【短編小説】 街
「黙っていて」と彼女は言った。
同じ夜「必要なのは言葉じゃない」と呟いた。
駅に降り立ち、隣を歩いた。
遠くない距離に住んでいた。田舎町の学校に多くの学生は列車で通った。近郊の都市から人々は流入し、日が暮れる頃に帰路へと就く。僅か30分の道程で、大都市に帰着した彼らは各々の生活の場に戻る。
街では多くの祝祭と悲劇があるかもしれない。賑やかさ。時に若さは混迷を意味する。人々は行き違い、最後には抱き合う。営みの外にいる者の孤独はより闇が深いかもしれない。
僕が住む街。彼らが素通りしていく、学校から5分程の駅に住んでいた。娯楽施設はないが、日々を営むには十分だ。静けさ。僕は社会に多くを求めなかった。自然の傍で生き、単調なリズムと時を過ごす。風が吹く。雨音を聞き、雪が降りゆくのを眺める。光の中にいると感じられる夜もある。
結局のところその小さな街で僕が触れ、見たいのは自分だけだったかもしれない。多くを会話したつもり、だった。
ある日。彼女は僕の知り合いと話し、座席に座っていた。
初対面だった。顔が見え、声が聞こえる距離で僕は座った。顔を上げ、視線を泳がせる。知り合いは僕に気づいた。会釈をし、その人は唐突に「今の話どう思います?」と訊いた。
過去に軽い相談をされたことがある。成り行きだった。当たり障りのないことを僕は言い、「気持ちが軽くなりました」とその人は伝えた。今回も列車の中で僕は何事かを言った。覚えてない、適当だ。
釈然としない表情で彼女達はいた。結局、二人は僕に礼をした。世界の平衡を保ち、僕が現れた以前と以後の感慨が何も変わらないように。寂しくなった。そんなことで一々、傷つく自分に荒涼とした感情を抱いた。
彼女の名前は、変わっていて美しい。
帰り道で自己紹介をし、好きな映画を伝え合った。どのような流れで僕らが近づいたかは分からない。同じホームに降りた。知り合いは遠くで部屋を借りているみたいだった。
「この子、ちゃんと守ってくださいよ」と別れ際、言った。
古いドラマの言い草。戸惑い、受け入れた笑みを浮かべる。守る。冗談であっても、本心にそぐわない言葉だ。甲斐性はなかった。知り合いが何でそんな風に言ったのか全く分からなかった。
夕方、言葉を途切らせないよう僕は努力し、彼女は何度か声を出して笑った。楽しかった。魔法の絨毯に乗るかのように足元が覚束なかった。不安定さえ新鮮な気分だった。部屋で簡単な食事をした。そして、彼女は帰っていった。起きる筈のないことが起きたと、感じた。香りが仄かに残った。
ありきたりなことかも知れない。こうやって記すなんてそれこそ自己満足に過ぎない。経験不足を君は笑うだろう。一体、地底に住む者は日の光に耐え得るか。
それからたまに会った。会う毎に季節は変わっていた。時を経るにつれ言葉数は減り、笑い声は遠い記憶になった。
「これからどうするつもり?将来」
彼女が尋問する。
「何かを表せればいいと思う」
声は確信だった。
再びの話題に半ば、うんざりする。
「音楽、文章、絵画?」
僕の目を見て言う。「芸術家になる?」
「自分の芯を出せれば何でも」
杞憂は僕に向けられた。何故かそれだけが僕らを繋いだ。
現実だ。未来は当然ながらここから見えない。
「あなたに自分はあるの?そんな大それた物。人が振り向くことなんて」
僕らの交流があった。彼女の顔は珍しく高揚している。試験があまり上手くいかなかったと聞いた。部屋に入り「やっと一息つける」と開口一番言った。
「頭の中にはある」と僕は言う。
言葉を導いた沈黙の長さからすれば、響きは自分にさえ軽薄に聞こえる。
空気が全てを変質させてしまう。君の声。
「そうやって皆死んでいく。形にできなければ全て嘘」
形にすれば全て嘘。
無実の者に何が分かるだろう。言葉を飲み込む。彼女を否定するのは後で良かった。僕が走り切った後で。
大家さんから頂いた缶チューハイ。
テーブルに残る一つ。
夜を早戻しするように彼女を見た。
「あなたは誰も傷つけない。それが理由、」彼女は呟く。
「嘘つけない人。嘘はつかないけど本当が分からない」
どんな顔をすればいいか分からない。
表情さえ、嘘だと言うなら。
「その時々で自分は変わるから、それが自然なんだ。人を戸惑わせたり、ある場合は傷つけたりする。人を理解することなんて不可能だと思っているし、だけど、隣にいると束の間でも思えたら良い」
微かに酔っていた。
言葉に意味を持たせたくない。
「束の間。素敵ね」
今は珍しく、彼女が笑った。
温かくも冷たい響きで、つまり何も意味してなかった。
どちらかが嘘を吐けば、より傍にいられる。
これが表現だろうか。
必然として、彼女に「好きだ」と言ったことにする。瞳は違う世界を見た。