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【感想】 映画 「エンパイア・オブ・ライト」を観て
続きを知らない。知る由もなかった。
ここが始まりで、終わりで、つまり、今だった。
人生、私は目の前にいる。
誰にも薦められない映画を、誰に薦めようかと考えていた。一週間が過ぎる。映し出される私、それらを観る私があった。日常に入り込む、フィクション。あるいは、虚構的な僕の最近の日々。
いつでも胸の中、そして、居住空間の隅々に彼らの手触りはあった。
言語化できない思い、作者の思考が成したシーン。声のない音楽。男女の視線、ふと見せる表情、時代のうねり。飛び立つ鳥は窓外を横切ってゆくだろう。
計り知れない表現だ。
僕が眠っている間の物語。
今、目覚めた後に認めた、ということなのだろう。
決して、遅くはなかった。気づけたのだから。
感慨を伝えられる、適切な時と相手がいると根拠もなく信じた。広がる彼方と僕との間に取りこぼした現実があった。勿論そうだろう。振り返れば、見過ごした人がいる。誰もが一つの生命の過ごす日常。
閉塞の人生、人格、こなす日々。やがて夜は閉じ、景色は何をも語らない。耳を傾けても、特別を誰も語り出さない。
ドアを閉め、いつも早く灯を落とす。
もし、僕の姿がスクリーンにあれば序章の序章、
何も語らない場面に過ぎない。
これが規定の世界。今日に運ばれた物たち。
プロローグ、例えば、ナレーションは次の通り。
「日々を漫然と過ごす男がいた。もう若いとも、未来があるとも言えない命。彼は、列車を見た。夕げを、煌めきを、消すことのない欲望の捌け口を帰りに持っていた。何故か、悩まされるのは暴力の余韻だった。
この可能性。自らに向けた殺意の切っ先の末、眠りを待つ。最近よく眠れていると自分では思う。これでいいんだ。暗闇に物語の萌芽を眺めるからだろう、と独りごちた」
「そして、カーテンから漏れるヘッドライトがあった。かつてと同じ、上から下へと移動する光の線。誰かの声が聞こえた気がした。
少し苦しく、それから楽になるだろう。これも学んだことだ」
私が指摘するに、聞こえるそれは誰かの声ではなかった。隣室の声。部屋に人が住むかは分からない。実在、実存するかも。幻の声の、壁を隔てた呼吸はない。あたかも彼らは映画の中の男であり、女の人々だ。
奇跡、この方に自分自身の姿を教えた人。共通項を見出だし、違った時代、国、文化にも関わらず手を取り合い、時に勇敢な行為に感動する。
仮の自由を謳歌した。虚構と現実は入れ替わり、僕は彼らに言葉を掛けられ、この信念が遠く彼らさえ動かす。証明は出来ぬが、一連のつながりは片方からの事後の結果ではない。
相互補完、おそらく、ほぼ同時に事は起きるのだ。
僕らは触れ合い、眺め、認める。
これが始まりだとしたら勇気づけられるし、終わりだと言うならカイサイを叫ぼうではないか。心のあり方。考えよう、見えぬ距離の姿を。
だが、一体、私に何があって、誰が生きるかは分からない。混乱。しかし、信じれば生命の息吹はある。感じる気配、伝わる空気がある。この文脈において、声は僕と余程近くにある頭の両側に知覚される。
何を書いているか分からないだろう、いいんだ。これが今日だ。混乱して、感動して、それでもって呼吸をする。
朝日が出る前に僕は起き出す。夜と朝の狭間の音楽を流す。どこに行くかは分かっている。まだ、先頃の映画の余波が残る。薄闇と始まりの間。朝日と、酔って自転車を押す大学生。二つの世界線は交わされるか。
スマホにサントラを取り込み、聞く。孤独、静謐と連帯が似合う音の浜辺。人混みにはマッチしない。何故か、映画の後の繁華街には。
朝の散歩、音楽を聴きながら、いつかの同級生を思い出す。気兼ねなく接してくれた女の子。隣に嫌がらずに座っていた。
それはきっと、故のない連想ではない。
「誰も見てないから」
と僕は言った。青き時代の自己弁護。
「見られたくないの?」
と声は悪戯な音色。それで一段と彼女が好きになった。再会を望み、諦め、忘れていた。正解の行いの如く。結局、繰り返す日々は僕に何も感じさせない。
あの時、確か一つの花を摘まんで、彼女はこちらに手渡した。瞬間、花葬だと言葉が頭をよぎった。例えば彼女は僕を弔ってくれるだろうし、悲しみの涙は、たった一人の為に流されるだろう。決して、一方の望みではない。
誰からも見放された運命を、こよなく温める人。誰のためでもなく自立的な姿に。軽やかな制服の季節の、罪のない思念だった。時間の流れを遡る、恣意的な妄想だろう。分かっている。
だけど、間違いなく助けになった。
ある時には救いにすらなったろう。
