ニッコリ微笑んで“あなたがオーナー・・・!”と好奇心に満ちた、そんな表情に一瞬で変わったエレンを覚えています。
決して豪華ではなく、ひたすら手作りながらもアイディアに満ちた45坪の空間に、彼女は何かを感じてくれたのでしょう。
勿論当日のステージも熱かった!
終演後エレンを囲んで出演者共々語りあったのが懐かしく思いだされる。そして、なんと水玉消防団・Vo天鼓さんの弟さんが、NYラママのスタッフと言う事であった。
幸い俳優として東京の大小の劇場舞台を踏んだ私としては、経験を生かして既存のライブハウスにはない劇的空間に仕上げたつもりでした。
我々には豪華さで差別化できるほど、金もありません。全て手作りとアイディアが勝負でした。
題してラママ アズ ア ドラマチック スペースとキャッチ・コピーしました。
そしてこの小屋の作りは、Kやん氏(いかなる人物?別の章でお話ししましょう。)との共同作業、連日連夜の徹夜作業。45㎝ステージを前に出す出さないで大喧嘩、今は昔の懐かしい話である。
この頃のことはまたどこかで語りましょう。
彼女は、帰り際に私のところのスタッフにもこの小屋を見せたいものと言っていただき、どれほどの勇気が湧いた事か。
多分、金のかかった綺麗な空間であれば、彼女は黙って帰っていったと思います。
そして正式にラママを拝名したいという私の申し入れに、彼女はにっこり笑って応えてくれまた。
“はたの、自分の思った事、夢に向かって思い切りやりきるのが正しいのです” と言ってくれました。まさに夢翔である。
ドリーム カム トゥルーよ!と力強く言う彼女に、若きNY・デザイナーとして廊下のような空間からスタートした彼女自身と、あの時のシブヤラママ空間は、重なる何かがあったのかもしれません。
それまではママもいないのに、どういう意味と突っ込まれ“45坪の母の胎内から素晴らしいアーチストを輩出する”という意味なんだ、と説明してきたことをエレンに話したら、大笑いしていました。 エレンは “はたの、そうだよ、そうだよ” とも。
パパは居るから、パパにしたらという奴も出てきて、“パパは子供を産めないだろう!”と。
しかしこれからはニューヨークラママの話題も大っぴらに言える、そのことがとてつもなく嬉しかったことを思い出す。
以後、高松宮殿下世界文化大賞受賞のため再来日され招待された時、私もエレンのスケールの大きさに驚かされたものである。
この賞は、過去レナードバーンスタイン、ベルイマン、ピーターブルック、ロイドウエバー、黒澤明、小澤征爾他素晴らしい人達が受賞されている。この話もいつか語りましょう。
ただ、今だに彼女が分刻みのスケジュールの中、わざわざどうしてシブヤ、ラママに来てくれたのか? ラママとついたよしみで見に来ただけなのか。当時エレンにも関係者にも聞かず、未だ不明。ただこの出来事は、三文字の奇跡としか思えてならないないのです。
更に別れ際にエレンのさりげなぐはたの、やりきりなさい。゙と言てくれたあの一言。
まるでドラマのような素晴らしい一(ひとよ)夜の出来事であったのでした。
Fin
「大変申し訳ありません。私の操作ミスにより最初の原稿が削除されました。順番が8の次に来てしまいました。出来れば4としてお読みいただければありがたいです。」
あの頃を思いだす、そんな夜に聴くDana.winnerのOne Moment in Timeいいよ。ホイットニーHとはまた違って丁寧に、切々と歌うところなど、、、。彼女の透き通る声質は、都会の朝焼け、クラシックもいいが一度聴いてみては。深夜大雪後のピーカン照りの眩いばかりの朝、彼女の歌を思い切り吸い込んでみる。
★そして日本の歌手では、ちあきなおみ。これ程に才溢るる歌手は、めったに出会わぬ。 (1人呟くように唄う、紅い花)。わかってください。朝日楼。別れの一本杉、説明無用、演奏者も含め一瞬にして彼女の世界にひきづり込まれる。どれか1曲を聴いてみてください。 人間性も含め、今更ながら改めて思い知る。 ラママで演りたかった森田童子同様、彼女達それぞれの決意も、悔しくも素晴らしい 生き様です
次回の45坪のオールウェイズ
第三章-今も昔も、ものがたり-①
バンドオナニーマシーンのVoイノマー氏の生き様を少し語りたい。
現在“45坪のオールウェイズ”第一章、第二章まで終わっています。45坪、、、の頭の数字が順番です。よろしければ順番にお読みいただければ嬉しいです。
頭の写真は、NYラママの入り口、そしてエレンスチュワート女史と私です。
中写真は、NYラママの劇場内部とアーカイブミュージアム。
NYラママの日本人スタッフ、かおり氏とオージィ、そして私です。NYラママにて。