この人は僕の全てを拾い、終幕後、生きた言葉を、生じた感情を、共に見た景色の隅々まで空に返してくれる。それだけをいつも願った。
終わりに僕はゼロになれる。だから、生きている間は未知数でいい。
無駄じゃない。
存在なき後の世界を夢想していた。
ポストモダン。君と僕の、僕の後の世界。
映画の話をする。
「エンパイア・オブ・ライト」
サム・メンデス監督。現在公開中の作品。朝早くから館内の二人だけでスクリーンに向かう。二度目の鑑賞だった。
最近、映画の見方が変わった。
二人の、おそらく映画の中心を成す登場人物の会話が、どうも自問自答に聞こえる。「イニシェリン島の精霊」だったっけ。芸術に身を捧げたい老人と俗世にまみれ今、目にする物だけを信じる壮年。
二人の会話は、まるで一人の人間が生活する上での、志向上の相克に思えた。目指す地点が違う我々。意思だけでは克服できない現実があり、心の平穏は簡単に訪れないこと。
特に、自らの生きる時間を無為に過ごすのではなく、何かを作り出したいと意識する人間にとっては。
自問自答は時に、人を傷つける。
映画を観るようだ。
人の存在を認識するのは僕の心で、いくらかのバイアスも含めて他者の認識をしている。換言すれば僕という人間は対象の人物を脳内、あるいは自らの心の中で形として作り出す。自分勝手に人を見て、作って、内面世界に存在させる。または、させ続ける。
時に、神々しさを描写することで。
物を書くようになってから、自分の声を見定めるようになった。一つ一つの声音を捨てたくなかった。多声的、つまり、多くの声の存在に驚きと、一片の安堵がある。
そう、もう孤独ではない。あるいは、この世界にはどこにでもこれはいる。私。目を瞑ればいい、言葉がなぞる道のりに笑えばいい。
だけど、現実社会は一つきりの意思を、判然とした意見を、ひいては責任のある人格を人物に求める。
だが、少なくとも物語はこの考えにそぐわない。
僕はそうして生きられなかった。
未来のことは分からないとして、
いや、分からないこそ故に。
私は誰だって良いし、誰でもある。誰でもいいんだ、心はここにある。それを知っている。そして、自他の区別は必要ない。
人格はいつかの誰かの発明品で、とても便利。しかし、弊害も生んだ。とりわけ特定の場面において、言葉を無くすことを許さない点で。または、自己が内省する際、奥底に眠る多彩を自身が見誤う点でも。
与太話だ。
暗闇に差す一筋の光について語ろう。
映画の中の文句だ。
惹かれ合う存在はある。
「ファイ現象」を映写技師が新入りに説明する。一秒、20幾つかの静止画、フィルムを連続にスクリーン上へ写し出すことで、人間の目には継ぎ目のない動画として、それは映し出される。
つまり、闇の間を誰も見ない、いや、見ることさえ出来ない。
非常に示唆的だと感じた。メタファーのようだとも思った。現実を僕らが世界として認識する上の先天的な方策だとも感じた。物理上、認識上でも。
けど、それ以上に心打たれたのは、何もない、ということがあり得ないと思えたからだ。完全な空虚はない、色のない世界はない。完全な絶望はない。誰かはこの動きと、色を掬い取ってくれる、とそう思えた。
その様に世界を眺める。
君を一面的に見ることはしない。理想を言えば、連続した生命の過程として、僕は君を眺め続けるだろう。昨日と、明日の君は同じだ。どれだけ強く、美しくなろうと変わらない。
この感慨は言葉だけではない。一つの決意だ。不均衡な過去を通り過ぎて、今になったからこそ伝える自然な姿勢だ。
自分ではこう思っている。
二つの間、零れ落ちる物があれば、優しく教えてほしい。君が思う君の姿を。それは嘘じゃない。
認める僕自身の匂いを、自分では分からなくても。
精神疾患を患う人物が映し出される。おそらくステレオタイプではない姿。この国ではお目にかかれない表現。あるいは、僕の実像とそう遠くない所に位置する一人。
それで救われたんだ。
暴力的に強いられる性役割に苦しむ人がいる。根元的な、または社会制度上の差別意識に苦しむ人がいる。ここは彼らのための場所でないのかもしれない、と疑う日々がある。それでも、互いを求める人がいる。
これでいい、僕も彼らを求めていた。その実像を、一瞬の光が成す姿を、消えてしまうことを約束されている光を。
いつまでも自身の護符の如く彼らはいるだろう。忘れないうちに再び見て、溶け合う現実を眺め、それから、繰り返し音楽は朝方の部屋の現実を流れるだろう。
そう、僕らの現実を。
いささか誇大妄想的、混迷、誇示的な文章で、決して、これが真実なんてことも有りはしないんだろうけど、今の僕の文章だ。
どこかに行こう。始まりは再会で、終わりは終わりだから。この先、僕が何も遠ざけないことを願って。
「エンパイア・オブ・ライト」